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本年も1年間よろしくお願い致します!

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年も変わり早くも4日目。役所を始め、大抵の会社は本日から仕事始めでしょう。各社営業担当は、来週いっぱいまで、年始の挨拶回りで忙しいことでしょう。
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今年は欧州の選挙で、現政権が維持できるのか見通せず、どうも世の中騒がしくなりそうです。日本も、昨年暮れから、夏の東京都議会選挙を挟んで、衆議院選挙があるのか、あるとしたら何時なのか、予想記事が週刊誌・新聞でも取り上げられていますが、安倍首相はゴルフ先の記者質問に、(解散は)ない、ない、と笑ってごまかしているが、腹の内は誰も知らない。
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選挙があるとしたら、「都議選の前だろう」し、それを見逃したら「本年末から来年初めだろう」と推測する向きが多い。米大統領就任式以降、トランプ大統領との早期会談、プーチン大統領とのロシア会談など、挟んで本議会での予算成立を控え、慌てて選挙をする状況ではない。
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経済安定の安倍と辞任している向きはあるが、景気が順調に見えても税収は落ちている。このままいけば、製造業の設備投資は一部を除いて停滞する。
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その実感が、産廃業界の稼働率が20~40%ほど落ちている。その先にあるのは、単価競争であり、違法投棄という悪循環に陥る。製造業の排出元は、収運業者や中間処理場に任せたら、あとは知らない的な感覚が強い。本紙は、今までは中間処理場を中心にチエックしてきたが、今年からは、排出元が委託先を吟味して委託しているのかチエックしていく。違反が見えたら、本紙上で公表する。
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田中角栄(3)・砂防会館:長老が暗闘する伏魔殿!

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老朽化のため建て替えに!
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因習に彩られた建物も近代化へ衣替え!
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田中角栄に絡む色々な内幕がnetの読み物として、世の中に出てきたが、角栄時代の議員が現役から次々と去ってゆく中、沢山の政治家の内幕を見てきたであろう歴史の証人。ただ、物言わぬ証人として存在感を示していた砂防会館がついに解体される。本日で、田中角栄に関する転載は3回目。正月3ケ日の読み物としては丁度良い内容であったろうと思う。明日からは、また正常の業務になる社員の方々も、今年1年、頑張ってください。
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■砂防会館■
一般社団法人全国治水砂防協会(会長・綿貫民輔元衆院議長)が本部を置き、管理運営する。本館は地上5階地下2階建てで、昭和59年には別館A、平成5年には別館Bが完成。協会の事務局や会議室などのほかは、主に貸事務室などとして運用されている。
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2015年、結党60周年を迎える自民党を、陰で支えてきた建物が国会近くにある。田中角栄、中曽根康弘両元首相といった自民党の大物政治家が事務所を構えた「砂防会館」(東京都千代田区平河町)だ。かつては党本部も置かれ、権力闘争の舞台ともなったが、本館は建て替えのため来年4月以降に取り壊される。長老たちが暗闘し、明暗を分けた“権力の牙城”をめぐるドラマを証言で振り返る。
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「志帥会に入りたいという議員の希望はあるが、数ばかり増やしてもしようがない。一致結束が大事だ」
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自民党二階派(志帥会)の会長である二階俊博総務会長は8日、内閣改造直後、同派の在京議員懇談会でこう語った。表情には、総裁選で派閥として結束して素早く動き、林幹雄経済産業相のポストを勝ち取った自信がうかがえた。
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二階派は事務所を砂防会館本館2階に置いている。
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二階氏は9月の党総裁選で無投票再選の流れをつくった立役者の一人だ。4月に再選支持を早々と表明。8月の派閥研修会では同派議員35人の署名を集め、推薦状を作成し、安倍晋三首相に手渡した。出馬を模索した野田聖子前総務会長に対しては7月に出馬を思いとどまるよう促した。
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これに対し「無投票は国民の失望を招く」として野田氏の出馬を模索したのが、平成24年に衆院議員を引退した後も砂防会館本館4階に個人事務所を置く古賀誠元幹事長だ。
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岸田派(宏池会)名誉会長として同派に影響力を持つ古賀氏は派内中堅・若手はもちろん、他派閥へも野田氏の推薦人になるよう働きかけた。
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しかし、同じ砂防会館に陣取る二階氏に先手を打たれ、古賀氏の党内工作は難航した。一時、立候補に必要な20人の推薦人を野田氏が集めたとの情報が永田町を駆け巡ったが、総裁選を行うことで首相の「1強」状態を牽制するという古賀氏の構想はついえた。
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二階氏は周辺に、古賀氏について「影響力を発揮したいなら、引退しなきゃよかったんだ」と冷ややかに語ったという。
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「派閥は戦う集団でなければダメだ。ただの寄り合い所帯では人の役にも立たない。来年は戦う集団になってほしい」
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9月26日に東京都内のホテルで開かれた額賀派(平成研究会)研修会の懇親会で、笹川堯元総務会長は派閥運営に苦言を呈した。
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額賀派はかつて砂防会館に事務所を置いて「鉄の結束」で一時代を築いた田中派の流れをくむ。だが、橋本龍太郎元首相を最後に総裁候補を欠いている。
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会長の額賀福志郎元財務相と砂防会館本館3階に事務所を置く青木幹雄元参院議員会長の間では、総裁選のたびに、こんな会話が交わされているという。
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額賀氏「総裁選に出たいと思っているのですが…」
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青木氏「まあムリだわね。カネはあんの?」
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額賀氏に総裁選出馬経験はない。9月の総裁選でも、額賀派は首相に再選支持を伝えるのが8月27日まで遅れ、二階派のような注目を集められなかった。
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第2次安倍政権発足以降、「反安倍の拠点」として砂防会館がにわかに耳目を集めた時期もあった。
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というのも、政権奪還前の24年の党総裁選で二階、古賀、青木各氏はいずれも安倍首相以外の陣営にくみした。同じ総裁選で石原伸晃元幹事長を支援した森喜朗元首相も一時期、砂防会館本館4階に個人事務所を構え、青木氏らとの交流が取り沙汰されていたからだ。
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首相は二階氏を総務会長として重用することで「戦略的互恵関係」(二階氏周辺)を確立し、外相には岸田氏を起用して古賀氏との分断も図った。森氏はその後、事務所を移転。「反安倍勢力」の拠点はもはや砂防会館にはない。
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砂防会館は、東京・永田町の自民党本部から国道246号を隔て、歩いて数分のところにある。昭和32年8月に完成した地上5階地下2階の本館に、2棟の別館が隣り合っている。このうち本館が、平成23年の東日本大震災で窓ガラスが割れるなど耐震性に問題が生じたため、今年2月に立て替えが決まり、30年度中に新会館が完成する予定だ。
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砂防会館本館には完成まもなく、資金繰りの関係もあり、昭和30年の保守合同で誕生した自民党が2、3階に入居した。自民党を取材する記者クラブを「平河クラブ」と呼ぶのは、砂防会館の建つ東京・平河町に由来する。
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昭和41年、自民党が現在の党本部に移転すると、空いた2階、3階に中曽根康弘、田中角栄両元首相が派閥事務所を構えた。田中氏の後援会「越山会」のほか、4階には中曽根氏の個人事務所もあった。後に首相となる両氏が事務所を構えたことで、砂防会館は戦後政治史の暗闘の舞台となることを宿命付けられたといってもいいだろう。
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43年に中曽根氏の秘書となった与謝野馨元官房長官(77)は、「第1次角福戦争」といわれるポスト佐藤栄作を、田中氏と福田赳夫元首相が争った47年の自民党総裁選の激しさを覚えている。田中氏は同年5月、69人で事実上の田中派を結成し、砂防会館に入居していた。総裁選を前に田中-中曽根会談が極秘裏に行われたのは、4階の中曽根事務所だった。
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与謝野氏によると、会談は1時間弱行われた。会談後、中曽根氏は「田中氏は早口で、『ほとんどみんなが自分を支持している』と紙を見ながら説明していた」と話したという。総裁選は当初、田中、福田両氏が互角だった形勢が、キャスチングボートを握っていた中曽根派の支持を得たことで田中氏が優位に立ち、後に「今太閤」と呼ばれる田中首相が誕生した。
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与謝野氏によると「当時、同じ建物にあっても、両事務所は一切、付き合いがなかった」という。会談当日は、休日で記者の姿もなく、田中氏の早坂茂三秘書から「水を用意してください」といわれたことを不思議と覚えている。会談で中曽根氏は田中氏支持を明確にしなかったが、与謝野氏は「会えば、それで支持ということだったのだろう。

政治家同士が会談するということの意味の大きさに驚いた」と振り返った。
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田中氏は首相就任から約3カ月後の47年9月、中国を電撃的に訪問、日中共同声明を発表し、日中国交正常化を実現した。そのころ、砂防会館では、田中氏の秘書を23年間務めることになる朝賀昭氏(72)が、個人事務所の私室に、家庭に普及する黎明期(れいめいき)にあったビデオの録画装置を持ち込んでいた。“親父”の雄姿を録画するためだ。
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朝賀氏は「当時の機械は机ほども大きくて、運ぶのも録画するのもひと苦労だった。留守の親父の部屋で秘書みんなで、当時の中国の周恩来首相と飛行場で握手しているところなんかを『緊張しているね』なんて言いながら見た。たかがビデオなんだけど、生まれて初めて録画したのが歴史的な場面ということで、感慨深かった」と語る。
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帰国後、録画された映像を砂防会館の個人事務所のテレビで見た田中氏は、「いい顔しているな。この機械は、(映画を映す)幻灯機みたいなもんだ」と満足げだったという。
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しかし、首相としての田中氏の栄華は長くは続かない。49年、金脈問題で総辞職し、51年7月27日、ロッキード事件で東京地検に外為法違反容疑で逮捕された。このとき、砂防会館にも、東京地検の強制捜査が入った。朝賀氏は当時の様子を「戦場のようだった」と表現し、振り返った。
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「地検はなにもかもを持っていった。でも、いくつも部屋がある中で、検事が最初、親父の私室の捜査令状を持ってないのに入ろうとしたから『令状はあるか』という話になって、ひともんちゃくあって小一時間捜査がストップした」
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逮捕後、田中氏は個人事務所を砂防会館から引き払い、近隣のビルに移した。側近には「俺は責任を取って出ていくが、お前たちは残れ」と言い残したため、田中派の事務所などは砂防会館に残った。
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ただ、田中氏はこの年12月の衆院選では16万8522票でトップ当選。選挙の強さと砂防会館に残る田中派の鉄の結束を背景に、むしろ“闇将軍”として政界への影響力を強めていくことになる。
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自民党の派閥政治の栄枯盛衰を見つめてきた砂防会館(東京都千代田区平河町)。昭和から平成にかけ、田中派から中曽根派へと主役が移り変わった舞台は、今静かに歴史の幕を下ろそうとしている。
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■田中曽根内閣
「協力したこともあれば相反したこともあるが、際立った政治家だった」
中曽根康弘元首相(97)は平成21年12月の記者会見で、首相就任までの経緯を脳裏に浮かべつつ、田中角栄元首相を述懐した。
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昭和49年12月に発足した三木武夫内閣では、田中氏は三木降ろしに動き、中曽根氏は政権側。54年、田中氏の強い影響で「角影内閣」と呼ばれた大平正芳内閣では、大平降ろしを目指した中曽根氏と田中氏が「四十日抗争」といわれた政争で相まみえた。
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両氏が再び交じり合ったのが、中曽根氏や安倍晋太郎元外相ら4人が争った57年の自民党総裁選だ。田中氏は中曽根氏支持を決め、派閥に支援を指示した。
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砂防会館を運営する全国治水砂防協会会長の綿貫民輔元衆院議長(88)は当時、田中派に所属。「当時派内では、過去に反目した経緯などから、反中曽根が多かった」と振り返る。
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「後に副総裁になる金丸信氏が『親父のいうことに反対のやつは出ていけ』と締めた。

砂防会館の本館の玄関にみんなが集まったところに中曽根氏が来て、『みんなで応援しよう』と。あれで勢いづいた」
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■必勝、田中派選挙
かつて田中派は「田中総合病院」「田中軍団」と呼ばれた。石破茂地方創生担当相(5.8)は58年3月、田中氏の誘いで事務局職員となった。
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石破氏は、壁一面に北海道から沖縄県までの選挙区に自民党候補者の名前を書き、田中派の候補を赤い枠で囲うよう指示された。派閥幹部による応援演説のため、全国の新聞を取り寄せ選挙区情勢を分析した資料作りも命じられた。
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石破氏は「歩いた家、握った手の数しか票は出ないという田中氏の教えを、秘書まで徹底していた。自分が自民党幹事長のとき、これを根付かせたかった」と体得した政治哲学を語る。9月28日に立ち上げた石破派の事務所も、一時砂防会館に置くことを検討した。
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一方石破氏は、61年に初当選後は中曽根派に所属。重鎮の江藤隆美元運輸相から「ワシらは地鶏じゃ。エサは自分で探して歩かなくちゃいけんのじゃ」と諭され、面倒見のいい田中派と自主自立の中曽根派との文化の違いを感じたという。
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■田中派が分裂
58年12月の衆院選を経た後、田中派は最大の121人にふくれあがり、59年4月には手狭になった派閥事務所を砂防会館の別館に移した。最盛期を迎える裏で、派内では若手を中心に、大平、鈴木善幸、中曽根各氏という別派閥の首相を担ぎ、自派の後継者を育てないように見えた田中氏への不満が渦巻いていた。
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不満は60年2月、竹下登元首相らを中心に発足した派中派勉強会「創政会」として爆発する。小沢一郎氏といった子飼い議員も参画すると、田中氏は同月、脳梗塞を発症。田中派は62年、二階堂進氏のグループと、竹下派に分裂した。
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綿貫氏は「分裂時に砂防会館事務所の取り合いになり、全国治水砂防協会会長だった西村英一元厚相が『どちらも出ていけ』と一喝した」と語る。その後は両派が田中派の“正統後継”を主張して砂防会館に出入りしたが、平成6年4月の小渕派の退去で、田中派の流れをくむ派閥はすべて姿を消した。
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■中曽根氏の栄華も…
田中派の崩壊とともに、砂防会館の象徴は中曽根氏となった。しかし、63年にリクルート事件が直撃し、渡辺美智雄元副総理が中曽根派を継いだ後も、平成6年の村山富市首相指名の際に渡辺氏自身が造反するなど迷走し、派閥は10年に分裂。中曽根氏も15年10月、砂防会館の事務所を訪ねてきた小泉純一郎首相(当時)に事実上の引退勧告を受け、21年には砂防会館の事務所を閉鎖した。
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現在、砂防会館に派閥事務所を置くのは自民党の二階俊博総務会長(76)が率いる二階派のみで、かつてのにぎわいはない。
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石破氏は建て替えについて「派閥政治の象徴だった。ひとつの歴史が終わる」と遠くを見つめる。1年生議員時代、田中派に属した二階氏もこう語る。
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「政治の歴史の大きなページを占めただけに、感慨深い。新しい立派な砂防会館が建立され、新しい政治の一ページを開くだろう」
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小池知事:豊洲、五輪・全ての道は都議選へと!

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諸悪の根源は石原元知事にあり!
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自民党員ではあるが自民党でない小池党!
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2020年の東京五輪・パラリンピックで開催主催の東京都が石原~舛添元知事の時代大判振る舞いの予算でブラックボックス化であったが、昨年の都知事選で小池百合子が新都知事となり、ブラックボックスをこじ開け、白日の下に曝け出そうと悪戦苦闘を続けている。五輪を開催するには多額の運営資金が必要だとされているが、過去にはどのくらいの予算をかけたのであろうか。
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1984年 ロサンゼルス五輪—-約10億ドル(約997億円)
1988年 ソウル五輪———-約80億ドル(約7,976億円)
1992年 バルセロナ五輪—-約150億ドル(約1兆4,955億円)
1996年 アトランタ五輪——約70億ドル(約6,979億円)
2000年 シドニー五輪——–約50億ドル(約4,985億円)
2004年 アテネ五輪——–約140億ドル(約1兆3,958億円)
2008年 北京五輪———-約430億ドル(約4兆2,871億円)
2012年 ロンドン五輪——約400億ドル(約3兆9,880億円)
※1ドル=99.7円 で計算。
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アテネ大会で1兆円を超えてから、北京大会では国の威信をかけこれでもかと4兆円以上のカネをかけた中国。ロンドン大会も見劣りしないようにと約4兆円も金をかけ、五輪そのものが華美を競うような開催の仕方になってきた。
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2020年の東京五輪の予算は、五輪招致用の立候補ファイルでは「3013億1700万円」とされ、これに、非大会組織委員会予算「4327億3800万円」を加算すると、「約7345億円」となる。直近の大会と比べるとかなりコンパクトな開催取るはずであったが、開催が決まると為政者独特の悪い癖、華美・面子を表面にだし、同じアジアの北京開催に負けてなるかとの競争心が頭をもたげたのであろう。五輪メイン会場となる国立競技場の改修に始まり、次々と大型施設の建設入札が行われた。
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その最中に舛添知事がスキャンダルで辞任し、選挙の結果、小池知事が誕生した。就任早々、ブラックボックスの1の蓋(豊洲移転)を開け、2の蓋(都議会新党)と3の蓋(五輪開催費用)を同時に開け、中をかき回し始めた。
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2020年東京五輪・パラリンピックの関連予算を検証している東京都の調査チームは29日の都政改革本部(本部長・小池百合子知事)の会合で、競技施設の整備費や警備コストなどが膨らみ、今のままでは大会開催費の総額が3兆円を超えるとの推計を明らかにした。調査チームは報告書で、経費を縮減するため、都が整備するボート競技場など3施設について、都外の施設活用に変更するなどの大幅な見直しを求めた。これを踏まえ、都は具体的な検討に着手する。
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小池氏は席上、「大変重い提言だ。ベストのソリューション(解決策)を見つけていきたい」と表明。「レガシー(遺産)のある東京大会ができると確信しているし、成功させなければならない」と語った。
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開催費は招致段階で7340億円と見積もられていた。しかし、報告書によると、新国立競技場など競技施設や周辺インフラの整備だけで経費は7640億円。このうち、約800億円と見込んでいた仮設施設(大会後に撤去)の建設費が2800億円程度に膨らむ。
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さらに、大会中の警備や輸送などに1兆2000億~1兆6000億円の費用が掛かると試算。割高な工事発注など、都の予算管理の甘さの影響でコストがさらに増え、全体では3兆円を超える可能性があるという。3兆円超の言葉は「都政改革本部」が言い出した。開催費用について、外部有識者からなる東京都の調査チームが2016年9月29日、1次報告書を公表し、総費用が「3兆円を超す可能性がある」と指摘した。調査チームの推計だが、これまで五輪開催の総経費は示されていなかった。
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大会経費について、大会組織委員会が2016年12月21日、総額1兆6千億~1兆8千億円とする予算計画を示したことで、焦点は費用負担に移った。組織委が担う5千億円を除き、1兆1千億~1兆3千億円をどう分担するか。競技会場を抱える自治体には懸念が広がっており、年明けから本格化する協議は難航が予想される。
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立候補ファイルでは、開催費用は組織委と都、政府で原則負担し、会場については恒久施設を都、仮設と恒久施設を大会仕様にする改修費を組織委が負担するとしていた。

しかし招致時に723億円と試算された仮設整備費は、2800億円に膨らんだ。組織委で全額負担することは困難で、今年3月に組織委、都、政府は費用負担の役割分担を見直すことで合意した。
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ほとんどの競技を都内で開催する「コンパクト五輪」から「広域開催」に様変わりしたことも問題を難しくしている。レスリングやサーフィンなどが行われる千葉県の担当者は「仮設施設は組織委の役割」との認識で「変更されるとは考えていない」と話す。
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都知事選や会場見直しの影響で協議が進まず、来年度の予算編成にも支障が出かねない。神奈川県の黒岩祐治知事は先月下旬、都と組織委、政府に対し費用負担の明確化を求める緊急要請書を送付した。
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田中角栄(2)・冤罪 ロッキード事件の真相!

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石井一氏が語る・ロッキード事件について!
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米国の弁護士「陰謀が絡まっており、底が深すぎ奇々怪々だ!
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ロッキード事件で田中角栄元首相が逮捕されてから7月27日で40年。それを前に事件当時、自民党田中派衆院議員だった石井一氏(81)が25日、自らの調査をもとに事件と裁判の真相を明かした著書「冤罪-田中角栄とロッキード事件の真相」(産経新聞出版、本体1400円)を出版した。石井氏に田中氏と聞いた。(聞き手 高橋昌之)
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--昭和51年7月27日、田中氏はロッキード事件で逮捕されたが
「その年の2月から米国のチャーチ委員会(上院外交委員会多国籍企業小委員会)で、事件が取り上げられ、日本でも捜査が進められていたが、私も含めて田中の周辺ではだれも逮捕まで踏み切るとは思っていなかった。それに対して、東京地検は金権政治の象徴である田中を逮捕することが正義だというおごりのもとに、前の首相を、それも最初は外為法違反という容疑で逮捕するという暴挙に突っ込んだ。これは歴史的に糾弾されるべきことだと思っている」
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--その後の裁判をどう見たか
「田中は終始一貫、無罪を信じて切っていたし、やましいという様子を全く見せなかった。そこで、私は事件に疑問を持つようになり、弁護団らと話をしているうちに、田中は本当に無罪ではないかと思って、自分でも調査することにした。田中派だからとかそういうことよりも、政治家として捜査や裁判が行き過ぎたり、曲がったりしたときは追及していくのは使命ではないかという思いが強かった」
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--58年1月26日、検察側は田中氏に対し、懲役5年、追徴金5億円を求刑した
「その時、私は『検察側のストーリーをつぶすには、日本国内の法廷闘争だけでは勝てない。米国で調査を進めて真相に迫らなければならない』と思い、渡米を繰り返した。協力してくれる政治専門の優秀な弁護士はいないかと考え、スタンフォード大学大学院時代からの友人に相談したところ、その年の2月にリチャード・ベンベニステという弁護士に会うことができた。ニクソン大統領を辞任に追い込んだウォーターゲート事件で主任弁護士を務めた凄腕の持ち主だった。私が事件の関連資料を渡し、田中の弁護を依頼したところ、10日ほどして『引き受けましょう』という返事がきた。改めて渡米した私に、彼は『この事件には絶対、陰謀が絡まっている。底が深すぎるし、奇々怪々だ』と語った。そして、事件発覚の経緯や田中側への5億円の資金提供を認めた嘱託尋問調書を日本政府が要求して裁判所が証拠として採用したことなどの点をしてきた。そのうえで『事件を証言したロッキード社(元副会長)のコーチャンは日本で刑事免責を受けているが、自分が米国内で彼を訴追することは可能だ』とも語った」
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--その後のベンベニステ氏との調査は
「彼は3月14日、同僚や秘書など総勢10人で来日した。私が手配して高輪プリンスホテル(現グランドプリンスホテル新高輪)の最上階をフロアごと借り切り、急ピッチで本格的な調査を始めた。10日ほどが過ぎ、代理人を依頼するため、田中にどう会わせようかと思案していたところ、田中から突然、東京・目白の私邸に呼ばれた。田中は『いろいろ苦労をかけているようだな。だが、大変申し訳ないが、アメリカの弁護士は断ることにした』と言われた。私は『そんな話がありますか。せっかくすごいのを連れてきたのに』と言ったが、田中は「分かっとる。分かっとる。が、すまん、許してくれ」とわびた。さらに私は『このままだと有罪になりますよ』とも言ったのだが、田中は『いや有罪にはならない』と譲らなかった。私はすぐにベンベニステにこのことを伝えた。彼は『田中の気持ちは理解できる。すぐに帰国するよ』と受け入れてくれた」
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--田中氏はなぜ依頼を断ったと思うか
「ひとつは『米国から仕掛けられたワナから逃れるのに米国人の手を借りたくない』という日本人としての意地とプライドがあったと思う。もうひとつは田中が無罪を固く信じていたということだ。それで米国人の弁護士まで頼む必要はないと思ったのだろう」
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--58年10月12日の1審判決を前に、調査の結果を小冊子にまとめ、田中氏らに渡したということだが

「事件と裁判には多くの問題があるのに、田中が有罪になることには納得がいかなかったので、自分なりの調査の結果を手書きの小冊子にまとめた。最初はみんなに配って公開しようと思ったが、世論の状況を考えると逆に反発を受けるのではないかと思い、田中とその周辺の5人にだけ渡した。内容は事件の発端への疑問や嘱託尋問調書が採用されたことの問題点、田中への請託の有無や金銭授受の不確かさなど指摘し、『有罪とするのは困難と見ざるをえない』という見解を示したものだった」
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--田中氏の受け止めは
「小冊子を読み込み、いつも枕元に置いて大切にしてくれていたそうだ。その後、判決が出て、私もその年の12月18日に行われた衆院選で落選した。その10日後、田中周辺からの誘いで、目白の私邸を訪ねた。田中は新潟料理をふるまって、『君を落としたのは本当に残念だ』と慰めてくれたのだが、その後、私が渡した小冊子の話になった。田中が『君一人が書いたのか。どうしてこんなことが分かるのか』と訪ねたので、私は『事件は完全にでっち上げられたものだと思っています。ただ、感情的に言っても仕方ありませんから、事実を並べて論理的に書いたのです。時を経て、世間が冷静さを取り戻せば、いつか真実が明らかになる日がくると思います』と答えた。田中は深く、深くうなずいていた」
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--1審での懲役4年、追徴金5億円という有罪判決を田中はどう受け止めたのか
「田中は判決に向かうとき、無罪だと信じていた。しかし、有罪判決が出て司法に対する憤りに満ちていた。裁判所から帰ってくると、自宅事務所の会議室に駆け付けた国会議員だけを入れ、『総理大臣経験者としての私が、このような罪を、このような形で受けることは、国民に申し開きのしようがなく、名誉にかけて許せない』と演説をした。その後の田中は派閥をどんどん大きくして、自民党を完全に支配した。その異常なまでの執念の背景には、首相というポストを傷つけてしまったという反省と、自分の無実をかならず晴らすという意地があったのだと思う」
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--事件をめぐっては日米政府の陰謀説もある
「米国の政権は自分の思い通りになると思っていた日本を、日中国交正常化や資源外交などで独自の道に進めようとした田中を追い落とそうとした。田中は『(当時国務長官だった)キッシンジャーにやられた』ということを私にも言っていた。一方、日本側では事件当時の首相の三木武夫が、自分の政権基盤を強化しようとして、事件を機に田中を葬り去ろうとした。それに歩調を合わせて裁判所や検察という司法が、異常な執念と思い上がりから、首相経験者を仕留めようとした。そこへマスコミが追い打ちをかけ、世論は田中を罰することが日本の民主主義を救うことになるというムードになってしまった。これは歴史的に検証されなければならないことだと思う」
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--田中氏は平成5年12月に刑事被告人のまま、75歳で死去した
「ものすごく悔しかったと思う。昭和60年に脳梗塞で倒れ、障害が残ってから亡くなるまでの間は筆舌に尽くしがたい苦悩があっただろう。無実でありながら、罪を晴らせないままこの世を去ったことはまさに悲劇だ」
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--田中氏を政治家としてどう評価しているか
「政治家として並外れた能力の持ち主だった。予算の数字から政策の中身を知り尽くし、議員立法もたくさんやった。その意味で政党政治家の模範といえる存在だった。一方で『カネ』のイメージが強かった。ただ、それは自分の力で作ったもので、反省面ではあるが、希有な政治家だったと言えるのではないか。ただ、紛れもない愛国者であり、庶民の目線を持っていた。ロッキード事件がなく、田中の能力が発揮されていたら、日本の国は北方領土問題をはじめ、いまだに残っている問題もとっくに解決できていただろう。田中がどれほど大きな功績を上げることことができたかと考えると残念だ」
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■石井一(いしい・はじめ) 昭和9年、神戸市生まれ。甲南大学卒業、米スタンフォード大学大学院修了。サラリーマンを経て44年、35歳で衆院初当選。自民党田中派、竹下派を経て、平成5年に同党を離党し、その後は新生党、新進党、民主党に所属。衆院議員11期、参院議員1期。国土庁長官、自治相・国家公安委員長などを歴任した。
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長時間労働:鉄建も残業96時間で書類送検されていた!

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社員過労死か・2016年4月!
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2015年12月25日に自殺した電通の新入女子社員、ブラックな労働環境が明らかになり労働基準局までが各地の支社に強制捜査に入るなど世間が注目を浴びる中、12月28日上司だった幹部社員の男性1人と、法人としての同社を労働基準法違反(長時間労働)の疑いで書類送検した。
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東日本大震災の復興工事で社員に長時間労働をさせたとして、大船渡労働基準監督署は2016年4月15日、鉄建と同社の現場所長を労働基準法違反の疑いで書類送検した。この現場では今年3月9日、当時41歳の男性社員が事務所内で倒れ、死亡している。この社員の2月の残業時間は、労使協定の上限を36時間超過する約96時間だった。 同日、石井直社長は2016年1月の取締役会で引責辞任すると発表。
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社員が死亡したのは、被災したJR大船渡線をBRT(バス高速輸送システム)で本格復旧する工事の現場だ。鉄道が走っていた敷地にBRT専用の道路を造る。死亡した社員は、河川に架ける橋の施工管理を担当していた。
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3月9日午後8時50分ごろに倒れ、市内の病院に搬送されたが、午後10時15分ごろに死亡が確認された。死因は、大動脈瘤解離による急性循環不全だった。
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現場の元請け社員の労働時間は自己申告制で管理していた。死亡した社員が申告した2月の残業時間は、労使協定で決めた上限の60時間以下だった。しかし、大船渡労基署が社員のパソコンの記録などを調べると、実際は100時間近く残業をしていたことが判明。1日当たりの残業時間は、最長で5時間37分だった。
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この残業時間は、心臓疾患による過労死認定の基準である「発症前1カ月間におおむね100時間」に該当する。労基署では長時間労働による過労死の可能性が高いとみている。
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鉄建では、この4月からパソコンを利用した勤怠管理システムを導入している。今後、残業を事前申告する段階で上司がチェックすることと併せ、勤怠管理システムの効果を検証して改善していくという。
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建設会社社員の過労死としては、広島簡易裁判所が2013年12月に鹿島道路と同社の元営業所長にそれぞれ罰金20万円の略式命令を下した例がある。死亡した社員は、労使協定の1カ月100時間の上限を2時間1分超過する残業をしていた。略式命令の確定後、国土交通省関東地方整備局は、鹿島道路を中国地方で3日間の営業停止としている。
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厚生労働省は2015年10月7日、2014年に成立した「過労死等防止対策推進法」に基づく「平成28年版過労死等防止対策白書」を公表した。業界ごとの長時間労働の現状や、対策の実施状況などがまとめられている。
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労働時間に関する質問(企業を対象)では、業種別の正規雇用従業員(フルタイム)の月間時間外労働時間を調査。平均的な月における、1カ月あたりの時間外労働が45時間を超える割合が最も多かったのは
1.「運輸業/郵便業」(14.0%)
2.「宿泊業/飲食サービス業」(3.7%)
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「月間20時間超」と回答した企業の割合
1.「運輸業/郵便業」(54.7%)、
2.「情報通信業」(53.7%)、
3.「建設業」(48.7%)の順に多くなっている。
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正社員(フルタイム)の平均的な1週間当たりの残業時間に関し、性別にその平均をみると、男性が8.6時間、女性が5.2時間となっている。また、その残業時間が20時間以上と回答した労働者の割合は、男性が11.6%、女性が5.1%となっている。
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企業側は「顧客(消費者)からの不規則な要望に対応する必要があるため」「業務量が多いため」「仕事の繁閑の差が大きいため」などを回答理由として挙げている場合が多い。特に「建設業」「情報通信業」「運輸業/郵便業」「卸売業/小売業」では「顧客(消費者)からの不規則な要望に対応する必要があるため」を挙げる企業が最多となっている。
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正社員(フルタイム)の労働者調査において、所定外労働が必要となる理由をみると、「人員が足りないため(仕事量が多いため)」「予定外の仕事が突発的に発生するため」「業務の繁閑が激しいため」を挙げる労働者が多かった。特に「建設業」「情報通信業」「卸売業/小売業」「宿泊業/飲食サービス業」などで「人員が足りないため(仕事量が多いため)」を挙げる労働者が最多となっており、「学術研究/専門・技術サービス業」では「予定外の仕事が突発的に発生するため」を挙げる労働者が最も多くなっている。
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≪成27年度「過労死等の労災補償状況」を公表≫
厚生労働省は平成28年6月24日、平成27年度の「過労死等の労災補償状況」を取りまとめましたので、公表します。
厚生労働省では、過重な仕事が原因で発症した脳・心臓疾患や、仕事による強いストレスなどが原因で発病した精神障害の状況について、平成14年から、労災請求件数や、「業務上疾病」と認定し労災保険給付を決定した支給決定件数などを年1回、取りまとめています。
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【要約】
1 脳・心臓疾患に関する事案の労災補償状況
(1)請求件数は795 件で、前年度比32 件の増となった。
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(2)支給決定件数は251件で前年度比26件の減となり、うち死亡件数も 前年度比25 件減の96件であった。
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(3)業種別(大分類)では、請求件数は「運輸業,郵便業」181 件 、「卸売業,小売業」 116件 、「建設業」111件の順で多く、支給決定件数は「運輸業,郵便業」96 件、「卸売業,小売業」35 件、「製造業」34 件の順に多い。
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中分類では、請求件数、支給決定件数ともに「運輸業,郵便業」の「道路貨物運送業」 133 件、82 件が最多。
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(4)職種別 ( 大分類 ) では、請求件数は「輸送・機械運転従事者」 161 件、「専門的・技術的職業従事者」 118 件、「販売従事者」95件 の順で多く、支給決定件数は「輸送・機械運転従事者」88 件、「販売従事者」34件、 「専門的・技術的職業従事者」33 件の順に多い。
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中分類では、請求件数、支給決定件数ともに「輸送・機械運転従事者」の「自動車運転従事者」 153 件、87 件が最多。
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(5)年齢別では、請求件数は「 50 ~ 59 歳」 263 件、「60歳以上」233件、「40~49歳」198 件 の順で多く、支給決定件数は「 50 ~ 59 歳」9 1 件、「 40 ~ 49 歳」80 件、「60 歳以上」38 件の順に多い。
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(6) 1か月平均の時間外労働時間数別支給決定件数は、「80時間以上~100時間未満」105件で最も多く、「100時間以上」の合計件数は120件であった。
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2  精神障害に関する事案の労災補償状況
(1) 請求件数は 1,515 件で、前年度比59 件の増となり、うち未遂を含む自殺件数は前年度比14件減の199件であった。
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(2) 支給決定件数は 472 件で前年度比25 件の減となり、うち未遂を含む自殺の件数も前年度比6件減の93件であった。
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(3) 業種別( 大分類)では、請求件数は「製造業」2 62 件、「医療,福祉」 254 件、「卸売業,小売業」223 件の順に多く、支給決定件数は「製造業」71 件、「卸売業,小売業」65 件、「運輸業,郵便業」57 件の順に多い。
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中分類では 、請求件数は「医療,福祉」の「社会保険・社会福祉・介護事業」157件、支給決定件数は「運輸業,郵便業」の「道路貨物運送業」36 件 が最多。
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(4) 職種別(大分類)では、請求件数は「事務従事者」362件、「専門的・技術的職業従事者」325件、「サービス職業従事者」183件の順に多く、支給決定件数は「専門的・技術的職業従事者」114件、「事務従事者」93 件、「サービス職業従事者」5 3件 の順に多い。
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中分類では、請求件数、支給決定件数ともに「事務従事者」の「一般事務従事者」 241 件、61 件が最多。
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(5) 年齢別では、請求件数は「40 ~49 歳」 459 件、「30 ~3 9 歳」419 件、「5 0 ~5 9 歳」 287 件、支給決定件数は「40~49歳」147件、「30~39歳」137件、「20~29歳」87件の順に多い。
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(6) 1か月平均の時間外労働時間数別支給決定件数は、「20時間未満」86件で最も多く、「80時間以上~100時間未満」20件、「100時間以上」の合計件数は172件であった。
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(7) 出来事別の支給決定件数は、「仕事内容・仕事量の(大きな)変化を生じさせる出来事があった」75件、「(ひどい)嫌がらせ、いじめ、又は暴行を受けた」60 件 の順に多い。
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田中角栄(1)・ロッキード事件で逮捕:政争の具に!

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三木政権は田中角栄に止めを!
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田中角栄(たなか・かくえい)
大正7年新潟県生まれ。高等小学校卒業後、昭和9年東京に出て建築事務所に勤務。陸軍入隊、満州出征を経て18年田中土建工業設立。22年衆院初当選。32年、39歳で郵政相として初入閣、以後蔵相、自民党幹事長、通産相など歴任。47年7月、54歳で首相就任、9月日中国交正常化を果たす。「日本列島改造論」で角栄ブームが起きるが、自らの金権体質を批判され、49年11月退陣。51年7月ロッキード事件をめぐる受託収賄容疑などで逮捕、翌月起訴されたが、田中派を率いて政界に強い影響力を維持。58年ロッキード裁判で懲役4年、追徴金5億円の有罪判決、控訴。60年2月、脳梗塞で倒れ、平成5年12月、75歳で死去。
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新潟県民は、現在の道路事情や郷土開発の姿を見るにつけ、角栄の後姿を思い出すことであろう。功罪半ばといわれても、郷土に角栄がいなかったら、九州のO県、M県、中国地方のS県、T県のような過疎地域よりもっと過疎になっていたのではなかろうかと、、、。
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本日は、 2016年の角栄本が多数出版され、ネット上でも角栄待望論的な文章が多数散見された。数あるネット記事の中でも、産経ニュースで公開されている【角栄逮捕・40年後の証言】という記事は、生存する関係者の証言を転載する。「陰謀論」がくすぶる逮捕の真相や、思想や人脈など田中の“遺産”に迫った企画「角栄逮捕・40年後の証言」を読んでください。
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明晰な頭脳と大胆な行動力で「コンピューター付きブルドーザー」と異名をとった戦後を象徴する政治家、田中角栄(1918~93年)。新潟の寒村の出身で高等教育を受けずに政界の頂点まで上り詰めたことから「今太閤」とも呼ばれた元首相が、ロッキード事件で逮捕されてから7月27日で40年になります。中国との国交正常化を成し遂げ、「日本列島改造論」による大規模な公共事業を推し進めて国民から絶大な支持を得ますが、自らの金権体質を批判され、退任後はロッキード事件をめぐる受託収賄容疑などで逮捕され、懲役4年、追徴金5億円の有罪判決を受けた。
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≪田中角栄、ロッキード事件40年後の「驚愕証言」≫
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空前の田中角栄ブームが到来している。角栄氏を主人公にした石原慎太郎氏の小説『天才』がベストセラーとなったのをはじめ、数々の関連本が出版され、NHKスペシャルの「未解決事件」シリーズでも、2夜連続で『ロッキード事件の真実』が放送された。
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そうしたなかで7月上旬、『田中角栄を葬ったのは誰だ』(K&Kプレス刊)を上梓した、事件当時、衆院議員秘書を務めた平野貞夫氏(元参院議員)はこう断じる。
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「NHKなどの報道は基本的に、田中角栄さんを逮捕した検察のやり方を追認、称賛するものに見えた。しかし、私はむしろ逮捕のプロセスに大いに疑問を抱いている。田中さんは権力によって消され、真相は闇に葬られたのではないか。40年後の今こそ、真実を解き明かす必要がある」
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いわゆる「ロッキード事件」とは、角栄氏が総理時代に、米航空機メーカー・ロッキード社の代理店だった丸紅から5億円の賄賂を受け取ったとされる事件。5億円は、角栄氏が全日空にロッキード社製の大型航空機「トライスター」の購入を承諾させたことへの謝礼とされている。角栄氏は1976年7月に外為法違反容疑で逮捕され、一審と二審で懲役4年の実刑判決を受けた。そして上告後の1993年、最高裁の判決を待つことなく他界している。
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事件の発端は1976年2月、米議会上院公聴会で、「ロッキード社が日本政府高官に工作資金を渡した」との疑惑が飛び出したことだった。ロッキード社幹部の衝撃的な証言により、角栄氏をはじめとする複数の政治家に追及の矛先が向けられ、国会は紛糾した。
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当時、国会正常化に奔走したのが衆院議長・前尾繁三郎氏であり、その秘書が平野氏だった。「私は『ロッキード国会』と呼ばれたあの時期に、政治家や各党の動きを記した大量のメモをとってある。この事件は米国発だが、主要な舞台となったのは日本の政府与党の内部。その熾烈な権力争いの結果、敗れたのが田中さんだった」
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◆消えた「児玉ルート」
オイルショックによる物価上昇や金脈政治批判を受け、田中内閣が総辞職に追い込まれてから1年2か月後の1976年2月5日。前日の米議会公聴会を受けて、朝日新聞が朝刊2面に、
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〈ロッキード社 丸紅・児玉氏への資金〉
との見出しで、小さな記事を掲載した。この400字にも満たない記事が、政財界を揺るがす事件に発展するとは、平野氏も予想していなかったという。
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「見出しに名前の挙がっていた児玉誉士夫氏は、右翼の大物で政界のフィクサーとして名が知られていた人物。しかも、当時幹事長だった中曽根康弘氏の元書生が児玉氏の秘書を務めるなど、自民党中枢との関係が深いことは知られていた。疑惑が広がれば政権与党を直撃すると感じた一方、記事は淡々としたトーンで、児玉氏の名前を挙げていたのも朝日一紙だけだったので、そこまで大騒ぎになるとは思っていなかった」
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だが、平野氏の予想に反して各紙は連日、大きく疑惑を取り上げるようになり、通常国会は紛糾。衆院予算委員会では全日空、丸紅の幹部、角栄氏の「刎頸(ふんけい)の友」であり、米議会で工作資金が渡った先として名前の挙がった国際興業グループ創始者・小佐野賢治氏らが証人喚問の場に立った。
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「朝日の見出しにあった通り、ロッキード社からの工作資金の流れには主に2つのルートがあった。
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ひとつは児玉氏を通じて防衛庁に次期対潜戒機P3Cを売り込むルート。もうひとつは丸紅を通じて全日空に大型航空機トライスターを売り込むルートだった。政界への波及でいえば、第1の『児玉ルート』は元防衛庁長官で当時幹事長だった中曽根氏につながり、第2の『丸紅ルート』は小佐野氏を通じて田中さんにつながるものだった。
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当時、ロッキード社が流した対日工作資金約30億円(1000万ドル、当時のレートで円換算)のうち約21億円は児玉氏に秘密コンサルタント料として渡ったとされていた。にもかかわらず“本線”であるはずの児玉ルートは、事件発覚後すぐに、事実上、捜査の対象外になってしまった」(平野氏)
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その理由は、児玉氏が脳塞の後遺症のために重度の意識障害を起こし、国会の証人喚問に応じることができないことだった。
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結果、東京地検の捜査対象は丸紅ルートに集中し、「角栄逮捕」の流れにつながっていく。
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「なぜ児玉氏の証人喚問が不可能だったか。実は証人喚問の直前、児玉氏の証言を不可能にする作為がはたらいていた可能性が高い」
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平野氏はそういって、驚くべき証言を続けた
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田中角栄・元首相が逮捕された「戦後最大の疑獄事件」、ロッキード事件発覚当初から、児玉誉士夫氏は「病気」を理由に証人喚問を拒否していた。
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国会は1976年2月16日、病状確認のために医師団を児玉邸に派遣した。結果、児玉氏は「重度の意識障害」と診断され、喚問は見送られることになった。
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7月上旬、『田中角栄を葬ったのは誰だ』(K&Kプレス刊)を上梓した、事件当時、衆院議長秘書を勤めていた平野貞夫氏(元参院議員)が振り返る。「私は当時、児玉氏が中曽根(康弘)氏を守るために、自分の意志で証人喚問を拒否したと思っていた。しかし、その判断が間違っていたことに、後になって気付いた」
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そのきっかけは、ひとつの告発記事だった。『新潮45』(2001年4月号)に掲載された記事で、児玉氏の主治医・喜多村孝一東京女子医大教授(当時、故人)の部下だった天野惠市氏(当時、同大助教授)の手記である。天野氏はその中で、国会医師団派遣直前の喜多村氏の行動を暴露した。記事には1976年2月16日の午前中、東京女子医大の脳神経センター外来診察室での出来事が克明に記されている。
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〈立ったままの喜多村が、切り出した。
「これから、児玉様のお宅へ行ってくる」
喜多村は、児玉を必ず、「児玉様」と呼んだ。〉(前掲記事より、以下同)天野氏が訝りつつその理由を聞いた後の2人のやり取りは以下の通りだった。
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〈「国会医師団が来ると児玉様は興奮して脳卒中を起こすかもしれないから、そうならないように注射を打ちに行く」
「何を注射するのですか」
「フェノバールとセルシンだ」
いずれも強力な睡眠作用と全身麻酔作用がある。
「先生、そんなことしたら、医師団が来ても患者は完全に眠り込んだ状態になっていて診察できないじゃないですか。そんな犯罪的な医療行為をしたらえらいことになりますよ、絶対やめてください」〉
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止める天野氏に対して喜多村氏は激怒し、看護師の持ってきた薬剤と注射器を往診カバンに詰めて出ていった──手記にはそう書かれている。
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国会医師団が児玉氏を診察したのは、喜多村氏が児玉邸を訪れてから数時間後。そして喜多村氏が国会に提出していた診断書の通り、「重度の意識障害下」にあり、国会での証人喚問は不可能と判断されたのである。
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平野氏がいう。「フェノバールとセルシンの注射で発生する意識障害や昏睡状態は、重症の脳梗塞による意識障害と酷似している。仮に国会医師団が見抜けなかったとしてもおかしくない」「そして、着目すべきは“主治医が児玉邸を訪れたタイミング”だと指摘する。「私のメモにも残っていますが、2月16日は医師団の派遣を巡って衆議院の予算委員会理事会が紛糾していた。医師団の派遣そのものを決めたのが正午過ぎで、メンバーが決まったのは午後4時。そこから『2月16日の当日中に行くか』『翌日の朝にするか』を協議し、夜7時になって当日中の派遣が正式に決定した。私は議長秘書として医師団派遣の調整に関わっていたので、時系列に間違いはない。
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つまり、児玉氏の主治医は、国会医師団の派遣がまだ正式に決まっていない16日午前中に、すでに“医師団が今日中に児玉邸に来る”と確信していたことになる。医師団派遣はいわば機密事項だった。にもかかわらず、なぜ主治医は知っていたのか。国会運営を取り仕切れる中枢にいて、かつ児玉氏の主治医にもコンタクトできる人物が情報を流していたとしか考えられない」
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◆「得をしたのは誰だ」
もし児玉喚問が実現していたら、ロッキード事件は違った方向に展開していた可能性がある。丸紅を通じて角栄氏が受け取ったとされるのは5億円。一方、児玉ルートには21億円が流れたとされている。平野氏が続ける。
「児玉氏の証言が得られなかったため、東京地検は狙いを田中さん一人に絞り、逮捕に全力を傾けた。もし当局が児玉ルートにも切り込んでいたら、ダメージを受けたのは中曽根氏だったはず。私は告発記事を読んだ後に天野医師と会って話したが、児玉氏の主治医だった喜多村氏は、その後、“中曽根氏の主治医”を名乗るようになったと証言している」
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事件発覚当時から、角栄氏の逮捕に至る流れは、政治的な思惑のある「国策捜査」ではないかとの指摘がされていた。米議会公聴会で疑惑が出た直後の1976年2月9日に当時の三木武夫・首相は、与党内に累が及ぶ疑惑であるにもかかわらず、「なすべきことは真相の究明」と言明。権力側が政界ルートの捜査を検察に促す“逆指揮権”が発動したともいわれた。
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そして結果として、三木首相と党内で対立する角栄氏に追及の矛先が向かった。その三木政権を幹事長として支えていたのが中曽根氏だった。
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角栄氏が1976年8月に保釈されると、田中派をはじめとする自民党内の反主流派6派閥が一気に「三木おろし」の逆襲を始め、その際に政権サイドについたのが三木派と中曽根派だけだった。当時、自民党内で壮絶な権力闘争があったことは間違いない。
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そして時は流れて平成の世になり、2008年に秘密指定が解除された米公文書に、中曽根氏とロッキード事件を結びつける記述が見つかっている。
〈ロッキード事件の発覚直後の1976年2月、中曽根康弘・自民党幹事長(当時)から米政府に「この問題をもみ消すことを希望する」との要請があった〉(2010年2月12日付、朝日新聞)
中曽根事務所は平野氏の指摘、米公文書の記述について、「ノーコメント」とするのみ。平野氏が続ける。
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「田中さんは物的証拠がないまま、証言だけで有罪になった。政治、捜査機関、司法当局、そしてメディアによって、“田中有罪”という世論の大合唱が作り上げられていった」。なぜ、ロッキード事件では結果的に角栄氏だけが狙い撃ちされたのか。
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1976年9月に角栄氏が米国の意に背いて日中国交正常化を実現させ、同時に台湾との国交を断絶したことでホワイトハウスが激怒した―といった「米国の虎の尾を踏んだ説」も根強くある。それを裏付けるような機密解除された米公文書の存在も報じられている。平野氏がいう。
「“虎の尾論”は一面の真実をついているでしょう。ただ、私にできるのは、『対米追従シンドローム』に侵された日本の権力者たちが、田中角栄という政治家を葬ったということを論証すること。それが使命だと考えているから今回、『田中角栄を葬ったのは誰だ』を改めて出版した。事件から40年を機に、国民に目を見開いてほしい」
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真実は、どこにあるのか。
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その日、昭和51年7月27日。空白む前の午前3時、1台の黒いセドリックが東京地検から静かに滑り出した。乗り込んでいたのは、特別捜査部検事の松田昇(82)、検察事務官で特別捜査資料課長の田山太市郎と課員の水野光昭(73)ら運転手を含めて5人。行き先は、東京・目白、田中角栄の私邸。午前4時ごろから、庁舎周辺を輪番で巡回するマスコミ各社の目をくらます隠密行動だった。
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「田中邸に入るのは午前7時という指令を受けていた。だから、靖国神社で時間をつぶした」
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水野はこう明かす。気温25度ほど、南南西のそよ風。車中に張り詰めた緊張感で、誰も口を開かなかった。人目をはばかり、参拝もしなかった。しかし、主任検事として、事件を仕切った特捜部副部長の吉永祐介の怒りを買った。
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「勝負の日に、敗戦の神様の前で待機するなんて、お前ら何考えているんだ」もとより、吉永に靖国神社を貶(おとし)める意図などなかったはずだ。乾坤一擲、吉永なりに期するものがあったのだろう。
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ロッキード事件-。米ロッキード社(当時)の大型航空機「L-1011トライスター」の売り込み工作をめぐる戦後最大の疑獄事件だ。
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この年の2月。米上院多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)の公聴会で、ロッキード社から日本の政府高官に巨額の工作資金が渡ったことが判明し、日本の捜査当局は2月24日、本格的な捜査に着手。特捜部は警視庁、東京国税局と合同で、「政財界の黒幕」と呼ばれた大物右翼、児玉誉士夫宅や丸紅本社など27カ所の捜索差押に乗り出した。
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検察の捜査態勢は東京高検管内から集めた検事と検察事務官を含め、検事35人、副検事5人、検察事務官65人の総勢105人。家宅捜索箇所は国内130カ所を超え、押収した証拠品は約6万6千点に上った。
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目白の田中邸前で、水野は記者の姿を覚悟していた。しかし、数十m先に1台のタクシーが止まっているだけだった。
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「マスコミらしきやつがいるから、『地検か』と聞いてきたら、『陳情客だ』と言ってくれ」。そう、警備の警察官に頼んで、高さ3m、幅5mの門扉の中に足を踏み入れた。
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そろそろコイにエサをやる時間のはずだった。しかし、書生は「まだお休みです」と告げるのみ。政治ルートで情報が入ったのか、逃げたのか-。
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ほどなくして、うがいの音が聞こえた。現れたのは、田中その人だった。
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「地検の特捜です。ご足労いただこうと思いまして」。松田が言うと、「ご苦労さん。電話1本くれれば、来ていただかなくても、こちらからうかがったのに」と田中は応じ、「松田検事ですか。児玉を調べて大変ですね」と話しかけたという。
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松田はそれまで、脳血栓で倒れた児玉の在宅取り調べを担当。田中はそのことを知っていたのだ。
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玄関先には田中の妻のはな、長女の真紀子(72)の姿もあった。真紀子の目には涙が浮かんでいた。
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「お前ら、総理大臣をやった男の家族がうろたえるんじゃない。すぐ帰ってくる」そう話す田中を一行は地検の車に誘った。田中は車内後部座席で、松田と田山に挟まれて座った。
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「検事さん、たばこを吸ってもいいか」。たばこをくわえて、マッチを擦ったが、手元が狂って、指先を焼いた。任意同行を求めた検事同様、田中も緊張していたのだろう。
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戦後を象徴する政治家、田中角栄がロッキード事件で逮捕されてから40年。今再び「角栄ブーム」が巻き起こる中、生存する関係者の証言をもとに、「陰謀論」がくすぶる逮捕の真相や、功罪相半ばする田中の遺産に迫る。
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「黒い高官-いきなり“王手”」
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田中角栄逮捕を伝える昭和51年7月27日付のサンケイ新聞夕刊にはこんな横見出しが躍った。徹底的な情報管理でこの頂上作戦を指揮した東京地検特捜部副部長の吉永祐介にとっては、まぎれもなく勝負の日だった。
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田中の逮捕を先駆けて報じた新聞はなかった。
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「2月以降、頂点は角栄だと警戒していた。『桜のころまで何もないよ』『桜が散るころになるか』と検事から聞いていたが、結局、最後まで、時期についての感触はつかめなかった」こう話すのは、当時のサンケイ新聞司法クラブキャップ、樋口正紀(76)だ。1カ月以上も自宅に帰らず、連日、東京・丸の内ホテルや本社に臨泊し、Xデーを追っていた。
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「明日は歯医者に寄るから(出勤は)遅くなるよ」
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田中逮捕の前日、夜回り取材の記者らを前に、吉永はこう話したという。しかし、吉永は午前5時半には登庁。そして、午前7時過ぎには自ら検察庁舎正面玄関に出て、報道規制のロープを張り、「名前は言えないけど、入れるよ」と一言発した。吉永に、大手紙の記者が食い下がった。
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「誰が来るんですか」
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「いやあ、小物だよ」
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そんなやり取りがあった後、1台の車が地検前に横付けにされた。
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いつものように片手を上げるしぐさ。自宅から任意同行された田中を見て、記者は「とぼけやがって」と吐き捨て、駆けだした。
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田中への逮捕状執行は午前8時50分。過去に参考人として田中から話を聴いた経験を持つ東京地検検事正、高瀬礼二は「こういう形でまたお会いするのは非常に残念ですが、環境が変わりますので、お体にご留意ください」と語り、副部長室を立ち去った。
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逮捕状を執行したのは特捜部副部長の石黒。執行に先立ち、筆と紙を求めた田中。自民党幹事長だった中曽根康弘(98)宛てに、離党届をしたためた。
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「やっとここまで、たどり着けたか」
米ロサンゼルス。7月26日午後2時半(日本時間27日午前6時半)、当時東京地検特捜部検事だった堀田力(82)は電話を受けた。相手は吉永だ。「今から田中を逮捕する。(特捜部検事の)松田(昇)君が田中宅に入った」
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堀田は、米司法省の捜査協力を取りつけるとともに、「極秘で調べられるだけ、調べてこい」という半ば無理筋な命を受け、その年の2月26日に渡米していた。「大阪空港から沖縄へ、そして、グアムを経由して、米国」。着慣れた背広にネクタイではなく、カメラを下げ、サングラスをかけて観光客を装った。
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事件の成否は、ロッキード社の元副会長、アーチボルド・カール・コーチャンと元東京事務所代表、ジョン・ウィリアム・クラッターの供述にかかっていた。
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「米国が秘密の証拠をくれるはずがない。といって、米国で証拠を集める方法もない」。これが当初の特捜部の考え方だったというが、堀田は「交渉もしないでこの事件を諦めてしまっていいのか」という思いだった。
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「頂を目指して、進む」ことを胸中に秘め、堀田は「国境の壁、政治の壁、時効の壁、色々な手続きの壁…大小さまざまな壁を全部壊していった」。そして、コーチャンとクラッターの調書を手にする。それが、ロッキード事件の帰趨(きすう)を決めたと言っていい。
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ロッキードから丸紅を通じて田中側への5億円の資金提供を認めたコーチャンとクラッターの調書は、米司法省に依頼して堀田らの立ち会いの下で行われた「嘱託尋問」によって得られた。
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日本の検察はその調書を確保するため、日本で起訴しないことを「免責不起訴宣明書」で確約。さらに、日本の最高裁もその免責を保証する「宣明書」でこれに“お墨付き”を与えた。だからこそ、コーチャンらは証言した。
コーチャンらの嘱託尋問調書は1、2審では証拠として採用された。
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しかし、最高裁大法廷は平成7年2月22日、田中とともに起訴された「丸紅ルート」の2人の被告に対する判決で、田中への5億円の賄賂を認定しながらも、嘱託尋問調書の証拠能力を否定した。日本では刑事免責の制度を採用しておらず、弁護側の反対尋問の機会を閉ざしたとしたからだ。
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それでは田中の刑事責任は何が裏打ちするのか。事件の底流に何らかの政治的意図は働いていなかったか。逮捕から40年の今も疑問は消えない。.
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ロッキード事件 1975(昭和50)年夏、米上院外交委員会多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)の事務所に、米ロッキード社(当時)の極秘資料が届けられた。資料配達の経緯には不明な点が多く、意図的な配達による謀略説の根拠ともなっている。
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翌76年2月のチャーチ委員会の公聴会で、資料が公表され、ロッキード社副会長のコーチャンが全日空への航空機売り込みに絡み、「大物右翼」「政財界の黒幕」と称された児玉誉士夫▽「政商」と呼ばれた国際興業社主の小佐野賢治▽総合商社の丸紅-を通じ、複数の日本政府高官に巨額の工作資金を渡していたことを証言した。
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検察庁と警視庁、国税庁は合同捜査態勢をとり、東京地検特捜部は元首相の田中角栄、元運輸相の橋本登美三郎、元運輸政務次官の佐藤孝行の政治家3人を逮捕、起訴したのをはじめ計16人を起訴。公判は「丸紅」「全日空」「小佐野・児玉」の計3ルートで進行。佐藤ら11人の有罪が確定したが、田中ら5人は死亡により公訴が棄却された。
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ロッキード事件で田中角栄が受託収賄、外為法違反容疑で逮捕されてから6年半後の昭和58年1月26日。検察は田中に懲役5年、追徴金5億円という求刑を突きつけた。だが、嘱託尋問調書の証拠能力に早くから疑問を投げかけ、田中への有罪判決を突き崩そうとした“幻”の代理人がいた。米国人弁護士、リチャード・ベンベニステ(73)である。
ベンベニステに田中の代理人を依頼したのは、当時48歳で当選5回の自民党田中派衆院議員だった石井一(81)。
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「検察側の田中有罪ストーリーを潰すには、国内の法廷闘争だけでは勝てない。米国で調査を進めて真相に迫らなければならない」
石井は田中の求刑を聞いてこう決意し、協力してくれる弁護士を探しに渡米した。米スタンフォード大大学院時代からの友人を介して、ベンベニステと出会う。当時40歳。ニクソン米大統領を辞任に追い込んだウォーターゲート事件の主任検事を務めたすご腕の弁護士だった。
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2月、石井は米ワシントンの事務所を訪れ、ベンベニステと面会。ロッキード事件の関連資料を渡し、田中の弁護への協力を依頼した。10日ほどして「引き受けましょう」という返事が届いた。
改めて渡米した石井に、ベンベニステは「この事件には絶対、陰謀が絡まっている。底が深すぎるし、奇々怪々だ」と語った。
事件発覚の経緯や、田中側への5億円の資金提供を認めた嘱託尋問調書を日本政府が要求して裁判所が証拠として採用したことなど問題点を指摘。そのうえでこんな秘策をささやいた。
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「事件を証言したロッキード社(元副会長)のコーチャンは日本で刑事免責を受けているが、自分が米国内で彼を訴追することは可能だ」。ベンベニステがコーチャン相手に米国で裁判を起こし、真実を引き出すというものだった。
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ベンベニステは3月14日、同僚や秘書ら総勢10人で来日した。石井の手配で東京・高輪の高輪プリンスホテル(現・グランドプリンス新高輪)の最上階をフロアごと借り切り、急ピッチで本格調査を進めた。
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その結果、「宣誓証人に尋問する機会を与えられなかった被告人は、その証言をもとに何人(なんぴと)たりとも有罪宣告をされない。こうした権利は日米の憲法にとって基礎となるものだが、田中にはその権利が与えられなかった。有罪の宣告は成り立たない」との見解を石井らに伝えた。
裁判は論告求刑を終え、判決が迫っている。「あと半年…、いや1年遅れたな」。強力な援軍を得た思いの石井は後悔したものの、「1審は有罪になるかもしれないが、2審、最高裁がある」と思い直した。
ベンベニステの来日から10日ほどが過ぎ、石井が代理人を依頼するため、田中にどう引き合わせようかと思案していたところ、田中から突然、目白の私邸に呼ばれた。
「いろいろ苦労をかけているようだな。だが、大変申し訳ないがアメリカの弁護士は断ることにした」。意外な田中の言葉に、石井は「そんな話がありますか。せっかくすごいのを連れてきたのに」と食い下がった。それでも、田中は「分かっとる。分かっとる。が、すまん、許してくれ」とわびた。
石井は「このままだと有罪になりますよ」と迫ったが、田中は「いや有罪にはならない」と譲らなかった。
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石井はすぐに田中の言葉をベンベニステに伝えた。
「田中の気持ちは理解できる。すぐに帰国するよ」
ベンベニステはあっさり受け入れ、2日後、石井が娘2人へのお土産にとプレゼントした日本人形を手に帰国した。
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現在もワシントンで弁護士活動を続けるリチャード・ベンベニステは7月、産経新聞の取材に応じ、石井一の依頼で田中角栄の有罪判決を阻止しようと日本で過ごした日々を振り返り、こう言い切った。
「(自らの提案が採用されていれば)判決が合法的に受け入れられることは考えにくい。少なくとも、コーチャン(ロッキード社元副会長)に反対尋問する機会を持つか、証言が受け入れられないとして記録から抹消されるまで、判断は保留されたはずだ」
それにしても田中はなぜベンベニステへの代理人依頼を断ったのか。石井は「オヤジは無罪を固く信じていた。それに米国に仕掛けられたワナから逃れるのに米国人の手を借りたくないという、日本人としての意地とプライドがあったのではないか」と回想する。
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その後も石井は自ら調査と思考を重ね、判決を11日後に控えた昭和58年10月1日、「政治家として考える ロッキード裁判に関する一考察」と題した小冊子をまとめた。
石井は「世論の状況を考えると公開したら逆に反発を受けかねない」と考え、田中とその周辺の5人だけにひそかに手渡した。B4判53ページ、10章で構成された小冊子は、ロッキード事件と裁判の問題点、疑問点を多角的にまとめた、いわば「無罪ペーパー」だった。
ペーパーはまず、事件の発端について50年、米上院外交委員会・多国籍企業小委員会の委員長だったチャーチ上院議員の事務所に突然、ロッキード社の秘密資料や政府文書、売り込み工作費の領収書などが届けられたことに疑問を呈し、「誰が届けたのだろうか。何者かの非常に強い意図があったに違いない」と指摘した。
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また、裁判がコーチャンらに刑事免責を与える嘱託尋問調書を根拠としたことについて、
(1)同調書は捜査段階の資料として使われることはあっても、通常は裁判の証拠とならない
(2)嘱託尋問は被告人も弁護人もいない場で行われ、必要な反対尋問も行われていない
(3)検察の捜査段階で最高裁判所がコーチャンらの不起訴の宣明を決定した-ことなどを問題視した。
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これらの異例の捜査や裁判には「ある種の狙い」があり、それは「日米両政府やロッキード社を傷つけない範囲で、日本の高官を狙い撃つことだったに相違ない」との見方を示した。
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このほか、田中への請託の有無や金銭授受の不確かさなどを指摘。首相の職務権限についても内閣法の解釈を詳細に分析し、「有罪とするのは困難と見ざるをえない」と結論づけた。田中はペーパーを読み込み、いつも枕元に置いて大切にしたという。しかし、58年10月12日、懲役4年、追徴金5億円の有罪判決が下った。そして石井も約2カ月後の12月18日に行われた衆院選(田中判決選挙)で落選した。
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意気消沈していた石井は10日後、田中周辺からの誘いで、目白の田中邸を訪れた。田中は新潟料理を振る舞い、「君を落としたのは本当に残念だ」と慰めた。そして石井が届けたペーパーについて、「君一人が書いたのか。どうしてこんなことが分かるのか」と尋ねた。石井は「事件は完全にでっち上げられたものだと思っています。ただ感情的に言っても仕方ありませんから、事実を並べて論理的に書いたのです」と答えた。そして「時を経て、世間が冷静さを取り戻せば、いつか真実が明らかになる日がくると思います」とつけ加えた。田中は深くうなずいていた。
今も田中の無罪を信じる石井は語る。
「米政権は自分の思い通りになると思っていた日本を、日中国交正常化や資源外交などで独自の道に進めようとしていた田中を追い落とそうとした。そして、日本では当時首相の三木武夫が弱かった政権基盤の強化につながると考え、田中をターゲットに捜査を進めさせた。こうして作り上げられたワナに田中ははめられたのだ」
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「ある国が長期的な利益を犠牲にして、短期的な利益をもとに決定を下すことは、これが初めてではないだろう」
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1973(昭和48)年11月、日本を訪れた米国務長官、ヘンリー・キッシンジャー(93)は日本側にいやみを言った。在日米大使館の首席公使だったトーマス・P・シュースミス(故人)の証言によれば、外相、大平正芳との会談での言葉だったという。この年10月に勃発した第4次中東戦争は石油危機の形で日本を直撃し、首相、田中角栄は原油確保のためアラブ諸国寄りの姿勢を強めていた。イスラエルを支援し続けてきた米国との足並みは乱れた。キッシンジャーは日本人について「私は彼らを理解できない」ともこぼした。
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キッシンジャーは12月17日、イスラエル首相、ゴルダ・メイアらとの会談で田中への不満をぶちまけた。米外交文書によると、キッシンジャーはメイアにイスラエルへの国際的な風当たりが強くなっていると説明しながら、田中を名指して語った。「先見の明を欠き、勇気がないことを認めたがらない複数の政府は、イスラエルを非難することで何か仕事をしているように思わせようとしている。田中は私に『(翌年)7月に選挙があるので、何かをしていることを見せなければいけない』と言う。
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ロッキード事件に絡み、田中が独自の資源外交を展開するためアラブ諸国に接近を図ったことが、米国の石油メジャーの「虎の尾」を踏んだという説がまことしやかに語られている。
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最近になり機密解除された公電やシュースミスら当時の外交官が、国務省に近い研究機関「米外交研究協会」に対して行った証言記録からは、米政府が一貫して田中に不信感を抱いていた様子が浮かび上がる。
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70年から73年まで国務省で日本部長を務めたリチャード・A・エリクソンは、72年7月に田中内閣が発足した当初について「ニクソン、キッシンジャーはもともと、田中と関わりを持ちたくなかった。利益がなかった」と証言した。佐藤内閣の通産相時代はニクソン政権との間の日米繊維交渉を合意に導いた田中だったが、首相就任当初の田中の印象は「下っ端政治家」(エリクソン)だったという。
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田中は首相として初の訪米でワシントンを訪れる意向だったのに対し、ニクソンが難色を示した。エリクソンによれば、72年8月31、9月1両日の日米首脳会談がハワイで行われたのはそのためだったという。田中はハワイで、日中国交正常化に踏み切り、台湾との外交関係を終えることを米側に伝えたとされる。仁義を切ったつもりの田中は同月末に北京に飛び、日中共同声明の調印にこぎ着けた。しかし、米側は日中国交正常化に突き進む田中への懸念を強めていった。
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ハワイ会談を控えた8月10日付で、米国家安全保障会議(NSC)極東担当上級部員だったジョン・H・ホルドリッジが、大統領補佐官だったキッシンジャーに送った機密扱いの公電が今年4月に公開された。そこにはこう記されていた。
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「田中は日米を『切り離せない兄弟』と言うが、中国との国交正常化に関する彼の扱い方は、この基本的な前提に多大な影響を与えるに違いない。田中はこのことに気付いているが、『米国従属』という国内の批判を恐れて、米国の懸案事項(特に台湾防衛に関する)について、あまり積極的になれない」
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田中の自主路線に芽生えた米側の不快感は増幅されていった。
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日本政府は否定してきたが、1972(昭和47)年8月31~9月1両日のハワイでの日米首脳会談で、大統領のニクソンが、補佐官のキッシンジャーとともに田中角栄、駐米大使の牛場信彦と行った少人数会合で、ロッキード社の旅客機トライスターの購入を持ちかけたとの見方がある。
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当時国務省日本部長のエリクソンは「分からない。ロッキードは事前説明の対象となる議題には含まれていなかったからだ」としつつ、「ニクソンとキッシンジャーの個人的な協議事項があったかもしれない」と証言に含みを残した。
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一方、8月10日付で米国家安全保障会議(NSC)上級部員、ホルドリッジが上司のキッシンジャーに送った機密公電には、「日本が1億ドル(308億円)から2億ドルに当たる米国の航空機を購入する可能性がある」との記述がある。
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全日空によるトライスター21機購入(総額1050億円)が公表されたのは10月30日。公電に記された金額と開きはあるが、日米貿易不均衡の解消に航空機購入が首脳会談で話題となったのは間違いなさそうだ。
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76年2月4日、上院外交委員会多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)の公聴会で、ロッキード社が航空機売り込みのため、日本を含む外国政府関係者に巨額の資金提供を行っていたことが明らかになる。しかし、国務長官になっていたキッシンジャーは、この公聴会に先立つ75年11月28日付で司法長官、エドワード・レビ宛ての書簡で、ロッキード社の資料公開に異議を唱えていたことが分かっている。
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「早まって外国政府高官の名前や国籍を公開することは、米国の外交に損害をもたらすことになる」。すでに米証券取引委員会が同社の海外不正支払いについて調べを進めていた。
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キッシンジャーは事件の調査にどう関わっていたのか。ニューヨークの事務所に取材を申し込んだが、回答を得られなかった。
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日本側でも、事件発覚を受けた首相、三木武夫の素早い対応に、「国策捜査」との指摘がつきまとった。76年2月のチャーチ委員会で、ロッキード社副会長(当時)のコーチャンが日本への賄賂を証言すると、日本国内の世論は沸騰し、国会は紛糾した。
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三木は2月9日の政府・自民党首脳会議で、「まずなすべきことは真相の究明であり、法に触れるなら厳正に処置すべきは当然だ」と捜査の開始を示唆した。三権分立の日本で首相が司法の対応について口にすることは異例だった。さらに三木は同24日、米大統領のフォードに捜査への協力を要請する書簡を送る。三木の言動に自民党内で反発が広がった。
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当時、官房副長官で三木の「秘蔵っ子」と呼ばれた元首相の海部俊樹(85)は三木がフォードに書簡を送る数日前、首相官邸の執務室で「党内のほとんどが反対しています。書簡は出さない方がいいのでは」と具申したと明かす。三木は「国内から捜査の資料は出てこないだろう。協力を要請することを決めた。日本の民主主義は事件を明らかにして崩れるほど未熟ではない」と、書簡を自らの手でしたためた。
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「どのくらいでケリがつくのか」。東京地検特捜部検事として同26日に渡米して、田中逮捕の決め手となった嘱託尋問の実現に奔走した堀田力(82)は、三木から直接の電話を受けた。「米国にいる一検事に首相が電話するなど考えられなかった」と話す。
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米国への要請からわずか5カ月後の7月27日、田中は逮捕された。党内では、田中、大平、福田、椎名、水田、船田の6派が反主流に回り、8月19日に「挙党体制確立協議会」を設立。三木派以外の主流派は中曽根派だけという「三木おろし」の様相となった。情勢を報告する海部に、三木は「敵になるんならそれでもいい。道理はオレにある」と引かなかった。年末に衆院議員の任期満了を控え、解散権行使という手もあった。反対する閣僚が出ることを想定し、海部に交代リストまで作らせた。
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海部は「国民に信を問えば勝てるという自信はあったと思うが、解散すれば自民党は分裂していた」と語る。結局、解散は行われず任期満了に伴って衆院選は12月5日に行われ、自民党は敗北、三木は辞任した。海部は振り返る。「真相解明によって政権を強化したいという思いが三木にあったのは確かだが、日本の政治をクリーンにしなければ民主主義は育たないという信念の方が強かった」
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昭和60年2月7日は、ロッキード事件での逮捕、1審有罪判決後も「闇将軍」「キングメーカー」として君臨してきた田中角栄にとって、政治力の減衰を示す日となった。当時、蔵相などを歴任し、自民党田中派内で「ニューリーダー」と目されていた竹下登が「創政会」を結成したのだ。
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それに先立ち、当時52歳で当選6回の自民党田中派衆院議員だった渡部恒三(84)は、東京・平河町の砂防会館にある田中派会長室に田中を訪ねた。だれもが田中の逆鱗に触れることを恐れて尻込みする中、中堅・若手議員の代表として創政会への参加を報告するためだった。
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「貴様ーっ、このバカ野郎!」。田中はビル内に響き渡るほどの大声で渡部を怒鳴りつけた。そして「次の選挙ではたたき落としてやる」と、具体的な有力候補の名前を出して落選させる考えまで示した。
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「オヤジさんの気持ちは分かりますが、私は竹下さんとは早大雄弁会からの付き合いです。オヤジさんが父親なら、竹下さんは兄貴。オヤジさんの後は竹下さんを担ぐより仕方ありません」
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渡部は率直に自分の気持ちを伝えた。その姿勢が評価されたのか、田中は創政会結成後、たびたび東京・目白の自宅を訪れた渡部を歓迎した。応接間でお気に入りのオールドパーを酌み交わしながら、互いの地元の話などを語り合い、「元気で頑張れ」と励ました。
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創政会が結成された背景には、田中派が約120人を抱える党内最大派閥だったものの、田中が自分の派閥から首相候補を出さず、後継者も決めないという状況が続いていたことへの不満があった。結成は極秘裏に進められたが、「派中派(派閥内派閥)」になると警戒した田中は猛烈な切り崩し工作を進めた。その結果、参加者は当初の81人から40人に半減し、位置付けは「勉強会」ということになった。
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しかし、そのわずか20日後の2月27日、田中は脳梗塞で倒れて都内の病院に入院。以降、言語障害や行動障害が残った。9月にはロッキード事件の控訴審が東京高裁で始まったが、田中は欠席。一方、政治活動はそれでも続け、翌61年7月の衆院選でトップ当選を果たしたが、任期中、登院することはなかった。そして62年7月には、竹下が「経世会」(竹下派)を発足。田中派140人のうち、118人が参加し、田中は政治力を失った。
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追い打ちをかけるように同月29日、ロッキード事件の控訴審判決で、東京高裁は1審判決を支持し、田中の控訴を棄却。田中は即日、上告したが、もはや裁判も政治も展望を見いだす状況にはなかった。その後、田中は平成2年の衆院解散で政界を引退し、5年12月16日、75歳で死去。ロッキード事件は上告審の審理途中で公訴棄却となり、刑事被告人のまま人生の幕を閉じた。
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渡部は田中を振り返ってこう語る。「ロッキード事件について、オヤジが言い訳を言ったのを聞いたことはない。無罪とか有罪とかを超越して自分は死ぬまで政治家だという信念があったのではないか。われわれはそういう田中という人間の信者だったんだな。政治的な損得勘定や理屈ではなかった」
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田中角栄の政治力が衰えていく一方で、田中逮捕という金字塔を打ち立てた検察はヒーロー的な存在になっていった。「天下の田中角栄を逮捕したというのが衝撃だった。地方の一検事としても、東京の特捜はすごいことをやるなと驚愕した」。田中逮捕当時、福島地検検事だった宗像紀夫(74)には、東京地検特捜部がまぶしかった。後に特捜部でリクルート事件の主任検事を務め、部長としてゼネコン汚職事件を指揮する宗像は昭和59年、ロッキード事件の控訴審に投入された。
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「62年までの3年間、記録を読み込み、大学ノートに問題点を書いていった。ほかの事件は担当しなかった。絶対に負けられない事件ということだった」
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17年余りに及ぶ田中との暗闘に勝利した検察。捜査の中心的役割を担った東京地検特捜部は“史上最強の捜査機関”として人々の記憶に刻みこまれることになった。だが、その金看板が後に検察のおごりを生んだのではないか、という見方も少なくない。時に暴力を伴う強引な取り調べ、あらかじめターゲットを決めて描かれる事件の筋書き…。そんな話が聞こえてくるようになった。
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元東京地検特捜部検事で弁護士の郷原信郎(61)はロッキード事件が検察に残した「負の遺産」についてこう指摘する。
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「大艦巨砲主義というのが日本海海戦でできあがり、その戦勝体験が日本海軍にとって必勝パターンと信じられた。ロッキード事件捜査の戦勝体験がリクルート事件やゼネコン汚職事件にみられる贈収賄罪へのこだわりと、その捜査手法としての調書中心主義を生んだ。これがまさに大艦巨砲主義といえる。それがその後の捜査の近代化を遅らせた側面があるだろう」。調書中心主義の弊害が現れたのが、大阪地検特捜部が元厚生労働省局長の村木厚子(60)=無罪確定=を逮捕した郵便不正事件に端を発し、後に元特捜部長らの有罪が確定した証拠改竄事件だった。
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検察の描いた構図通りに村木の関与を裏付け、公判への影響を避けるため、押収していたフロッピーディスクの日時を書き換えた。特捜検察が「筋書き」に証拠を合わせるというゆがんだ捜査が行われていた。東京地検特捜部検事として、米国でロッキード社元副会長のアーチボルド・カール・コーチャンらの嘱託尋問の実現に奔走した堀田力(82)は証拠改竄事件について「一つのストーリーを先に作っていたから起きた」と指摘する。
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あらかじめターゲットを決めて筋書きを作り、犯罪要件をあてはめていくー。こうした検察の「ストーリー捜査」は半ば常態化していたのではないか、との指摘もある。「国会議員の○○と△△は、いずれやらなきゃいけない」。そんなことを口走る特捜検事もいた。この捜査手法の最大の弊害は筋書きに合わせようとするあまり、強引な取り調べに陥りやすいことだ。
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「人格を否定された」「土下座しろといわれた」…。リクールト事件やゼネコン汚職事件などでも検事の取り調べの過酷さを訴える声が相次いだ。実はロッキード事件の公判でも「椅子をけ飛ばされた」「侮蔑的な言葉で怒鳴られた」といった特捜検事の取り調べの一端が明かされている。ある検察幹部は言う。「ロッキードの成功体験があったから、他の捜査手法の開発が遅れた。時代の変化とともに、かつての説得してしゃべらせ、事件を広げるというやり方に行き詰まりが生じてきた」
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ロッキード事件をめぐっては、田中が狙い撃ちされたとの見方は今も消えていない。これに対し、堀田は「ロッキード事件では、いろいろな可能性があった。田中の可能性、他の人の可能性、政治家ではない可能性…。田中は、いくつもある読み筋の一つに過ぎなかった」と話している。
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検査院・五輪予算事業費調査:国費関連を点検!

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18年夏にも中間報告・膨張阻止狙う!
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各省庁・JOC・JSC!
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国が出す自治体や組織委への補助金や交付金!
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2020年東京五輪・パラリンピックに絡む公共事業のムダをなくすため、会計検査院は、国などの事業の一斉検査に乗り出す方針を固めた。18年夏をメドに中間報告を出す方針。東京開催が決まった13年以降に使われた資金を調査対象にする。
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直接の開催経費だけでなく各省庁が行う関連事業も検査し、大会との関係が薄い事業が五輪名目で膨張するのを防ぐのが狙い。大会前の18年夏に17年度分までの中間報告書を国会に提出し、その後の予算編成に改善点を反映させる異例の手法で臨む。
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検査の対象は、各省庁のほか日本オリンピック委員会(JOC)、日本スポーツ振興センター(JSC)など。検査の権限は法律上、東京都などの自治体や、大会組織委員会には及ばないが、国が出す補助金や交付金などの検査を通じて、自治体や組織委の支出もチェックする。問題点を見つければ検査院が公表する。
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国際的なイベントについて、検査院が開催前に全体的に調べた例はないとみられる。調査に踏み切る背景には国民の関心の高さもあるようだ。
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検査院はこれまでも若手選手の育成事業で不適切な会計処理を指摘するなど、東京五輪関連の事業を個別に調査してきた。中間報告に向けては、各省庁や各団体が五輪関連で使ったとされる国費を横断的に調べ、無駄遣いがないかなどを明らかにしたい考えだ。
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京都・向日市:備蓄3万6千食・未納でも代金支払う!

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2年以上・不足に気付かず!
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業者は経営破たん・責任はどの部署か!
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≪災害用備蓄物資の未収について(お詫び)≫
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このたびの災害備蓄物資の未収の件で、市民の皆様にご心配をおかけしたことにつきまして、深くお詫び申し上げます。
また、今後、このような事態を招くことのないよう、管理体制の強化など再発防止に取り組み、厳正に対処してまいります。
市民の皆様の信頼を一日でも早く回復できるよう全職員一丸となって努力してまいります。
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向 日 市 長    安  田     守
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京都府向日市は12月22日、災害時用に備蓄していると公表していた食料3万6000食の約4割が、業者から納品されず、備蓄されていなかったと発表した。
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納品を確認せずに代金を支払い、2年以上不足に気づいていなかった。業者は経営破綻したため、納品や代金返済の見込みはなく、市は不足分を別の業者から購入する。
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市は、南海トラフ地震を想定し、避難者に配る食料備蓄として、アルファ化米と水など3万6000食分の備蓄を計画し、購入費を2013年度予算に計上。入札で購入先の業者を決定した。
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市の内規では、物品調達では納品後に代金を支払うよう定めているが、担当者は14年3月、納品を確認せずに納品されたことを示す「検収調書」を上司に提出し、翌4月、代金計約1700万円を支払った。その後、アルファ化米と水は予定の半数しか納品されず、点検も一度も行われなかった。未納分は約800万円で、計画備蓄量の約4割にあたるという。今年4月、外部からの指摘で発覚した。業者は8月に地裁で破産手続き開始決定を受けており、市は来年度予算案に不足分の購入費を計上する方針で、関係者の処分も検討する。
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災害用備蓄物資の未収について(報告)
更新日:2016年12月22日
このたびの災害備蓄物資の未収の件で、市民の皆様にご心配をおかけしましたこと深くお詫び申し上げます。
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平成25年度災害用備蓄物資の未収について(報告)
16-12-31-bichiku
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インド弾道ミサイル「アグニ5」:発射実験・成功!

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中国の軍拡はアジアに緊張感を拡大!
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インド政府は12月26日、国産の長距離弾道ミサイル「アグニ5」の発射実験に成功したと発表した。
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インド国防省は核弾頭を搭載でき、中国全土を射程に収める長距離弾道ミサイル「アグニ5」(射程5500~5800km)の4回目の発射実験に成功したと発表した。
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インド国防省は、東部のベンガル湾にある島で開発を進めている国産の弾道ミサイル「アグニ5」の発射実験は、インド洋に向けて発射したミサイルが、どこに着弾したのかなど詳しいことは明らかにしておらず、国防省は「実験は成功した」としている。
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インドメディアによると、同省関係者は「最終試射」としており、今後、実戦配備への準備が本格化し、中国の反発を招く可能性がある。射程距離は中国全土が圏内に入る。
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実験は東部オリッサ州で行われた。アグニ5は複数の核弾頭を装備し、異なる目標を攻撃できる「各個誘導多核弾頭」の技術を採用しており、最大1・5トンまでの核弾頭を搭載することが可能という。インドはさらに性能を強化し、射程が6000~8000kmとされる新型ミサイル「アグニ6」の開発も進めている。
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アグニ5は射程がアジアのほぼ全域とロシアやヨーロッパの一部にも到達すると見られており、国防省は核弾頭の搭載も可能だとしている。アグニ5の発射実験は2012年以降これで4回目で、今後さらに数回の実験を行ったうえで、実戦配備するものと見られています。
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インドはことし、フランス製の最新型の戦闘機の購入を決めるなど軍備の増強を図っており、その背景には、中国がインド洋のシーレーン=海上交通路の要衝に位置するスリランカに潜水艦を寄港させたり、パキスタンで港湾の管理権を獲得したりするなど、南アジアでも影響力を強めており、インドとしては、中国の全土が射程に入る弾道ミサイルの開発を進めることで、中国をけん制する狙いもあるものと見られる。
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北方4島:安倍首相・プーチンとの交渉結果!

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あまりにも露を研究していない日本!
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正に四方海の島国らしき交渉!
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ロシアのプーチンを日本に呼んで、山口と東京で交渉に及んだ安倍首相、ものの見事にロシアに嵌り経済協定だけを先取りされ、瀬古経産相の得意げな馬鹿丸出しで握手をしても、まるで前に進まない返還交渉。
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人情と理詰めで攻め立てても、ロシア側は屁とも思っていないし、あわよくば日本のカネで島を再開発し「住民は露・支・韓人」がもっと増えるようにしてもらいたいという魂胆。極東の外れの4島は、間違っても日本に返還することなど考えてもいない。
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日本人は上辺のニコニコ顔と愛想顔にすぐ騙される。プーチンの人懐こい顔にコロリと騙されて「いずれは返してくれる」と勝手に良い解釈をしているだけ。「4島の帰属問題を解決して平和条約を締結する。これがすべてだ」と強調していた安倍晋三首相。本当に返還を望むのなら、瀬古経産相や岸田外相などにコチョコチョ任せず「ロシア担当相」を任命し、長期戦に出るべきだ。あまりにもコロコロ内閣が変わるから、相手もその度に一から交渉と賽ツボを振る。
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ロシアのプーチン大統領が「ロシア系住民の保護」を掲げてウクライナへの軍事介入を正当化していることを受けて、「プーチン大統領のウソ 事実と異なる10個の主張」と題する異例の反論を公式サイトに掲載した。国務省は、「ロシアは、ウクライナでの違法行為を正当化するために偽りの物語を紡ぎ出した。このような驚くべき小説がロシアから生まれたのは、ドストエフスキー以来だ。とも酷評している。
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ロシア外務省のザハロワ情報局長は2015年10月5日、日本との北方領土問題について「ロシアの立場は一貫しており不変だ。(四島は)第2次大戦の結果、ロシアに帰属しており、ロシアが主権を持つことに疑問の余地はない」と述べた。ロシアの方針は、今も一貫して変わりはない。しかし、何を言われたのか、安倍首相がプーチン大統領の12月の公式訪日を前に、もしかしたらという淡い期待を口にした。ところが、日本国内で領土問題解決への期待が高まっていることを踏まえ、ザハロワ局長は改めて日本側をけん制した言葉が戦勝品だと述べた言葉だ。
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ザハロワ局長は「平和条約締結問題の進展に向けた前提条件は、日本が大戦後の領土を含む現実を認めることだ」と主張。「加えて重要な前提条件は、2国間の全分野における未来志向の発展、信頼の強化、互恵的協力の拡大だ」と指摘し、安倍首相が提案した8項目の協力プランの具体化を希望する立場も示唆した。日本の希望は叶えないが、ロシアとの約束である経済協力は実行せよというのだ。
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キッシンジャー元国務長官の言葉に、プーチンを理解したくば、『マイン・カンプ』ではなく、ドストエフスキーを読まねばならぬ、とある。
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日本人は、ロシアに進出している商社や一部企業以外は「良く知らない」というのが本音だ。今回のプーチンとの交渉が何故頓挫したのか、大多数の日本人は良くわかっていない。それよりも、安倍晋三首相が理解していないのではないか。
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ある月刊誌に、なるほどという記事を見つけたので読んでいただきたい。
引用
「日露会談、“安倍完敗”に終わった理由」
日露首脳会談では、安倍晋三首相率いる日本チームとウラジミール・プーチン・ロシア大統領との役者の違いが際立った。理屈が跳ね返され、情への訴えも通じず、最後は相手も思うまま。十九世紀のロシア文学を地で行く展開だ。ヘンリー・キッシンジャー元米国務長官は最近の米「アトランティック」誌との会見で。「プーチンを理解するなら、ドフトエフスキーを読め」と喝破している。
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「フョードル」の性悪さ
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プーチンがドフトエフスキーを愛読していることは良く知られている。文豪の巨大な小説群には、今のロシア、プーチン政権を理解する様々な示唆が潜んでいる。ある米国人ロシア文学研究者はプーチンを「小説から飛び出してきた人物」とズバリ形容した。

第1の特徴は、際立った「ワル」ぶりである。偽悪家でも、策略家でもない。底知れない性悪さだ。「カラマーゾフ兄弟」の父親、フョードルはその代表格である。醜悪な容貌で、大嘘つき。強欲でカネに汚く、女性の弱みに付け込んでレイプ、セクハラを罪悪感なくやってのけ、周囲に吹聴する。ドフトエフスキーは「これでもか、これでもか」とその悪者ぶりを描くのだが、フョードルは一方で狡猾・老獪で人懐こい。読者はいつの間にか「この人はそれほど悪者ではないのではにか」と勘違いしてしまう。
プーチンは「ワル」であることを自慢してきた。2000年に自らの半生を語った本を刊行した際、著者とのインタビューでこう語っている。
「子供のころ、ワルだったからピオネール(ソ連共産党の子供組織)に入れなかった」
「悪がき気取りだったのですか?」
「馬鹿にするな。本当のワルだったのだ」
プーチンが育ったレニングラード(サンクトペテルブルグ)の大衆社会は、子供達にとっても、暴力と悪行支配するジャングルだった。小柄なプーチンは、ボクシングではなく、ロシアの格闘技サンボと、後に柔道で、自らを守る術を身に着けた。
大統領に就任後は、欧米の人道主義を鼻で笑った。政敵の弾圧、他国への軍事介入、米国など民主主義への違法な介入などを繰り返した。個人的な生活は厚い秘密のベールで覆われているが、膨大な隠し資産、美女たちとの交流の一端は、漏れ伝わる。「欲しい」と思ったものを強引に入手することには、多くの証言がある。それでも、フョードル同様、ワルの度が過ぎると、周囲には本質が見えなくなる。
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第2の特徴は、悪魔的な魅力である。ロシアでは、「悪霊」の主人公で、革命運動の指導者に擬せられたニコライ・スタブローギンと比較する声が以前から多い。この主人公は、知能や美貌など天分に恵まれ、周囲から「現代の英雄」「指導者」と崇められる。その下には、彼を「御神輿」に利用したい野心家や、感受性の強い純粋な若者たちが集まってくる。
その実、スタブローギン自らが「自分は取る足らない人間だと知っています」と語るように、中身は無く、人間的な徳もない。ここで文豪は「指導者(政治家)」に必要なのは、「これこそ英雄だ」と周囲に思わせる資質であることを描き出す。国内支持率が8割を超え、ドナルド・トランプ次期大統領やマリーヌ・ルペン仏国民戦線党首など、海外にもファンを広げるプーチンにとって、「悪霊」は心地よい読み物だろう。
プーチンは自分をよく知り、自らの資質に磨きをかけてきた。
昨年、「パナマ文書」公開で「プーチンの資産の隠れ蓑」と指摘された音楽家、セルゲイ・ロルドゥギンは、二十代のころの下っ端スパイだったプーチンとの会話を回想している。
「ぼくはチェリストで、ほかの仕事はできない。紀美は何が出来るか?」
「僕は人間関係の専門家だ」
ロルドゥギンは圧倒されて、黙り込んだ。プーチンは尋問のプロになり、脅しや透かし、相手への共感を使い分けた。これが第3の特徴で、お手本は、昨年刊行150年を迎えた「罪と罰」の作中にいる。主人公ラスコーリニコフを操作する予審判事、ポルフィーリーだ。外見の冴えない予審判事は、主人公との三度の対決で、相手をおだててジワジワ本音を引き出し、老婆殺害の自供に追い込む。名作のもっとも印象的な場面である。
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「救済」に名を借りた軍事介入
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「罪と罰」には、もう一人、重要な人物がいる。極貧の飲んだくれ、マルメラードフだ。実の娘を街娼にし、彼女から酒代をせびる「人間のクズ」は、「罪が深ければ深いほど、救済される」と、いささか手前勝手な確信をもっている。これは古来、ロシアで幅広く信じられており、重度の身体障害者や知的障害者は、しばしば「聖人」の扱いを受ける。
プーチンは「罪を犯した者」に限らず、「救済」という言葉をたびたび使う。「受難者の救済」といえば聞こえは良いが、「苦しむ人々を助ける」という口実で、グルジア(ジョージア)攻撃、クリミア併合が行われてきた。
ドフトエフスキーが唱え続けた「西欧は豊かだが皮相で、ロシアは貧しいが愚直」という、特異な民族主義も今のプーチン政権の米欧観に反映されている。
ドフトエフスキーには、現代ロシアを読むカギが豊富に潜む。
「私を鞭で打ってくださいな。そうすれば旦那との縁が深まりますから」と金持ちに懇願する、奴隷根性丸出しのおべっか使い。有り余る富に倦んで、何にも関心が持てなくなった貴族たち。これらの得体が知れぬ人物像は、プーチンの周りにひしめく新興財閥(オリガルヒ)や官僚群にふんだんに見出すことが出来る。
文豪のシベリア流刑から生まれた「死の家の記録」の世界は、今もほとんど変わっていない。プーチンは、政敵の元石油王ミハイル・ホドルコフスキーを10年にわたって、極寒のシベリアの刑務所に閉じ込めていた。そのホドルコフスキー自身も、ラスコーリ(ニコフらドストエフスキー作品の人物群に自分を重ね合わせるはずだ。
安倍首相の参謀たちから、「ドフトエフスキーを読んだ」と言う話は聞いたことがない。「ロシア精神」という言葉も聞かれない。案の定、日本側の理詰めの正攻法と「おもてなし」の組み合わせは空振りに終わった。
前出のフョードル・カラマゾフは作中、こんなことを言う。
「私が嘘をつくのは、話を面白くしたいだけなのです。みなさんにかわいがられたい一心なのです」
こんな人物に「以前はこう言っただろう?」と詰問しても、「覚えていない」と一蹴されるか、「それがどうした」と居直られるかのどちらかだ。読者がロシア人とこんな経験をしていれば、それは正にドストエフスキーの世界である。
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以上引用を終わるが、引用は会員月刊誌「選択」1月号。
16-12-30-sentaku
この月刊誌は、政界人、財界人など多くの人が読んでいる。
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プーチンが2001に権力を握ったとき、アメリカは対イスラムの同盟者だと思っていた。ところがアメリカが2004からウクライナのNATO引き込みに動いたので、アメリカはもはや敵であると考えを変えたのだ。民主党左派と共和党ネオコンは、ロシアなど亡びればいいと思っている。これが多数派である。キッシンジャーは反対する。秩序が大事だ。米国の戦略家は、解決方法ばかり考える。解決したら、去るつもりだ。そのような思考の中で、トランプ政権に変わるのだが、ジョン・ケリーは過去1年、オバマにアサドを爆撃させようと相当骨を折っていた。ケリーはベトナム戦争に抗議した若者だったのに、今ではカンボジア爆撃みたいなことをやりたがっている。トランプ政権は、世界に対し何をしたいのか、明確なメッセージを出せるのか。曖昧な就任演説なら、世界だけでなく米国内でも歪みが出る。
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安倍晋三首相は、早期のトランプ会談を望んでいるようだが、焦ることはない。ドイツ、イスラエル、英国、ロシア、中国と何をしたいのか、情報分析が出来るほど岸田外務省は情報収集能力があるのか。足元を固めないと世界の落ちこぼれになる。
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メディアの中の真実:一般人に真贋の判読は!

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自身が判断する目を持つしかない!
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大衆を躍らす方法はあるのか!
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米国の大統領選挙は、全米のメディアを敵に回しても勝てたという、トランプ氏の選挙が良い見本であろう。どれだけのメディアが束になっても、SNSでの発信が功を奏した事例として、今後の選挙にも応用されるだろうし、政府が大衆を懐柔するにも応用されるだろう。
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時として、報道のニュースの中身が正しい、とばかりは言えない時代がやってきた。日本はメディアは中立であり、旗色を鮮明にしないという事が言われてきた中で、一般大衆もそうなのであろうと漠然と受け止めてきた。時には、政権批判もあることは当然だと受け止めてきたが、メディアが態度を鮮明にせず「報道の記事、編集の方針で色を伝えてきた」例が、某新聞の慰安婦問題であろう。
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大言壮語が幅を利かせ、大衆を煽り、時の政権を攻め立てる。有る事無いこと、記事の吟味もなく「批判記事が紙面を飾る」期間が長ければ、読んでいる大衆は「それを信じ込んでしまう」とになる。
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良心的報道、真相究明報道と嘘報道の境目がぼやけていると、読者が多少の表現の違いがあっても大筋で似通っていれば、信じ込んでしまう。読者自身はニュースの中身にタッチできる立場になく、あくまで読むという受け身の立場だからだ。
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政党機関誌や政党幹部、政党の影響下にある首長などが「意図して怪しい情報を流し」それを解説付きで文章として「ニュース化」すると、それを違うと訂正する打消し情報を流すのは、五倍十倍の労力がいる。
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政党の議員や関連者が流すフェースブック、ツイッター、ブログが後援会からも同様の情報として流れると、撹拌の相乗で偽情報ですと言っても、簡単に消えるものではない。
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2017年、この情報操作が利用されるだろうとみられるのが、夏に行われる「東京都議会選挙」と目される。この年末、予想される小池新党に対する情報戦が始まっている。日常の何気ない情報の中に、偽情報を紛れ込ませ、SNSで拡散させ、広まっていく過程の中にもっと悪質な情報を付け加えていくという。この情報操作、発信元は5~6カ所もあれば済み、拡散する段階までにかかる資金は安くて済む。
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情報反乱の世の中、拡散が始まると元情報掲載は記事を消して、闇に消えていく。元の記事が消えても、二次転載記事は自己の意見も掲載するから、三次掲載は取り上げやすい。
特に政治に絡むスキャンダラスな記事は、転載しやすい。当落線上にある議員は、狙われたら落選の憂き目にあう。
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ことの真偽を判断しながら読んでいる人は少なく、また、完全に信用する人も少ないが、不幸の話は蜜の味と心得る中年婦人層にキャッチされると、拡散は早く、イメージダウンになることは間違いない。
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身の回りのこと
自身の住んでいる自治体のこと
政治家を取り巻く話
これらの人や団体を取り巻く、怪しい話は
TV、新聞、雑誌、週刊誌、携帯、ブログ、ホームページなどに似たような情報と取り上げられたら、そのニュースが真実を伝えているものと読者は判断する。
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同じ情報だから、正しく真実を伝えているとは限らない。しかし、個人が真実を読み解くことは難しい。派手で大きな記事より、小さなゴミ記事の方が正確に物事を伝えている場合がある。
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どうも世界は、我が勝手という方向に進んでいるようだ。
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米国の大統領選挙の後では、リベラル系メディアでは「真実の後」という言葉が流行りはじめている。これは、「真実など、どうでももいい時代」という意味だという。これからの時代、米メディアの中から、記者が出所不明のニュースに右往左往するということが多くなる。こんな本当のような、冗談が真剣に議論されている。
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日本には、有名人、芸能人、政治家が「週刊誌、雑誌」を相手取り、親告罪の刑事事件として「名誉棄損」、金を目的として民事の「名誉棄損」提訴がある。
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米国のように「真実など、どうでもいい時代」がやってきたら、名誉棄損などの親告罪は意味あるものとなるのだろうか。身綺麗だと自己PRするのも、オシドリ夫婦とPRしすぎるのも、ターゲットにされる原因で、自身の目立ちたがりが大きな原因だ。記事にされる側にも原因があるという事だ。
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未開人・china:北の空港・雪で足止め「大騒ぎ」!

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天気に文句言え!
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来てもらっても迷惑・日本人!
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未開人・chinaが北の空港・新千歳空港で大雪で足止めを食らい、空港警察官や職員ともみあい女性職員が2名押し倒されたり、中国客(女)が気分悪いと救急搬送された。
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未開の地では日常茶飯事であろうが、他国へ来て好き勝手をする人種に対し、日本人は客だと自覚し寛容さをもって接しているが、実に不愉快な人種であることには違いない。
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中国大使館は、自国民が騒ぎを起こしたことに対し謝罪どころか、「メ「ディアが煽り過ぎ」と苦情を呈するに至り、普通人ではないことを証明した。
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これらの新聞記事を引用すると
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<在日中国大使館「日本メディアはあおり過ぎ」「中日両国の国民感情に影響するとは思えない」>
産経新聞 12/28(水)
在日中国大使館(東京)の張梅報道官は27日の記者会見で、北海道・新千歳空港の国際線ターミナルで24日夜、大雪による欠航に腹を立てた中国人乗客らが騒ぎを起こしたことについて、「感情が過激になって他人に迷惑をかけることを支持しないが、日本メディアはあまりにもあおり過ぎではないか。中国メディアの中にはそうした報道もある」と述べた。その上で、「このような小さな一件が、中日両国の国民感情に影響するとは思えない」と指摘した。
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千歳署や消防によると、24日午後8時ごろ、搭乗ゲート付近で100人を超えるとみられる中国人乗客らが騒ぎ出し、このうち数人がゲート内に侵入、制止した警察官らともみ合った。
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新千歳空港では22~24日、記録的な大雪の影響で欠航が相次ぎ、足止めされた延べ約1万1600人が空港で夜を明かした。騒ぎを起こした乗客の中には、22日から足止めされていた人もいたとみられる。
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<新千歳空港騒動 空港女性職員転倒、中国人女性2人救急搬送 中国人客ら100人超騒ぐ 大雪欠航に立腹>
iza 2016.12.27
北海道・新千歳空港の国際線ターミナルで24日夜、大雪による欠航に腹を立てた中国人乗客らが空港職員ともみ合う騒ぎがあったことが分かった。
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千歳署や消防によると、24日午後8時ごろ、搭乗ゲート付近で100人を超えるとみられる中国人乗客らが騒ぎ出し、このうち数人がゲート内に侵入、制止した警察官らともみ合った。空港職員の女性が転倒したほか、30代の中国人女性客2人が気分を悪くして救急搬送されたが、いずれもけがはなかった。
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新千歳空港では22~24日、記録的な大雪の影響で欠航が相次ぎ、足止めされた延べ約1万1600人が空港で夜を明かした。騒ぎを起こした乗客の中には、22日から足止めされていた人もいたとみられる。
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24日は、このほかにも乗客が職員に詰め寄るトラブルが相次ぎ、千歳署員ら約30人が25日朝まで警戒に当たった。
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民進・蓮舫代表:党代表の自覚まるでなし!

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党を背負うより・人集めのパンダ役がお似合い!
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糸魚川の被災地視察「仕事納めのはずなのに…」!
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とりあえず目立ちたい。民進内の反対派閥を懐柔することもなく、小池都知事とコラボしたりと人目につくことが大好きなところは、都知事と似たとこありだろう。
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民進党の蓮舫代表は12月28日、党本部の仕事納めであいさつし、党職員の前で「明日は糸魚川に視察に行くことになりましたが、素晴らしい仕事ぶりを発揮して、移動だけで1都5府県です。『こんな日程をありがとう』と、最後に役員室の皆さんに愛情を込めてお伝えをしたいと思います」と述べた。
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「私が愛されているなあと思うのは、今日が仕事納めのはずなのに、今日も明日も地方出張です」と切り出した蓮舫氏。「糸魚川」とは、大規模火災に見舞われた新潟県糸魚川市の被災地を指す。
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蓮舫氏は29日に現地を視察する予定だが、ある民進党議員は発言について「言葉が軽い。視察を嫌々『やっつけ仕事』でこなすような印象を与え、大変な思いをされている被災者に失礼だ」と憤った。
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来年の都議会選挙、今のままだと民進は小池派に喰われそうと思うし、小池知事は反自民で間違いなく勝利できるかは未知数。外目から眺める議員の顔と内側から見る議員の顔はまるで違う。言ってみれば、芸能人がファンに見せる顔と楽屋で付き人に見せる顔の違いと、たとえ話をした方が分かりやすいだろう。
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議員の大方は「得手勝手の代表者」みたいなものだ。票になるなら何でもしますと「当選までは真剣な顔」当選したら「自分利にならないことは秘書任せ」、派閥の長に服従しても党にはあまり義理がない。所詮は、当選するなら派閥を渡り鳥のように飛び跳ねるし、近づく都議選で当選の目が薄い奴は、早くも飛び出し3人会派を作るという「落ち目の三度笠」で旅に出る始末。
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金もない、地盤もない、人気もない奴は「当分、風見鶏のようにあっち向き、こっち向きと忙しい」だろうが、選挙民は良く見ているのだという事を忘れているから出来ること。
1発大きなヒットを飛ばしても、2発目がヒットすることは難しい。議員も人気稼業と心得ている連中にとって、1年は何とか持つが、2年~3年と維持するのは大変、4年目で鳴かず飛ばずで落選というのが議員の姿。
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都議選の前に「衆議院選があるのか」、政界は一寸先が闇、、、。
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京都市の入札:また大型物件が右往左往!

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美術館は129億円で予算超過!
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市本庁舎・98億円で予算超過!
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衛生設備は再入札!
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この歳の瀬、京都市の本庁舎・新西庁舎、分庁舎の建築、設備の入札が行われたが、すんなり決まったのは本庁舎・新西庁舎、分庁舎の電気工事「きんでん・豊原電気土木JV」くらいで、空調は本庁舎は新菱・扶桑管JVだったが、分庁舎は不成立(最低額を提示したのは新菱・扶桑管JV)だった。衛生工事は本庁舎、分庁舎とも成立せず年を越す.ことになった。
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建築本体は本庁舎・新西庁舎は大成・ミラノ・古瀬JVが応札したが予定価格超過で不成立。分庁舎は、清水・金下・公成JVが59億9000万円で落札。
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美術館は、清水・岡野・住友電設・日比谷総合設備JVが2度入札に応じたが、予定価格超過のまま不成立となった。
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京都府、市の大型案件は1回の入札で決まることは無いようだ。積算が悪いのか、業者が悪いのか、入札を何回やり直しても同一メンバーJVならケリが付かない。
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京都市も予定価格の事後公表はやめて、予定価格を公表し入札に及んだらどうだ。元々、当局が予定価格は「この価格で落とせば確実な建物が出来ます」という時価相場価格・定価のようなものだから、この価格から15、20、25%と叩きで落札させること自体に違和感がある。
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予定価格で落札させ、下請け業者への発注額が適正なのか3次、4次下請けが泣かないような適正額を監視させる工夫をすべきが当たり前と思うがどうだろう。
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年末に当たり、入札制度につぶてを投げてみた。



1年間:ご愛読ありがとうございます!

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酉年はざわつくというが!
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本年も残り4日となりました。本日で御用納めとなる役所も明日からは正月休暇となり、30日まで仕事をする建築現場など、仕事納めも各社、業種によってバラバラでしょう。
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ご愛読頂いている諸兄もこの1年間、面白くもない記事のなかで、時々、目を引く記事があるから覘きに来ているという言葉をよく聞きます。有難いことだと感謝しております。
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記事として掲載できるまでの調査期間が少々かかるところが欠点で、調査、即記事掲載とならない、もどかしい面がありますが、その点を甘く見て頂ければ、及第点かなと自画自賛するところであります。
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読者より、本紙に「××週刊誌に○○の記事が出ていたが、社名やその場所が書いていない。調べて謄本などを掲載して」などと要望メールが入り、それらを特定するのに時間がかかったりするが、出来るだけ調べて謄本等を掲載することは、今後も継続していきたいと思っています。
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年末の休暇中も、ニュース記事ではなく、雑誌、週刊誌、経済誌などで「面白い内容を見つけたら」是非紹介したいと思っております。
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本紙も、12月30日~1月4日までは、通常の記事はお休みさせて頂きます。
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本日で休暇に入る方たちも、良いお年をお迎えください。
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