中国:一党独裁を許した米国の弱腰外交!

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なぜ国民党勢力を見殺しにしたのか!
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トランプの行動に信頼がおけるのか!
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政治的自由がなく、人権意識も薄い経済大国・中国。なぜ中国が今のような国になってしまったのか。著述家の宇山卓栄氏は「その大きな責任はアメリカにある」と指摘。問題の発端は1949年10月。当時のトルーマン政権下で対アジア政策を担った、2人の高官の怠慢と誤算があった―。
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1949年10月1日、毛沢東らの率いる中国共産党によって、中華人民共和国が建国されました。もしアメリカが、戦後の対アジア政策にもう少し本気で取り組んでいたら、同国の誕生はなかったかもしれません。アメリカは、共産主義中国が生まれるのを未然に防ぐことができたにも関わらず、これを半ば放置したのです。
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アメリカは1950年からはじまる朝鮮戦争で、北朝鮮を排除することができず、朝鮮半島の分断を固定化させてしまいました。それに先立ち、アメリカは中国においても、共産党と対立関係にあった右派の国民党を事実上、見殺しにしたのです。
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アメリカのアジア政策は中途半端で、第2次世界大戦終結直後の厭戦気分もあり、ヨーロッパにおいて注力されたような戦略観もなく、危機を放置・拡大させてきました。特に、戦後の中国に対するアメリカの対処は拙劣でした。戦後のアメリカのアジア政策の失敗がそのまま、今日のアジアの危機構造に直結し、われわれを苦しめているのです。
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国民党勢力の指導者・蒋介石は戦前、「日本軍は皮膚病のようなものだが、共産党は心臓病のようなものだ」と述べ、毛沢東ら共産党の存在を、中国にとっての最大の脅威と見なしていました。蒋介石は筋金入りの反共主義者でした。
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しかし、日本軍の侵攻が強まると、蒋介石率いる国民党の力だけでは抗しきれず、蒋介石はやむを得ず、共産党と手を組んだ(1937年、第2次国共合作)。
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第二次世界大戦の終戦後、日本という共通の敵がいなくなったことで、国民党と共産党は再び争いはじめ、国共内戦が始まります。戦時中から、毛沢東ら共産党は各地の農村に基盤を築き、巧みな宣伝活動で労働者の支持も得ていた。また、ソ連の支援も受け、勢力を伸長させていた。共産党の勢いは強く、放っておけば、中国が赤化統一されることは明白であった。
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しかし、アメリカは国共内戦に積極介入しようとはしなかった。アメリカは「国民党を中心に、共産党と連立した民主主義的政権をつくることが望ましい」と考えていた。
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当時のトルーマン政権はこうした視点から、国民党と共産党との調停に奔走する一方で、軍事介入は火に油を注ぐとして、最初から選択肢の中に入れておらず、中国駐留のアメリカ軍総司令官は、中国共産党軍に対し軍事攻撃をすることは「侵略的行為」に当たり、「アメリカ軍はそのようなことはしない」と言い放った


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アメリカのこうした「寛容さ・公正さ」の裏をかいて、共産党は交渉に応じるフリをしながら、各地で軍事攻勢を強め、日に日に国民党軍を追い詰めていました。この時、共産党軍の陣頭指揮をとって活躍したのがトウ小平(トウは登におおざと)らだ。アメリカの「寛容さ・公正さ」は共産党の時間稼ぎ戦術に利用されていたのです。
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アメリカが表明した「共産党との対立を避けながら、国民党を支援する」という方針は「何もしない」ということと同義であり、共産党を勢いづかせます。実際にアメリカは10万の軍を中国に派遣しながらも、それを動かすことはなかった。
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アメリカが中国共産党に対して、ここまで弱腰であった理由は、ソ連が既に共産党を積極支援しており、共産党とことを構えることになれば、ソ連と直接衝突する恐れがあるという不安を抱いていたからだ。
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しかしこれは、当時のアメリカのソ連への諜報活動が十分でなく、アメリカがソ連の内情を正確に把握していなかったことから生ずる杞憂でした。直接衝突を恐れていたのは、むしろソ連の方だった。スターリンはアメリカとの衝突を避けるために、アジアでのプレゼンスをできるだけ希薄にし、東ヨーロッパへの介入に注力していました。
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ソ連がアジアに介入する余裕をもてないでいる当時の状況は、アメリカが中国に対して強気に出ることができる好機だったが、アメリカは自ら、それを逸しただ。
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少し前、対北朝鮮政策をめぐってトランプ政権内部の意見対立が話題になったのと同じように、当時のトルーマン政権の中でも、強硬派と穏健派で意見が割れていました。トルーマンは強硬派のジェームズ・バーンズ国務長官を退け、穏健派のジョージ・マーシャル(1947年、国務長官)を中国特命大使に任命し、同じく穏健派のディーン・アチソン(1949年、国務長官)を国務次官にして、調停実務の計画立案を担当させた。マーシャルは国民党と共産党との調停に奔走し、中国人から「平和の使徒」ともてはやされた。
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アチソンは「国民党や共産党が協調し、中国統一政府を成立させなければ、アメリカは中国に援助をしない」と述べている。
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アチソンのこの発言は愚かで、共産党はアメリカに対し、援助を求めるどころか、アメリカ軍の中国からの撤退を要求した。アチソンの発言により、共産党はアメリカを中国から退出させるために、統一政府の樹立を是が非でも阻止しようと動くようになり、アチソンの意図した方向とは真逆の方向に、事態が進んでいってしまう。
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共産党の態度硬化に伴い、蒋介石ら国民党も強硬化し、1946年6月以降、両勢力は全面戦争に突入します(「国共内戦」)。「寛容さ・公正さ」を気取ったアメリカのやり方が裏目に出たのだが、トルーマンは責任を蒋介石に転嫁した。トルーマンは8月に、蒋介石の好戦的な態度が内戦につながったとする非難声明を発表している。
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「平和の使徒」ともてはやされたマーシャルはアメリカに召喚され、アメリカ軍も中国から撤退し、「アメリカは中国内戦に関与しない」と表明した。まるで、「腫れ物に触る」かのようなおじけづいた行動だった。
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国民党は戦前から党幹部の汚職・腐敗が絶えず、国民から不信の目が向けられており、インフレの加速など経済政策でも失敗し、支持を失っていました。当初、兵力の上では国民党は共産党よりも優位だったが、次第に形勢が逆転し、追い込まれていった。
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窮した蒋介石はソ連に接近。満州の権益を譲渡する代わりに、共産党への支援を控えるよう密約を結んだ。それでも国民党勢力は共産党に押され、ついに1949年4月、国民党政府の首都南京が陥落。蒋介石らは台湾へ逃亡する。
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結果として、中華人民共和国が建国され、中国はソ連など共産主義陣営に属することになる。この期間、アメリカの対応は後手に回り、その及び腰を狡猾な毛沢東ら共産主義者に見透かされ、彼らの暗躍を許した。広大な中国の国土が、赤く染められてしまった。
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「誤ったメッセージ」で朝鮮戦争を誘発?
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対中国政策で大失敗をしたにも関わらず、アチソンは1949年、マーシャルの後任として、国務長官に任命された。当時、アメリカ国内では、中国問題が重視されず、共和党の一部強硬派を除けば、中国の共産主義化についての責任を厳しく指弾する者はほとんどいなかった。
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アチソンのデタラメさが明るみに出るのは、朝鮮戦争の開戦以降で、アチソンは1950年1月、「不後退防衛線」つまり譲れない領域として、日本・沖縄・フィリピン・アリューシャン列島を挙げました(「アチソン・ライン」)。この「防衛線」を侵されれば、アメリカは軍事行動に出るとしたのだ。しかしアチソンはこのことで、逆に「防衛線」以外の地域、例えば朝鮮半島南部を侵されたとしても、アメリカは軍事行動に出ないという解釈の余地を生じさせた。
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1950年6月25日、スターリンと毛沢東の支援を受けた金日成率いる北朝鮮軍が、突如38度線を超えて韓国に侵攻し、朝鮮戦争が勃発します。「アメリカは朝鮮半島に関与しない」という誤ったメッセージを北朝鮮や中国に送ったことが、朝鮮戦争を誘発したと、共和党強硬派はアチソンを批判しました。
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その急先鋒が、後に「赤狩り」で旋風を巻き起こすジョセフ・マッカーシー上院議員でした。マッカーシーは著書の中で、マーシャルやアチソンを「ソ連と通謀していた売国奴」と糾弾している。いささか過激な表現ですが、マーシャルとアチソンの対アジア政策は、そんなことさえ想起させるほど拙劣であったことは事実です。
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アジアのことはアメリカにとって、しょせん遠い国の出来事。
歴史を振り返れば、アメリカがアジアの安全保障に関し、最後まで責任をもって問題を解決した事例を挙げるのは難しいことがよくわかる。現在のトランプ政権がその例外であると、果たして私たちは期待していいのでしょうか。
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