JR東労組・JR総連:旧国鉄三大事件と重なる影(3・終)!

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故意にレールが外され、列車が脱線した「松川事件」!
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乗務員3人が死亡した!
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松川事件
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昭和24年の事件。
「松川事件」とは、1949年に福島県の日本国有鉄道東北本線で起きた列車往来妨害事件です。下山事件、三鷹事件とあわせて戦後の「国鉄三大ミステリー事件」の一つといわれており、容疑者20人が逮捕されたものの、その後の裁判で全員が無罪となり、未解決事件となった。
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【第2の三鷹事件とも言われ】
1949年8月17日午前3時9分、東北本線松川駅北約1.8km、金谷川間のカーブで、青森初上野行き下り412号旅客列車が脱線転覆し、大破。機関士・石田正三さん(49歳)と機関助士・伊藤利市さん(27歳)が即死、機関助士の茂木政市さん(23歳)もまもなく死亡した。その他、荷物車掌と乗客3人が軽傷を負った。
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荷物車掌が機関車に駆けつけた時、茂木機関士は虫の息で、一言「列車妨害だ」と伝えた。
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これが松川事件の発端である。同年7月には下山事件、三鷹事件が起こっており、この事件は「第2の三鷹事件」などと報じられたりした。
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事件直前、現場付近を通過した列車の機関助士は、レールと土手のあいだをかがみながら通った4、5人の男を見かけた。全員白シャツに黒ズボンだった。
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田の中からはバール、スパナー、レールの継目板2枚、犬クギ2本が発見された。レールの犬クギ29本が抜かれており、レールは外側に開いてアメのようになっていた。また重い1本のレールは線路から13mも離れたところに、破損もなく落ちており、犬クギをはずすために使われたと思われるバールが1本、近くの稲田から発見された。事故ではなく、何者かによる計画的犯行であることは明らかだった。
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17日午後2時頃、元若松機関区員・Yが松川駅構内で逮捕された。Yは16日午後2時から東芝松川工場の職場大会に出席、しかしYは事件には関わりのなかったことがわかった。
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現場に急行した福島地検の・高田検事正と新井県国警隊長は、「計画的な列車妨害事故」と共同発表を行う。

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また18日には、吉田内閣の増田甲子七官房長官が、「今回の事件は今までにない凶悪犯罪である。三鷹事件をはじめ、その他の各種事件と思想的底流においては同じである」という談話を発表。
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捜査当局は事件まもなく、松川付近の不良少年たちを洗い始める。
9月10日、元国鉄の線路工手の赤間勝美(当時19歳)が暴行容疑で別件逮捕された。赤間は定員法でクビを切られていたが、共産党員や労組員でもなく、思想的背景は一見なさそうだった。
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それから一週間後、東芝松川工場の菊池武(当時18歳)という少年が、窃盗容疑で逮捕されたが、彼もまた共産党や労組とは関わりがなかった。
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「赤間自白」なるものが作られ、”共同謀議”を経て事件に関わったとされる人間が芋づる式に逮捕された。 国労福島支部分会長・鈴木信ら国労側10名、東芝松川労組組合長・杉浦三郎ら東芝の労働者10名が逮捕され、列車転覆致死罪の共謀共同正犯で起訴された。
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起訴の要旨は「人員整理反対闘争中の国労と東芝松川労組が警察の干渉をそらすため共謀して列車転覆を計画した。5回の連絡謀議をして、49年8月17日未明、枕木の犬くぎなど線路破壊工作をして機関車を脱線転覆させ、機関士ら3人を死なせた」というものである。
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【松川裁判】
国鉄、東芝の関係者、それぞれ10名が逮捕された。当時、それぞれの労働組合では何が起こっていたか。
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もともと国鉄労組の指導権は、共産党と革同(革新同志会)の統一左派がにぎっていた。組合は6月の新交番制反対の国電ストを前哨戦として闘い、首切りが発令されたならば、「ストライキをも含む実力行使」で抵抗する方針を、民同派の反対を押し切って決定した。7月に入って、第一次首切り370万人余の名簿が発表された。そしてその後、下山事件が起こるのである。7月13日には第二次首切りの6万人が発表された。国労中央闘争委員会は、「残念ながら事態は最悪に近づきつつある」という当局への警告文を、17対15で採択した。これに反対した民同派は、退場戦術をとり、中闘委は事実上分裂している。その夜、三鷹事件が起こった。労組及び共産党関係者の犯行と見られ、
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松川事件はそんななかで起こった。もはやこれは決定的な一撃だった。首切りは進み、そのなかには統一左派の幹部らも多く含まれていた。混乱のなかで指導権は反共である民同に移り、8月には組合指導部を自派でかためる中央委員会の開催に成功して、左派とのたたかいに終止符をうった。
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東芝では全国44ヶ所の工場のうち、弱小の地方工場28を切り離し、米の電機メーカーGE(ゼネラル・エレクトリック)と提携して、優秀工場中心に再編成をはかる合理化計画をすすめていた。それにともない。3万人の従業員を1万6千人に減らす手はずとなっていた。切り離しの対象となった松川工場では、東芝労連の波状ストの一環として、8月17日に首切り反対の24時間スト決行を予定していた。まさにその未明、事件は起こった。
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1949年12月5日、福島地裁で第一回公判が開かれる。赤間は「警察にだまされていた。白いものは白い」と無実を訴える。
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1950年8月、福島地検は実に10人に死刑、無期懲役3人を含む重罪の求刑。
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同年12月6日、福島地裁・長尾信裁判長は5名に死刑、ほか全員を無期、懲役3年6ヶ月~15年の有罪とした。
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判決の証拠類が長尾裁判長に代わった判事によって読み続けられていた午前11時半、各被告が一斉に発言を求め、斎藤被告が「裁判長の朗読は何を言っているのか解らない。無罪にするつもりか有罪にするつもりかはっきりせよ」と述べたが、判事の発言中止に被告席は総立ちとなり、傍聴席から「インターナショナル」の歌声が起こる。裁判長の制止も聞かず合唱は続き、赤旗を振る者さえいた。この騒ぎに、判事はついに全被告の退廷を命じた。
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1953年10月26日、広津和郎ら作家9人が「公正判決要求書」を提出。これには志賀直哉、吉川英治、川端康成、武者小路実篤らが連署していた。
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同年12月22日、仙台高裁(鈴木偵次郎裁判長)では共同謀議の一部が崩れ3名だけが無罪となったが、他17名については有罪を維持する判決を下した。
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被告(当時の年齢・役割) 所属 求刑 一審 二審
佐藤一(28歳・実行者) 東芝 死刑 死刑 死刑
他の被告は省略
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ところがその後、佐藤一のアリバイとなりうる「諏訪メモ」が発見された。
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1959年8月10日、最高裁・田中耕太郎裁判長は原判決を破棄、差し戻した。
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1961年8月8日、仙台高裁・門田実裁判長は全員に無罪を言い渡した。検察側は上告。
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なおこの差し戻し審で、警察が事件現場で発見したという「自在スパナ」が捏造だったことが判明した。この自在スパナは松川駅の線路班倉庫に1丁あったもので、犯人はこれを持ち出して線路の継目部のボルト・ナットをゆるめたものとされたが、裁判所に提出されたスパナは新品同様であり、使用した風にも見えなかったし、この小型工具でボルト・ナットをゆるめることも不可能だった。
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1963年9月12日、最高裁・斎藤朔郎裁判長は上告を棄却し、全員の無罪が確定した。事件当時、”少年”と呼ばれた赤間氏も、この時には中年(当時33歳)の顔になっていた。
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同年10月11日、愛知県の農業Bが、松川事件の無罪判決に不満を持ち、「杉浦が若い者をそそのかして事件を犯したもの」として、杉浦宅に出刃包丁を持って押しかけた。押し問答の末、Bは杉浦の生活状態に同情して殺害を断念した。
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【諏訪メモのゆくえ】
毎日新聞福島支局の記者・倉島康氏は、ある日下宿近くの銭湯で斎藤千と偶然会った。
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「クラさん、おもしろい話がある。アリバイだ。松川事件で死刑になる1人の被告のアリバイが見つかりそうなんだよ」
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事件当時は長野の高校生だった倉島記者は、松川事件については詳しくは知らなかった。翌日、広津和郎の「中央公論特集 松川事件」を買い、事件の概要を調べた。そして安田覚治弁護士に会いに行くと、倉島記者が切り出す前に、1通の書類を出した。
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事件の2日前、被告らが謀議していたとされる時刻、東芝松川工場労働組合側と、東芝松川工場長ら会社側との団体交渉が工場長室で行われたが、これに東芝労連本部から派遣された佐藤一が出席していた。さらにこの交渉の経過を記したメモを会社側の事務課長補佐・諏訪某氏がとっており、弁護士の書類はそのメモの全文について報告することを求める内容だった。
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諏訪氏は事務課長補佐であると言っても、組合を相手にすることが多かった人物で、被疑者10人のうち9人まではひととおり知っていた。面識がなかったのは、断交直前に争議応援のため福島入りした佐藤一だけであった。
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佐藤一のアリバイについては、それまでにも一緒に団交していた組合員が証言したりしたが、裁判所は信用しなかった。そのためこのメモは佐藤のアリバイを証明する一番のものとされ、この内容から次の3点が主張できる。
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(1)佐藤一は列車転覆謀略が行われたと指摘されている時刻には、その場から10km離れたところで、クビ切り反対の団体交渉の出席。
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(2)佐藤一が出席していない転覆謀略は”空中楼閣”として崩れ去り、列車転覆と言う実行行為は全く不可能である。
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(3)佐藤一が団体交渉に出席していた証拠となるメモは、事件直後”その筋”が持ち去ったまま行方不明である。
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このメモは持ち主の名前から「諏訪メモ」と呼ばれるのだが、これを警察、検察が隠したものとされ、弁護団がその所在を尋ねても、返ってくるのは「知らない」という答えだった。
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諏訪メモの存在を知った倉島記者は、そのことを支局の先輩に知らせたが、どうも反応は薄かった。松川事件は「もう終わった事件」とされていたからである。
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結局、毎日新聞はこのスクープを掲載することはなく、アカハタ(日共の機関紙)、朝日新聞などに先を越されることとなった。
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朝日報道から3日後、倉島記者は検察ナンバー2の次席検事に誘われて、若手検事とともに官舎でマージャンをした。その時、倉島記者は「朝日(新聞)に出ていたね」と探りを入れると、「ああ諏訪メモね。あれはちゃんとしたところにあるんだよ」という返答があった。
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諏訪メモは、国鉄労組員、東芝労組員らが大量に逮捕された時、警察が東芝から多数押収した書類のなかにあった。福島地検はすぐにこれの領置の手続きをとて「借出し」として、松川事件捜査を担当したある検事の手にわたった。二審(仙台高裁)に進むと、メモも仙台に移されたが、「最高裁で確定したら東芝の諏訪氏に返還する」と決められていた。最高裁に上告されると、メモは福島に戻ったが、福島地検本庁ではなく、ある検事宅に保管された。
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倉島記者は各検事のところを回って探りをいれつづけた。そして4日目、検事正室に、郡山支部長の検事が来ており、次席検事を交えて密談中であることを知った。
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倉島記者は廊下の柵をのぼり、3人の姿を確認。密談を盗み聞きして、郡山支部長は「諏訪メモは昨日からここにあります」という言葉を聞いた。
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結局、倉島氏はこのことを地方版(福島版)にのみ送稿。
そして最高裁は諏訪氏にメモの提出命令を出した。
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この一記者のスクープにより、被告は無罪を勝ち取った。
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諏訪氏は事件の記録をまとめようとしたが、すでに関係者が鬼籍に入っていたり、自身の病気などのためうまく進まなかった。
諏訪氏は1946年に東芝鶴見工場から松川工場に転勤してきた。農家の離れを借りており、そこは事件現場のすぐ近くだった。
当日午前5時ごろ、母屋の主人に起こされた諏訪氏は、一緒に現場を見に行った。発生から2時間以上が経過していたが、この時には警察も到着していなかったという。機関車は横転したままで、線路脇の畦道を松川駅方面に歩いていく乗客の姿があった。現場から一番近い母屋と諏訪氏の家は、被害者・関係者のための炊き出し基地となった。
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事件の前の晩11時ごろには、現場のすぐ近くの踏み切りを母屋の主人が通ったが、白い開襟シャツを着た5、6人の男たちがたむろして話し合いをしていた。そして挨拶を交わした。これは主人と、不審な男たちが知り合いだったのではなく、知らない人でもすれ違うときに「お晩です」と挨拶を交わす習慣があったためである。
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また諏訪氏は「ある被告が、無罪が確定した後に、上司に”実際は俺たちがやったんだ”と話していた」という噂話も聞いたことがあった。
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松川事件の起こった前年(昭和23年)の4月27日午前0時4分頃、奥羽線赤岩―庭坂間で、青森発上野行402列車が走っていたところ、前の機関車と郵便車が脱線、高さ10mの土堤下に転落した。つづく貨物車と客車1両も脱線して、機関士、助士の2名が死亡した。現場付近は下り傾斜の半径300mのカーブで、付近の犬釘と非常継ぎ目板が抜き取られていた。
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1949年5月9日午前4時23分、予讃線高松桟橋駅を出た宇和島行の旅客列車が、愛媛県難波村大浦のカーブにさしかかったところ転覆。機関助士3名が死亡、乗客3名が負傷した。やはり犬釘、継ぎ目板、ボルトがはずされており、国鉄で使っていないスパナとバールが発見された。
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両事件とも松川事件と酷似しており、また迷宮入りとなっている。このことから予行演習という見方もある。
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1952年6月、英文タイプ3枚の手紙が、数人の弁護士、総評など労働組合、新聞社に送られてきた。いずれも京橋郵便局から投函され、消印は6月11日だった。
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「MURDER WILL OUT (殺しはきっとバレる)」
そう題された手紙は、次のような書き出しをしている。
「帝銀事件、下山事件の犯人はいずれも日本人ではない。松川事件についても、アメリカ人が責任者であることは疑うべくもない。これには目撃者が1人いた。彼はたまたま現場付近を通りかかった時、約12名ほどの米兵が枕木からレールをはずしているのを見た」
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目撃したのは近くに住む労働者・斎藤金作氏である。
彼らは外国兵の服装をしていたが、そのまま通りすぎる斎藤さんを1人が尾行して声をかけた。
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「今夜見たことを決して他言するな。もし他言すると軍事裁判にまわされるぞ」
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その直後、列車転覆事件は起こった。
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5日後、斎藤氏はCICから出頭命令を受けた。身の危険を感じた斎藤さんは、横浜で輪タク屋をしている弟のところに逃亡した。斎藤氏も輪タク屋をして暮らしていたのだが、ある日突如行方がわからなくなった。その数十日後、横浜市南区中村町の運河上に斎藤氏の死体が浮かび上がったのである。
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遺族が駆けつけた時には、斎藤氏はすでに火葬されていた。検視の結果、外傷はなく、胃の中にアルコールが検出されたので、警察は酔って転落したものと断定した。ただ遺体が行方不明になった直後から42日間水につかった状態とは言えず、担当した医師も「二週間ぐらいの死体だと思った」と話していた。また三輪車の発見場所も死体発見現場から遠いところだった。
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その後、見知らぬ男が、斎藤さんの弟宅を訪ね、
「兄さんの死について、決して他言せぬ方が身のためだ」
と言って、名前も言わず、10万円を置いて立ち去った。
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手紙に記された斎藤金作とは、実在の人物だった。シベリア引揚者で、帰国後日本共産党に入党した。十数戸の集落である現場近く(福島県安達郡渋川村米沢川原田)に住んでいたが、横浜の弟のところにやってきて輪タク屋をやっていたことも、51年1月12日夕方に黒人の米兵を乗せていたのを最後に行方不明になっていたことも、2月22日に水死体が発見されたことも事実だった。
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ただこの怪文書は事実と異なるところも数ヶ所あった。日付が1年早くずれていたこと、弟が死体引揚げに参加していたこと、また10万円を持ってきた男もいなかった。
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また取材を拒否し続けた斎藤氏の妻も、斎藤氏が現場で米兵を目撃したことを否定、「あの夜家にいた」と主張した。
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斎藤氏は「CICから呼び出された」と二本松市議に相談に訪れたこともあったが、それはソ連に関する情報提供を求められただけらしい。ただ幼い頃から斎藤氏を知る東京・昭島市に住む老人などは、家を訪ねてきた斎藤氏の口から、現場で不審な数人を見たということを聞いた。
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「現場で見たのは背の高い人間で、引き上げるところだったらしい。そのことがあってから、しょっちゅう警察が来た。事件を知っているのは私1人だから言わせまいとして付け回すらしい」
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ちなみに犯行に関わったとされていた高橋らは全員背が低い。
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また斎藤氏の作った最後の川柳も発見された。
「宿命の試練に泣く日笑う夜」
これは何を意味するものなのだろうか。
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斎藤氏の死は、一審で有罪判決が出された翌年のことである。もし生きていれ

ば、公判に現れて、重要な証言をすることになる。警察・検察からすれば、困った

存在となる。
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斎藤金作怪死事件は週刊朝日が報じただけで、他の新聞・雑誌では一切触れられなかった。ただ気になる点としては、斎藤氏が横浜に逃げた頃、福島地方の某新聞が「斎藤金作氏地下潜行か」という記事が載った。この当時、彼は一労働者であり、容疑者でもなかった。共産党員ではあったが、党幹部ではなかった。あのタイミングでのあの報道は不可解なものである。
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【2人の泥棒が見たものは】
1959年、大酒を飲んだ末、その席上で「俺達は松川事件の犯人を見たんだよ」と口をすべらせた男がいた。2人は泥棒稼業のMとHという人物である。この話はすぐに弁護団にも伝わり、2人はとうとう法廷に立つことになった。
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事件前夜、MとHは金谷川にある呉服店に泥棒に入ったが失敗、翌日にも又も侵入に失敗した。このため2人は別々に帰ることにした。Mは線路沿いに松川に向かって歩いていた。午前2時半頃、暗闇から3人の男が現れ、さらに黒い人影が6つ現れた。いずれも大きな男である。Mは「お晩です」と声をかけると、「今晩は」と返ってきた。土地の者ではない言葉遣いだった。Mはこの男9人の出現にこわくなり、

道端のワラ束の中に身を隠した。しばらくして、轟音を聞いた。半鐘の男で列車の

転覆を知った。
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3日後、2人は松川駅前の食堂で出会った。Mがあの夜に見たことを話すと、相棒のHもまた、「金谷川の丘の近くで9人の男を目撃した」と話した。
2人はあの男たちが松川事件の犯人に違いないと確信したが、話してしまうと何度も泥棒をしていたことがバレてしまうので、10年間沈黙を続けていた。
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【その他の怪情報】
▽山路耕之助と赤間の対決
1952年、「面白倶楽部」という雑誌に松川事件に関するある記事が掲載された。それは事件前、福島県の野地温泉で、数人の男が集まり、事件をたくらんだというものだった。
この記事には実在する、赤間の兄が登場していた。赤間と元憲兵の中心としたメンバーが会議を開き、たまたま温泉に居合わせた筆者が盗み聞きをするという内容だった。
筆者は山路耕之助という人物で、しばらくその正体がわからなかったが、本名は中村某とわかった。中村は元海軍の予備大尉で、戦争中は情報機関の仕事をしていた。
赤間はこの記事に憤慨する。ある週刊誌がお膳立てして、2人の対決の場がもうけられたが、怒る赤間ととぼける中村といった具合だった。ガセネタと思われるが、中村がなぜ赤間の兄を知っていたのかはよくわかっていない。
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▽ジョージの一言
仙台に手広く工務店を開いていたKさんという男性がいた。店にはちょっとしたきっかけでCICの人間が出入りするようになった。
1949年の暮れ、KさんがジョージというCICの兵隊とコタツに入っていた時のことである。Kさんは新聞で松川事件の一審判決の記事を読んでいた。その時、ジョージは小さな声で、
「パパさん言うな。松川事件は他の者がやったんだよ」と言った。
Kさんが「他の者がやったって、誰がやった」と尋ねると、ジョージは「パパさん、今のこと黙っていろ!」と言って向こうへ行ってしまった。ジョージはその後、Kさんの前に2度あらわれたが、音信が途絶えてしまった。これは61年ごろに流れた噂である。
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▽謎のレビュー団
松川の駅前に「松楽座」という劇場があった。事件の起こる数時間前、レビュー団の公演があったが、その一座の中に変な人物がまぎれこんでいたとの噂があった。
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そのレビュー団はもともと松楽座で公演する予定はなかった。ところが急に、県の興行界のトップだった人物からじきじきに公演の交渉があったのである。松楽座の支配人は感激して、すぐにレビューを上演するようにプログラムを変更した。
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このレビュー団の本拠地は宮崎市である。「日本少女歌劇団」という名前で、戦前は主に満州や朝鮮を巡業していた。戦後劇団は再建され、この時にCICの承認を得て、旧特高警察関係者数人が、団のボスの下に参加した。このボス自身も戦後は米軍やCICとかなり親しく付き合い、羽振りも良かった。このボスは後に興行を

やめ、東京で防衛庁関係の雑誌を出していると言われた。
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ボスは団員の数について「女子30人、男子20人」と言ってきたが、公演について歩いたシナリオライターの日記が見つかり、それには男子は13名と記されてあった。20名と13名はずいぶん差がある。これについて松川事件弁護団は追及し、1964年には国会でも取り上げられた。その時、警察庁当局は「調査では男子従業員は11名だった」と答えている。
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事件当夜、松楽座の近くに住む女性は、弁当にと、劇団からおにぎりを頼まれていたが、その数は26個であった。26個は20人でも11人でも半端である。1人2個として、やはり13名ではなかったのではないだろうか。
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【犯人からの手紙】
1958年11月、ある手紙が届いた。宛名は「東京弁護士会館内 松本善明殿」となっている。
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(1枚目)
突然のお手紙失礼致します 先日松川事件第三回口頭弁論が終わりましたが実は約十年前私達七人にて事件を起した其の一人ですが今裁判を受けてゐられる被告の方々には当時の事件以来今日迄十年本当にお気の毒と思います私達七人が自首しない為に最高裁まで裁判を持って行かれましたが私達の自首する日が近づいて来ました■■又、最高裁の成行きを私達は今守って見て居りますのでどうか其れ迄現被告の方々に申し譯御座居ま也んが頑張って下さい私達と、かはって晴れる日が近い日に来ます、其れ迄私達七人を社会に置いて下さい
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私達七人の内三人は名古屋、二人は前橋、二人は岡山に現在います鉄道関係、東芝工場関係はぜんぜん関係ありません(諏訪メモ)で対立して居ますが其も関係ありま也んので私達七人を代表してお知らせします―――
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(2枚目)
私達七人は弁護側、又起訴した検察側又最高裁も重大な責任があり、私達は現犯人なので現在裁判に関係してゐるどれにも、私達は賛成しておりま也ん又、最高裁も一審二審とならって判決を下そうとしております、起訴しました無実の被告を裁判にかけた検察側が一番重大な責任があり、被告を受け持つ弁護側も、あっけないところがあると思います私達七人が現、社会にいるとしらず、回覧で事実調べを終わるなど、最高裁も私達七人にいは也れば、あっけない最高裁と思います、私達は福島列車転覆事件を実際にやった私達今、被告として裁判に付されている方々本当に申し譯なく思います、私達七人が自首する迄もう外のこと思はず気を大きく持つ日を送ってほしいものです勿論事件にはたしかに道具はつかっておりますが出所については自首して後に致します事件には当時の共産係二名に関係して居りますので自首するまで申也られませんが自首後申すことに致します.
私達が自首しない為にこのような最高裁判になった結果について日本人として本当に私達七人は申し譯なくおもいますどうか、七人が自首する迄お詫びいたします

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(3枚目)
松本弁護人様へ 私達は突然お手紙をだす事に七人で致しましたので十年後の今日松本様へ私たちが犯人であることを自首し現在の被告の方々には本当に申し譯なく詫びる気持ちで一杯です、だが私達は、今最高裁の出方を見守って自首する日をきめております、無罪である現被告を起訴した検察側、また私にいわせれば弁護側にも幾分の手おちがもありいずれにしても私達が自首する迄どうか現被告の弁護をお願ゐします、自首する日は二日前に手紙にて松本様にお知らせすると共に弁護人十数人をともなって、お公い致します、それ迄宜しく
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住所は自首するまでそのままにしておいて下さい
日本人として正しく裁かれる日を待つ日、近く自首する私達七人に栄あれ
十一月十六日 日曜日
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※封筒の裏面には「愛知県名古屋市熱田区丸高出」とあった。
※誤字などはママ。「せ」の字は「也」という漢字に見える。
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「共産係」という言葉は、日本の警察や公安調査庁では使用しないものである。これはCICが占領当時に「引揚者係、労組係、共産党係」といったもののひとつである。こうしたことからCICの下で働いている人物が疑われる。
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MとHが目撃した人数を公に発表したのが60年、レビュー団の調査を始めたのが1965年頃である。すなわちこの手紙はそうした情報を参考にして書かれたものでないことがわかる。弁護団はこの手紙について調査を開始。まず差出人のところの丸高出」という箇所を調べたが、熱田区に該当する苗字はない。会社や商店に「丸高」という名のつくところが2、3あったが、そこの経営者・従業員もすべて調べられた。
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消印には「昭和局」というスタンプが押されてあった。昭和局は1958年当時、名古屋市に実在し、熱田区と瑞穂区の郵便物を扱っていたことがわかった。さらに58年の区域改正によって、熱田区の一部は瑞穂区に編入されていた。
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調査範囲は狭まったのだが、ここである疑問が浮上した。長く名古屋市に住んでいる人間が自分の住所を書くときに、わざわざ「愛知県名古屋市」と書くのかというものである。余所者という可能性も十分にあった。
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「丸高」に関係するものでは、「丸高旅館」の支配人の机の上に、「Tドック」のある人物の名刺があるのが発見された。「Tドック」とあのレビュー団はつながりがないわけではなかった。
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松楽座でレビュー団の公演をする際、その背後にいた福島興行界のボス・Kと、Tドック塩釜工場の工場長Nは親密な関係だという情報があったのである。Kの弟分は、Tドック争議の時に、Nの配下に入り、またKの女婿はTドックの社員だった。
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Kは松川裁判をよく傍聴していた。臨終の時には「松川のことは某刑事にでも聞いてくれ」と言い残して亡くなったとも伝えられている。この話が事実だとすれば、「レビュー団―Tドック―丸高(手紙)」のラインは成立する。この手紙は、全員に無罪が言い渡された1963年9月12日午後、日比谷の松本桜の記者会見で、弁護団から公表された。だがこの手紙は翌日の新聞などで大々的に報じられることもなく、一、二の週刊誌が取り上げただけだった。
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【松川事件と出版ジャーナリズム】
一審で有罪判決が出た当時、共産党系と労組系の機関紙以外のほとんどのマスコミは警察発表のとおりに報道し、被告たちから真相を訴える手段はミニコミしかなかった。
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1951年11月、被告の手記、詩歌を中心にした文集「真実は壁を透して」(月曜書房)が発行された。これは広津氏が松川事件に取り組むきっかけとなった。
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1952年2月、人生雑誌「葦」が別冊の松川事件特集を発行、「中央公論」も同年3月号で特集、53年には「世界」も特集し、一石を投じた。
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二審判決を前として、警察の誘導、でっち上げられた自白を唯一の証拠とする一審判決批判は続いた。「改造 53年5月臨時増刊号」で広津和郎、9月号には吉岡達夫、「文芸春秋 10~11月号」に宇野浩二、「中央公論 10月号」に広津和郎が執筆。「世界 11月号」が再び特集を組み、「婦人画報」も12月号で批判に加わった。
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二審判決後もこの動きは広がり、「法律時報」「婦人公論」「婦人生活」「文芸」「新潮」「小説公園」「文学界」が批判に加わる。特に 広津和郎が「中央公論」に1954年4月号から4年半にわたって連載した裁判批判であった。20人の被告を救ったのは広津和郎氏や、諏訪メモを発見した新聞記者だけでなく、何百万の人々による支援活動だったともされる。
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娘でやはり作家の桃子さんの著書「父 広津和郎」によると、広津氏は自分のことを「なまけ者」と呼んで、よく寝る人物であった。だが興味があることをとなると、急に起き上がって熱心に調べ始める。松川裁判では、文学者としての姿勢を捨て(この間、ほとんど小説を書いていない)、また文学的推理や想像も排除して、裁判記録からの科学的な分析を貫いた。
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松本清張氏も、広津氏の取り組みについて次のように書いた。
「無罪を確信することは、あるいはだれでも容易であろう。しかし、作家がこれを文章にして執拗に世に訴えることはかならずしも容易でない。ことに、この時期まで松川無罪を叫んでいた外部は共産党関係ばかりだった。世間の誤解を恐れない、よほどの勇気を必要とする」(『社会評論集』より)
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【被告団を除名された佐藤一】
佐藤一氏は1965年8月に結婚した。妻は作家・三宅艶子の一人娘だった。当時、佐藤氏は「下山事件研究会」の事務局員として食うや食わずの生活をしていたが、妻もフリーライターとして働き、夫の取材費や研究費を稼いでいた。
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1969年、そんな夫妻のもとに一通の手紙が届けられた。それは「松川事件被告団除名」の通知書だった。佐藤氏は無罪確定後、日本共産党から雑誌「前衛」編集部に来いと言われた、刑事補償を使い切るまで冤罪事件を調べるために、これを断っていた。共産党側から求められたほどの男が、なぜ除名を通達されたのか。
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それは佐藤氏の所属する「下山事件研究会」が、徐々に「総裁他殺説」でなく、「自殺説」を開陳し始めたからだった。佐藤氏は下山事件も、松川事件と同じく謀略であったと思って研究を開始したのだが、自分で調べれば調べるほど、「自殺以外にない」と考えるようになった。つまり共産党は、「謀殺説」をとる党と考えの違う人間を「被告団」に入れておくわけにはいかない、と考えたのである。
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結局、佐藤氏はこの直後、離党届を提出。以後、冤罪研究を、妻の支えを受けながら続け、下山事件、松川事件、島田事件、狭山事件に関する信頼のおける著作を残した。2009年6月、佐藤氏は心筋梗塞で亡くなっている。享年87。
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