JR東労組、北鉄労、JR総連:左翼駆除・出来なかった各社!

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左翼のほうが利口に立ち回り!
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動労・国労の組織員が残った!
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戦前は、国が直営していた国有鉄道の略称は、「国鉄」。戦後、外郭団体となって日本国有鉄道となったが略称も、「国鉄」で鉄路も列車も同じであり、国民はその変化に気がつかなかった。
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国家公務員には「スト権」はないが、外郭団体の職員なら、公務員ではないので、スト権が確保されると考えた戦後の左翼は国鉄内に「労働組合もどき」を結成した。国鉄の職員の数は、国内企業の中で、最大の組織となった。戦後日本で最大の反日左翼系国鉄労働組合が誕生した。国鉄は国が運営する公営企業だからスト権はないのだ。この労働組合もどきは、団体をつくる権利と、団体で交渉する権利があるだけ。
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戦後日本の経済発展と共に通勤電車の増発、過密ダイヤとつづき、通勤地獄とも言われた。列車というハードだけでなく、運転手、車掌、列車のメンテナンス要員も必要になり、既存の職員の労働時間も増える一方だった。組合は仕事の増加に反対した。
サポタージュが発生し、効率は悪くなり収益は圧迫されるが、組合はベースアップを要求し経営は赤字を繰り返し、国家予算に匹敵する巨額の負債を抱え込んだ。
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中曽根康弘氏が内閣総理大臣の昭和62(1987)年に、時の運輸大臣三塚博氏が国鉄民営化の辣腕を振るった国鉄民営化。
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当時の国鉄の2大組合、国労(国鉄労働組合)と動労(国鉄動力車労働組合)は、”昔陸軍、今国労”だとか、”鬼の動労”などと呼ばれるほど絶大な権力を誇っていた。
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当時は正統な権利を回復すると称し、ストライキとサポタージュの繰り返しで、当局に圧力をかけるという戦術を開発運航を混乱させる「順法闘争」という戦術を編み出した。
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1970年代には、首都圏の主要路線の乗車率は軒並み350%にもなり、時刻通りに電車は動かず、1973年3月5日の第二次順法闘争では電車の運休は最初の一週間だけで、3万5000本にのぼり、実に8400万人が被害をうけたと言われている。
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3月12日、高崎線上尾駅で順法闘争のため列車に乗れず駅のプラットホームには乗客5000人もの乗客が取り残された。列車に乗れない乗客達は怒り心頭のあまり、誰が言うとでもなく列車の運転席や駅長室を襲撃、破壊する暴挙に出た。更に争乱は桶川、鴻巣、熊谷駅にまで拡大し、数千人もが参加する一大暴動事件にまで発展してしまいました。上尾事件と呼ばれている。
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目黒動労委員長は調子に乗り、更なる闘争の継続を指示。4月24日、順法闘争が強化され、列車は軒並み1時間30分前後の遅れが出た。赤羽駅は、6000人もの乗客であふれていた。信号機故障で列車がストップしたことがきっかけとなり、遂に日頃溜まりにたまっていた乗客の怒りが爆発。赤羽駅の駅長室に暴徒がなだれ込み、駅舎が破壊されました。
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更にホームに停車していた京浜東北線が放火され炎上、この影響で京浜東北線のみならず並列する山手線までストップした。赤羽駅の暴動の報が伝わると、上野駅、新宿駅の乗客達が一斉に暴徒と化して駅を破壊、占拠。暴動は忽ちのうちに首都圏の各駅に波及し、最終的に渋谷、秋葉原、有楽町など首都圏38の主要駅に拡大した。この暴動に参加した暴徒の数は約3万2000人に達し、新宿駅は2万人もの暴徒が溢れ一時無政府状態になった。
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このような暴動の遠因は、国鉄労組の横暴が一般市民の怒りを誘発したという事を理解していないのが当時の組合の上層幹部(労働貴族)の実態である。
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国鉄民営化で、国労、動労の活動家は採用されなかった人が多い。特に分割された地方のJRは受け皿が小さかったので、地方に実家がある組合員は不採用が多かった。不採用の組合員はこれを組合員への不当な差別だと裁判に訴えたのです。確かに憲法にも思想信条による差別禁止がうたわれ、労働関係法でも組合員の差別を禁じているので、法的に会社の方が分が悪い。
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1987年の国鉄分割民営化にあたってJRに採用されなかった人数は7000人以上。国鉄労働組合(国労)などに所属する1,047人が救済を求めてきたJR不採用問題は、最高裁で和解が成立した。

内容は、国鉄の業務を引き継いだ鉄道建設・運輸施設整備支援機構が、組合員に総額およそ200億円を支払うことや、原告が係争中の訴訟を取り下げることなど。
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国労など4者4団体(国労・全動労・鉄建公団訴訟原告団など被解雇者団体で構成)は、「過ぎ去った日々は、もはや取り戻すことはできないが、本日の和解解決を契機としながら、原告らはむろんのこと、家族や遺族もそれぞれの積年の思いに一つの大きな区切りをつけて、自らの道を進み、人生の再出発がはかられるものと固く信じてやまない」「今後積み残されている雇用確保が実現されるまで全力をあげて奮闘する決意である」などとする共同声明共同声明を発表した。
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原告団のうちJRへの就職を183人が希望しており、JRの関連企業も含めると原告のうち約330人がJR関係への就職を希望しているとの報告があった。2010年に政府はJR各社に約200人の雇用などを求める解決案を出したが、法的拘束力はなく、JR北海道では採用者はいなかった。
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話は長くなったが、新たな船出をしたJR各社にいつの間にか「革マルや中核」が根を張った。JR東労組とJR東日本は密接な関係にあり、人事などの権力もJR東労組が握っている。JR東労組の執行部は革マルに握られ、大半の組合員はこのことを知らずにJR東労組に加盟した。JR東労組の前身は「鬼の動労」と呼ばれた国鉄動力車労働組合である。国鉄民営化前までは、国労(国鉄労働組合)と共闘し、スト権スト、順法闘争、反マル生闘争などの過激な闘争を行っていた。
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国鉄民営化が決定(戦後引揚者の大量受け入れや鉄建公団や五方面計画なども要因)し、最初は国労と同様に分割民営化に対して反対闘争を行ったが、後に方針転換を転換して分割民営化に賛同、国鉄側と労使共同宣言を締結した。民営化に賛成した理由として、反対闘争を行い続けるよりも新会社の労組に革マル派の勢力を植え付けたいという動労内部の革マル派の意向があったと言われている。松崎明氏(革マル派ナンバー2)が6年間東労組の会長に付いていた時期もあった。しかし、実際には国鉄民営化に意欲的な当時の中曽根政権が総選挙で大勝し、民営化は不可避になったことから、協力し組合員の雇用を最優先に守るためであった。
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現在でも革マル派との関連は強く、政府や警視庁は革マル派が浸透している組織と認識している。
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つづく
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