田中角栄(2)・冤罪 ロッキード事件の真相!

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石井一氏が語る・ロッキード事件について!
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米国の弁護士「陰謀が絡まっており、底が深すぎ奇々怪々だ!
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ロッキード事件で田中角栄元首相が逮捕されてから7月27日で40年。それを前に事件当時、自民党田中派衆院議員だった石井一氏(81)が25日、自らの調査をもとに事件と裁判の真相を明かした著書「冤罪-田中角栄とロッキード事件の真相」(産経新聞出版、本体1400円)を出版した。石井氏に田中氏と聞いた。(聞き手 高橋昌之)
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--昭和51年7月27日、田中氏はロッキード事件で逮捕されたが
「その年の2月から米国のチャーチ委員会(上院外交委員会多国籍企業小委員会)で、事件が取り上げられ、日本でも捜査が進められていたが、私も含めて田中の周辺ではだれも逮捕まで踏み切るとは思っていなかった。それに対して、東京地検は金権政治の象徴である田中を逮捕することが正義だというおごりのもとに、前の首相を、それも最初は外為法違反という容疑で逮捕するという暴挙に突っ込んだ。これは歴史的に糾弾されるべきことだと思っている」
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--その後の裁判をどう見たか
「田中は終始一貫、無罪を信じて切っていたし、やましいという様子を全く見せなかった。そこで、私は事件に疑問を持つようになり、弁護団らと話をしているうちに、田中は本当に無罪ではないかと思って、自分でも調査することにした。田中派だからとかそういうことよりも、政治家として捜査や裁判が行き過ぎたり、曲がったりしたときは追及していくのは使命ではないかという思いが強かった」
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--58年1月26日、検察側は田中氏に対し、懲役5年、追徴金5億円を求刑した
「その時、私は『検察側のストーリーをつぶすには、日本国内の法廷闘争だけでは勝てない。米国で調査を進めて真相に迫らなければならない』と思い、渡米を繰り返した。協力してくれる政治専門の優秀な弁護士はいないかと考え、スタンフォード大学大学院時代からの友人に相談したところ、その年の2月にリチャード・ベンベニステという弁護士に会うことができた。ニクソン大統領を辞任に追い込んだウォーターゲート事件で主任弁護士を務めた凄腕の持ち主だった。私が事件の関連資料を渡し、田中の弁護を依頼したところ、10日ほどして『引き受けましょう』という返事がきた。改めて渡米した私に、彼は『この事件には絶対、陰謀が絡まっている。底が深すぎるし、奇々怪々だ』と語った。そして、事件発覚の経緯や田中側への5億円の資金提供を認めた嘱託尋問調書を日本政府が要求して裁判所が証拠として採用したことなどの点をしてきた。そのうえで『事件を証言したロッキード社(元副会長)のコーチャンは日本で刑事免責を受けているが、自分が米国内で彼を訴追することは可能だ』とも語った」
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--その後のベンベニステ氏との調査は
「彼は3月14日、同僚や秘書など総勢10人で来日した。私が手配して高輪プリンスホテル(現グランドプリンスホテル新高輪)の最上階をフロアごと借り切り、急ピッチで本格的な調査を始めた。10日ほどが過ぎ、代理人を依頼するため、田中にどう会わせようかと思案していたところ、田中から突然、東京・目白の私邸に呼ばれた。田中は『いろいろ苦労をかけているようだな。だが、大変申し訳ないが、アメリカの弁護士は断ることにした』と言われた。私は『そんな話がありますか。せっかくすごいのを連れてきたのに』と言ったが、田中は「分かっとる。分かっとる。が、すまん、許してくれ」とわびた。さらに私は『このままだと有罪になりますよ』とも言ったのだが、田中は『いや有罪にはならない』と譲らなかった。私はすぐにベンベニステにこのことを伝えた。彼は『田中の気持ちは理解できる。すぐに帰国するよ』と受け入れてくれた」
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--田中氏はなぜ依頼を断ったと思うか
「ひとつは『米国から仕掛けられたワナから逃れるのに米国人の手を借りたくない』という日本人としての意地とプライドがあったと思う。もうひとつは田中が無罪を固く信じていたということだ。それで米国人の弁護士まで頼む必要はないと思ったのだろう」
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--58年10月12日の1審判決を前に、調査の結果を小冊子にまとめ、田中氏らに渡したということだが

「事件と裁判には多くの問題があるのに、田中が有罪になることには納得がいかなかったので、自分なりの調査の結果を手書きの小冊子にまとめた。最初はみんなに配って公開しようと思ったが、世論の状況を考えると逆に反発を受けるのではないかと思い、田中とその周辺の5人にだけ渡した。内容は事件の発端への疑問や嘱託尋問調書が採用されたことの問題点、田中への請託の有無や金銭授受の不確かさなど指摘し、『有罪とするのは困難と見ざるをえない』という見解を示したものだった」
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--田中氏の受け止めは
「小冊子を読み込み、いつも枕元に置いて大切にしてくれていたそうだ。その後、判決が出て、私もその年の12月18日に行われた衆院選で落選した。その10日後、田中周辺からの誘いで、目白の私邸を訪ねた。田中は新潟料理をふるまって、『君を落としたのは本当に残念だ』と慰めてくれたのだが、その後、私が渡した小冊子の話になった。田中が『君一人が書いたのか。どうしてこんなことが分かるのか』と訪ねたので、私は『事件は完全にでっち上げられたものだと思っています。ただ、感情的に言っても仕方ありませんから、事実を並べて論理的に書いたのです。時を経て、世間が冷静さを取り戻せば、いつか真実が明らかになる日がくると思います』と答えた。田中は深く、深くうなずいていた」
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--1審での懲役4年、追徴金5億円という有罪判決を田中はどう受け止めたのか
「田中は判決に向かうとき、無罪だと信じていた。しかし、有罪判決が出て司法に対する憤りに満ちていた。裁判所から帰ってくると、自宅事務所の会議室に駆け付けた国会議員だけを入れ、『総理大臣経験者としての私が、このような罪を、このような形で受けることは、国民に申し開きのしようがなく、名誉にかけて許せない』と演説をした。その後の田中は派閥をどんどん大きくして、自民党を完全に支配した。その異常なまでの執念の背景には、首相というポストを傷つけてしまったという反省と、自分の無実をかならず晴らすという意地があったのだと思う」
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--事件をめぐっては日米政府の陰謀説もある
「米国の政権は自分の思い通りになると思っていた日本を、日中国交正常化や資源外交などで独自の道に進めようとした田中を追い落とそうとした。田中は『(当時国務長官だった)キッシンジャーにやられた』ということを私にも言っていた。一方、日本側では事件当時の首相の三木武夫が、自分の政権基盤を強化しようとして、事件を機に田中を葬り去ろうとした。それに歩調を合わせて裁判所や検察という司法が、異常な執念と思い上がりから、首相経験者を仕留めようとした。そこへマスコミが追い打ちをかけ、世論は田中を罰することが日本の民主主義を救うことになるというムードになってしまった。これは歴史的に検証されなければならないことだと思う」
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--田中氏は平成5年12月に刑事被告人のまま、75歳で死去した
「ものすごく悔しかったと思う。昭和60年に脳梗塞で倒れ、障害が残ってから亡くなるまでの間は筆舌に尽くしがたい苦悩があっただろう。無実でありながら、罪を晴らせないままこの世を去ったことはまさに悲劇だ」
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--田中氏を政治家としてどう評価しているか
「政治家として並外れた能力の持ち主だった。予算の数字から政策の中身を知り尽くし、議員立法もたくさんやった。その意味で政党政治家の模範といえる存在だった。一方で『カネ』のイメージが強かった。ただ、それは自分の力で作ったもので、反省面ではあるが、希有な政治家だったと言えるのではないか。ただ、紛れもない愛国者であり、庶民の目線を持っていた。ロッキード事件がなく、田中の能力が発揮されていたら、日本の国は北方領土問題をはじめ、いまだに残っている問題もとっくに解決できていただろう。田中がどれほど大きな功績を上げることことができたかと考えると残念だ」
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■石井一(いしい・はじめ) 昭和9年、神戸市生まれ。甲南大学卒業、米スタンフォード大学大学院修了。サラリーマンを経て44年、35歳で衆院初当選。自民党田中派、竹下派を経て、平成5年に同党を離党し、その後は新生党、新進党、民主党に所属。衆院議員11期、参院議員1期。国土庁長官、自治相・国家公安委員長などを歴任した。
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