田中角栄(1)・ロッキード事件で逮捕:政争の具に!

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三木政権は田中角栄に止めを!
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田中角栄(たなか・かくえい)
大正7年新潟県生まれ。高等小学校卒業後、昭和9年東京に出て建築事務所に勤務。陸軍入隊、満州出征を経て18年田中土建工業設立。22年衆院初当選。32年、39歳で郵政相として初入閣、以後蔵相、自民党幹事長、通産相など歴任。47年7月、54歳で首相就任、9月日中国交正常化を果たす。「日本列島改造論」で角栄ブームが起きるが、自らの金権体質を批判され、49年11月退陣。51年7月ロッキード事件をめぐる受託収賄容疑などで逮捕、翌月起訴されたが、田中派を率いて政界に強い影響力を維持。58年ロッキード裁判で懲役4年、追徴金5億円の有罪判決、控訴。60年2月、脳梗塞で倒れ、平成5年12月、75歳で死去。
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新潟県民は、現在の道路事情や郷土開発の姿を見るにつけ、角栄の後姿を思い出すことであろう。功罪半ばといわれても、郷土に角栄がいなかったら、九州のO県、M県、中国地方のS県、T県のような過疎地域よりもっと過疎になっていたのではなかろうかと、、、。
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本日は、 2016年の角栄本が多数出版され、ネット上でも角栄待望論的な文章が多数散見された。数あるネット記事の中でも、産経ニュースで公開されている【角栄逮捕・40年後の証言】という記事は、生存する関係者の証言を転載する。「陰謀論」がくすぶる逮捕の真相や、思想や人脈など田中の“遺産”に迫った企画「角栄逮捕・40年後の証言」を読んでください。
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明晰な頭脳と大胆な行動力で「コンピューター付きブルドーザー」と異名をとった戦後を象徴する政治家、田中角栄(1918~93年)。新潟の寒村の出身で高等教育を受けずに政界の頂点まで上り詰めたことから「今太閤」とも呼ばれた元首相が、ロッキード事件で逮捕されてから7月27日で40年になります。中国との国交正常化を成し遂げ、「日本列島改造論」による大規模な公共事業を推し進めて国民から絶大な支持を得ますが、自らの金権体質を批判され、退任後はロッキード事件をめぐる受託収賄容疑などで逮捕され、懲役4年、追徴金5億円の有罪判決を受けた。
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≪田中角栄、ロッキード事件40年後の「驚愕証言」≫
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空前の田中角栄ブームが到来している。角栄氏を主人公にした石原慎太郎氏の小説『天才』がベストセラーとなったのをはじめ、数々の関連本が出版され、NHKスペシャルの「未解決事件」シリーズでも、2夜連続で『ロッキード事件の真実』が放送された。
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そうしたなかで7月上旬、『田中角栄を葬ったのは誰だ』(K&Kプレス刊)を上梓した、事件当時、衆院議員秘書を務めた平野貞夫氏(元参院議員)はこう断じる。
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「NHKなどの報道は基本的に、田中角栄さんを逮捕した検察のやり方を追認、称賛するものに見えた。しかし、私はむしろ逮捕のプロセスに大いに疑問を抱いている。田中さんは権力によって消され、真相は闇に葬られたのではないか。40年後の今こそ、真実を解き明かす必要がある」
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いわゆる「ロッキード事件」とは、角栄氏が総理時代に、米航空機メーカー・ロッキード社の代理店だった丸紅から5億円の賄賂を受け取ったとされる事件。5億円は、角栄氏が全日空にロッキード社製の大型航空機「トライスター」の購入を承諾させたことへの謝礼とされている。角栄氏は1976年7月に外為法違反容疑で逮捕され、一審と二審で懲役4年の実刑判決を受けた。そして上告後の1993年、最高裁の判決を待つことなく他界している。
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事件の発端は1976年2月、米議会上院公聴会で、「ロッキード社が日本政府高官に工作資金を渡した」との疑惑が飛び出したことだった。ロッキード社幹部の衝撃的な証言により、角栄氏をはじめとする複数の政治家に追及の矛先が向けられ、国会は紛糾した。
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当時、国会正常化に奔走したのが衆院議長・前尾繁三郎氏であり、その秘書が平野氏だった。「私は『ロッキード国会』と呼ばれたあの時期に、政治家や各党の動きを記した大量のメモをとってある。この事件は米国発だが、主要な舞台となったのは日本の政府与党の内部。その熾烈な権力争いの結果、敗れたのが田中さんだった」
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◆消えた「児玉ルート」
オイルショックによる物価上昇や金脈政治批判を受け、田中内閣が総辞職に追い込まれてから1年2か月後の1976年2月5日。前日の米議会公聴会を受けて、朝日新聞が朝刊2面に、
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〈ロッキード社 丸紅・児玉氏への資金〉
との見出しで、小さな記事を掲載した。この400字にも満たない記事が、政財界を揺るがす事件に発展するとは、平野氏も予想していなかったという。
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「見出しに名前の挙がっていた児玉誉士夫氏は、右翼の大物で政界のフィクサーとして名が知られていた人物。しかも、当時幹事長だった中曽根康弘氏の元書生が児玉氏の秘書を務めるなど、自民党中枢との関係が深いことは知られていた。疑惑が広がれば政権与党を直撃すると感じた一方、記事は淡々としたトーンで、児玉氏の名前を挙げていたのも朝日一紙だけだったので、そこまで大騒ぎになるとは思っていなかった」
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だが、平野氏の予想に反して各紙は連日、大きく疑惑を取り上げるようになり、通常国会は紛糾。衆院予算委員会では全日空、丸紅の幹部、角栄氏の「刎頸(ふんけい)の友」であり、米議会で工作資金が渡った先として名前の挙がった国際興業グループ創始者・小佐野賢治氏らが証人喚問の場に立った。
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「朝日の見出しにあった通り、ロッキード社からの工作資金の流れには主に2つのルートがあった。
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ひとつは児玉氏を通じて防衛庁に次期対潜戒機P3Cを売り込むルート。もうひとつは丸紅を通じて全日空に大型航空機トライスターを売り込むルートだった。政界への波及でいえば、第1の『児玉ルート』は元防衛庁長官で当時幹事長だった中曽根氏につながり、第2の『丸紅ルート』は小佐野氏を通じて田中さんにつながるものだった。
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当時、ロッキード社が流した対日工作資金約30億円(1000万ドル、当時のレートで円換算)のうち約21億円は児玉氏に秘密コンサルタント料として渡ったとされていた。にもかかわらず“本線”であるはずの児玉ルートは、事件発覚後すぐに、事実上、捜査の対象外になってしまった」(平野氏)
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その理由は、児玉氏が脳塞の後遺症のために重度の意識障害を起こし、国会の証人喚問に応じることができないことだった。
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結果、東京地検の捜査対象は丸紅ルートに集中し、「角栄逮捕」の流れにつながっていく。
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「なぜ児玉氏の証人喚問が不可能だったか。実は証人喚問の直前、児玉氏の証言を不可能にする作為がはたらいていた可能性が高い」
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平野氏はそういって、驚くべき証言を続けた
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田中角栄・元首相が逮捕された「戦後最大の疑獄事件」、ロッキード事件発覚当初から、児玉誉士夫氏は「病気」を理由に証人喚問を拒否していた。
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国会は1976年2月16日、病状確認のために医師団を児玉邸に派遣した。結果、児玉氏は「重度の意識障害」と診断され、喚問は見送られることになった。
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7月上旬、『田中角栄を葬ったのは誰だ』(K&Kプレス刊)を上梓した、事件当時、衆院議長秘書を勤めていた平野貞夫氏(元参院議員)が振り返る。「私は当時、児玉氏が中曽根(康弘)氏を守るために、自分の意志で証人喚問を拒否したと思っていた。しかし、その判断が間違っていたことに、後になって気付いた」
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そのきっかけは、ひとつの告発記事だった。『新潮45』(2001年4月号)に掲載された記事で、児玉氏の主治医・喜多村孝一東京女子医大教授(当時、故人)の部下だった天野惠市氏(当時、同大助教授)の手記である。天野氏はその中で、国会医師団派遣直前の喜多村氏の行動を暴露した。記事には1976年2月16日の午前中、東京女子医大の脳神経センター外来診察室での出来事が克明に記されている。
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〈立ったままの喜多村が、切り出した。
「これから、児玉様のお宅へ行ってくる」
喜多村は、児玉を必ず、「児玉様」と呼んだ。〉(前掲記事より、以下同)天野氏が訝りつつその理由を聞いた後の2人のやり取りは以下の通りだった。
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〈「国会医師団が来ると児玉様は興奮して脳卒中を起こすかもしれないから、そうならないように注射を打ちに行く」
「何を注射するのですか」
「フェノバールとセルシンだ」
いずれも強力な睡眠作用と全身麻酔作用がある。
「先生、そんなことしたら、医師団が来ても患者は完全に眠り込んだ状態になっていて診察できないじゃないですか。そんな犯罪的な医療行為をしたらえらいことになりますよ、絶対やめてください」〉
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止める天野氏に対して喜多村氏は激怒し、看護師の持ってきた薬剤と注射器を往診カバンに詰めて出ていった──手記にはそう書かれている。
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国会医師団が児玉氏を診察したのは、喜多村氏が児玉邸を訪れてから数時間後。そして喜多村氏が国会に提出していた診断書の通り、「重度の意識障害下」にあり、国会での証人喚問は不可能と判断されたのである。
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平野氏がいう。「フェノバールとセルシンの注射で発生する意識障害や昏睡状態は、重症の脳梗塞による意識障害と酷似している。仮に国会医師団が見抜けなかったとしてもおかしくない」「そして、着目すべきは“主治医が児玉邸を訪れたタイミング”だと指摘する。「私のメモにも残っていますが、2月16日は医師団の派遣を巡って衆議院の予算委員会理事会が紛糾していた。医師団の派遣そのものを決めたのが正午過ぎで、メンバーが決まったのは午後4時。そこから『2月16日の当日中に行くか』『翌日の朝にするか』を協議し、夜7時になって当日中の派遣が正式に決定した。私は議長秘書として医師団派遣の調整に関わっていたので、時系列に間違いはない。
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つまり、児玉氏の主治医は、国会医師団の派遣がまだ正式に決まっていない16日午前中に、すでに“医師団が今日中に児玉邸に来る”と確信していたことになる。医師団派遣はいわば機密事項だった。にもかかわらず、なぜ主治医は知っていたのか。国会運営を取り仕切れる中枢にいて、かつ児玉氏の主治医にもコンタクトできる人物が情報を流していたとしか考えられない」
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◆「得をしたのは誰だ」
もし児玉喚問が実現していたら、ロッキード事件は違った方向に展開していた可能性がある。丸紅を通じて角栄氏が受け取ったとされるのは5億円。一方、児玉ルートには21億円が流れたとされている。平野氏が続ける。
「児玉氏の証言が得られなかったため、東京地検は狙いを田中さん一人に絞り、逮捕に全力を傾けた。もし当局が児玉ルートにも切り込んでいたら、ダメージを受けたのは中曽根氏だったはず。私は告発記事を読んだ後に天野医師と会って話したが、児玉氏の主治医だった喜多村氏は、その後、“中曽根氏の主治医”を名乗るようになったと証言している」
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事件発覚当時から、角栄氏の逮捕に至る流れは、政治的な思惑のある「国策捜査」ではないかとの指摘がされていた。米議会公聴会で疑惑が出た直後の1976年2月9日に当時の三木武夫・首相は、与党内に累が及ぶ疑惑であるにもかかわらず、「なすべきことは真相の究明」と言明。権力側が政界ルートの捜査を検察に促す“逆指揮権”が発動したともいわれた。
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そして結果として、三木首相と党内で対立する角栄氏に追及の矛先が向かった。その三木政権を幹事長として支えていたのが中曽根氏だった。
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角栄氏が1976年8月に保釈されると、田中派をはじめとする自民党内の反主流派6派閥が一気に「三木おろし」の逆襲を始め、その際に政権サイドについたのが三木派と中曽根派だけだった。当時、自民党内で壮絶な権力闘争があったことは間違いない。
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そして時は流れて平成の世になり、2008年に秘密指定が解除された米公文書に、中曽根氏とロッキード事件を結びつける記述が見つかっている。
〈ロッキード事件の発覚直後の1976年2月、中曽根康弘・自民党幹事長(当時)から米政府に「この問題をもみ消すことを希望する」との要請があった〉(2010年2月12日付、朝日新聞)
中曽根事務所は平野氏の指摘、米公文書の記述について、「ノーコメント」とするのみ。平野氏が続ける。
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「田中さんは物的証拠がないまま、証言だけで有罪になった。政治、捜査機関、司法当局、そしてメディアによって、“田中有罪”という世論の大合唱が作り上げられていった」。なぜ、ロッキード事件では結果的に角栄氏だけが狙い撃ちされたのか。
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1976年9月に角栄氏が米国の意に背いて日中国交正常化を実現させ、同時に台湾との国交を断絶したことでホワイトハウスが激怒した―といった「米国の虎の尾を踏んだ説」も根強くある。それを裏付けるような機密解除された米公文書の存在も報じられている。平野氏がいう。
「“虎の尾論”は一面の真実をついているでしょう。ただ、私にできるのは、『対米追従シンドローム』に侵された日本の権力者たちが、田中角栄という政治家を葬ったということを論証すること。それが使命だと考えているから今回、『田中角栄を葬ったのは誰だ』を改めて出版した。事件から40年を機に、国民に目を見開いてほしい」
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真実は、どこにあるのか。
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その日、昭和51年7月27日。空白む前の午前3時、1台の黒いセドリックが東京地検から静かに滑り出した。乗り込んでいたのは、特別捜査部検事の松田昇(82)、検察事務官で特別捜査資料課長の田山太市郎と課員の水野光昭(73)ら運転手を含めて5人。行き先は、東京・目白、田中角栄の私邸。午前4時ごろから、庁舎周辺を輪番で巡回するマスコミ各社の目をくらます隠密行動だった。
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「田中邸に入るのは午前7時という指令を受けていた。だから、靖国神社で時間をつぶした」
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水野はこう明かす。気温25度ほど、南南西のそよ風。車中に張り詰めた緊張感で、誰も口を開かなかった。人目をはばかり、参拝もしなかった。しかし、主任検事として、事件を仕切った特捜部副部長の吉永祐介の怒りを買った。
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「勝負の日に、敗戦の神様の前で待機するなんて、お前ら何考えているんだ」もとより、吉永に靖国神社を貶(おとし)める意図などなかったはずだ。乾坤一擲、吉永なりに期するものがあったのだろう。
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ロッキード事件-。米ロッキード社(当時)の大型航空機「L-1011トライスター」の売り込み工作をめぐる戦後最大の疑獄事件だ。
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この年の2月。米上院多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)の公聴会で、ロッキード社から日本の政府高官に巨額の工作資金が渡ったことが判明し、日本の捜査当局は2月24日、本格的な捜査に着手。特捜部は警視庁、東京国税局と合同で、「政財界の黒幕」と呼ばれた大物右翼、児玉誉士夫宅や丸紅本社など27カ所の捜索差押に乗り出した。
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検察の捜査態勢は東京高検管内から集めた検事と検察事務官を含め、検事35人、副検事5人、検察事務官65人の総勢105人。家宅捜索箇所は国内130カ所を超え、押収した証拠品は約6万6千点に上った。
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目白の田中邸前で、水野は記者の姿を覚悟していた。しかし、数十m先に1台のタクシーが止まっているだけだった。
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「マスコミらしきやつがいるから、『地検か』と聞いてきたら、『陳情客だ』と言ってくれ」。そう、警備の警察官に頼んで、高さ3m、幅5mの門扉の中に足を踏み入れた。
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そろそろコイにエサをやる時間のはずだった。しかし、書生は「まだお休みです」と告げるのみ。政治ルートで情報が入ったのか、逃げたのか-。
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ほどなくして、うがいの音が聞こえた。現れたのは、田中その人だった。
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「地検の特捜です。ご足労いただこうと思いまして」。松田が言うと、「ご苦労さん。電話1本くれれば、来ていただかなくても、こちらからうかがったのに」と田中は応じ、「松田検事ですか。児玉を調べて大変ですね」と話しかけたという。
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松田はそれまで、脳血栓で倒れた児玉の在宅取り調べを担当。田中はそのことを知っていたのだ。
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玄関先には田中の妻のはな、長女の真紀子(72)の姿もあった。真紀子の目には涙が浮かんでいた。
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「お前ら、総理大臣をやった男の家族がうろたえるんじゃない。すぐ帰ってくる」そう話す田中を一行は地検の車に誘った。田中は車内後部座席で、松田と田山に挟まれて座った。
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「検事さん、たばこを吸ってもいいか」。たばこをくわえて、マッチを擦ったが、手元が狂って、指先を焼いた。任意同行を求めた検事同様、田中も緊張していたのだろう。
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戦後を象徴する政治家、田中角栄がロッキード事件で逮捕されてから40年。今再び「角栄ブーム」が巻き起こる中、生存する関係者の証言をもとに、「陰謀論」がくすぶる逮捕の真相や、功罪相半ばする田中の遺産に迫る。
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「黒い高官-いきなり“王手”」
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田中角栄逮捕を伝える昭和51年7月27日付のサンケイ新聞夕刊にはこんな横見出しが躍った。徹底的な情報管理でこの頂上作戦を指揮した東京地検特捜部副部長の吉永祐介にとっては、まぎれもなく勝負の日だった。
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田中の逮捕を先駆けて報じた新聞はなかった。
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「2月以降、頂点は角栄だと警戒していた。『桜のころまで何もないよ』『桜が散るころになるか』と検事から聞いていたが、結局、最後まで、時期についての感触はつかめなかった」こう話すのは、当時のサンケイ新聞司法クラブキャップ、樋口正紀(76)だ。1カ月以上も自宅に帰らず、連日、東京・丸の内ホテルや本社に臨泊し、Xデーを追っていた。
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「明日は歯医者に寄るから(出勤は)遅くなるよ」
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田中逮捕の前日、夜回り取材の記者らを前に、吉永はこう話したという。しかし、吉永は午前5時半には登庁。そして、午前7時過ぎには自ら検察庁舎正面玄関に出て、報道規制のロープを張り、「名前は言えないけど、入れるよ」と一言発した。吉永に、大手紙の記者が食い下がった。
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「誰が来るんですか」
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「いやあ、小物だよ」
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そんなやり取りがあった後、1台の車が地検前に横付けにされた。
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いつものように片手を上げるしぐさ。自宅から任意同行された田中を見て、記者は「とぼけやがって」と吐き捨て、駆けだした。
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田中への逮捕状執行は午前8時50分。過去に参考人として田中から話を聴いた経験を持つ東京地検検事正、高瀬礼二は「こういう形でまたお会いするのは非常に残念ですが、環境が変わりますので、お体にご留意ください」と語り、副部長室を立ち去った。
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逮捕状を執行したのは特捜部副部長の石黒。執行に先立ち、筆と紙を求めた田中。自民党幹事長だった中曽根康弘(98)宛てに、離党届をしたためた。
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「やっとここまで、たどり着けたか」
米ロサンゼルス。7月26日午後2時半(日本時間27日午前6時半)、当時東京地検特捜部検事だった堀田力(82)は電話を受けた。相手は吉永だ。「今から田中を逮捕する。(特捜部検事の)松田(昇)君が田中宅に入った」
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堀田は、米司法省の捜査協力を取りつけるとともに、「極秘で調べられるだけ、調べてこい」という半ば無理筋な命を受け、その年の2月26日に渡米していた。「大阪空港から沖縄へ、そして、グアムを経由して、米国」。着慣れた背広にネクタイではなく、カメラを下げ、サングラスをかけて観光客を装った。
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事件の成否は、ロッキード社の元副会長、アーチボルド・カール・コーチャンと元東京事務所代表、ジョン・ウィリアム・クラッターの供述にかかっていた。
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「米国が秘密の証拠をくれるはずがない。といって、米国で証拠を集める方法もない」。これが当初の特捜部の考え方だったというが、堀田は「交渉もしないでこの事件を諦めてしまっていいのか」という思いだった。
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「頂を目指して、進む」ことを胸中に秘め、堀田は「国境の壁、政治の壁、時効の壁、色々な手続きの壁…大小さまざまな壁を全部壊していった」。そして、コーチャンとクラッターの調書を手にする。それが、ロッキード事件の帰趨(きすう)を決めたと言っていい。
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ロッキードから丸紅を通じて田中側への5億円の資金提供を認めたコーチャンとクラッターの調書は、米司法省に依頼して堀田らの立ち会いの下で行われた「嘱託尋問」によって得られた。
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日本の検察はその調書を確保するため、日本で起訴しないことを「免責不起訴宣明書」で確約。さらに、日本の最高裁もその免責を保証する「宣明書」でこれに“お墨付き”を与えた。だからこそ、コーチャンらは証言した。
コーチャンらの嘱託尋問調書は1、2審では証拠として採用された。
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しかし、最高裁大法廷は平成7年2月22日、田中とともに起訴された「丸紅ルート」の2人の被告に対する判決で、田中への5億円の賄賂を認定しながらも、嘱託尋問調書の証拠能力を否定した。日本では刑事免責の制度を採用しておらず、弁護側の反対尋問の機会を閉ざしたとしたからだ。
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それでは田中の刑事責任は何が裏打ちするのか。事件の底流に何らかの政治的意図は働いていなかったか。逮捕から40年の今も疑問は消えない。.
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ロッキード事件 1975(昭和50)年夏、米上院外交委員会多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)の事務所に、米ロッキード社(当時)の極秘資料が届けられた。資料配達の経緯には不明な点が多く、意図的な配達による謀略説の根拠ともなっている。
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翌76年2月のチャーチ委員会の公聴会で、資料が公表され、ロッキード社副会長のコーチャンが全日空への航空機売り込みに絡み、「大物右翼」「政財界の黒幕」と称された児玉誉士夫▽「政商」と呼ばれた国際興業社主の小佐野賢治▽総合商社の丸紅-を通じ、複数の日本政府高官に巨額の工作資金を渡していたことを証言した。
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検察庁と警視庁、国税庁は合同捜査態勢をとり、東京地検特捜部は元首相の田中角栄、元運輸相の橋本登美三郎、元運輸政務次官の佐藤孝行の政治家3人を逮捕、起訴したのをはじめ計16人を起訴。公判は「丸紅」「全日空」「小佐野・児玉」の計3ルートで進行。佐藤ら11人の有罪が確定したが、田中ら5人は死亡により公訴が棄却された。
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ロッキード事件で田中角栄が受託収賄、外為法違反容疑で逮捕されてから6年半後の昭和58年1月26日。検察は田中に懲役5年、追徴金5億円という求刑を突きつけた。だが、嘱託尋問調書の証拠能力に早くから疑問を投げかけ、田中への有罪判決を突き崩そうとした“幻”の代理人がいた。米国人弁護士、リチャード・ベンベニステ(73)である。
ベンベニステに田中の代理人を依頼したのは、当時48歳で当選5回の自民党田中派衆院議員だった石井一(81)。
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「検察側の田中有罪ストーリーを潰すには、国内の法廷闘争だけでは勝てない。米国で調査を進めて真相に迫らなければならない」
石井は田中の求刑を聞いてこう決意し、協力してくれる弁護士を探しに渡米した。米スタンフォード大大学院時代からの友人を介して、ベンベニステと出会う。当時40歳。ニクソン米大統領を辞任に追い込んだウォーターゲート事件の主任検事を務めたすご腕の弁護士だった。
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2月、石井は米ワシントンの事務所を訪れ、ベンベニステと面会。ロッキード事件の関連資料を渡し、田中の弁護への協力を依頼した。10日ほどして「引き受けましょう」という返事が届いた。
改めて渡米した石井に、ベンベニステは「この事件には絶対、陰謀が絡まっている。底が深すぎるし、奇々怪々だ」と語った。
事件発覚の経緯や、田中側への5億円の資金提供を認めた嘱託尋問調書を日本政府が要求して裁判所が証拠として採用したことなど問題点を指摘。そのうえでこんな秘策をささやいた。
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「事件を証言したロッキード社(元副会長)のコーチャンは日本で刑事免責を受けているが、自分が米国内で彼を訴追することは可能だ」。ベンベニステがコーチャン相手に米国で裁判を起こし、真実を引き出すというものだった。
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ベンベニステは3月14日、同僚や秘書ら総勢10人で来日した。石井の手配で東京・高輪の高輪プリンスホテル(現・グランドプリンス新高輪)の最上階をフロアごと借り切り、急ピッチで本格調査を進めた。
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その結果、「宣誓証人に尋問する機会を与えられなかった被告人は、その証言をもとに何人(なんぴと)たりとも有罪宣告をされない。こうした権利は日米の憲法にとって基礎となるものだが、田中にはその権利が与えられなかった。有罪の宣告は成り立たない」との見解を石井らに伝えた。
裁判は論告求刑を終え、判決が迫っている。「あと半年…、いや1年遅れたな」。強力な援軍を得た思いの石井は後悔したものの、「1審は有罪になるかもしれないが、2審、最高裁がある」と思い直した。
ベンベニステの来日から10日ほどが過ぎ、石井が代理人を依頼するため、田中にどう引き合わせようかと思案していたところ、田中から突然、目白の私邸に呼ばれた。
「いろいろ苦労をかけているようだな。だが、大変申し訳ないがアメリカの弁護士は断ることにした」。意外な田中の言葉に、石井は「そんな話がありますか。せっかくすごいのを連れてきたのに」と食い下がった。それでも、田中は「分かっとる。分かっとる。が、すまん、許してくれ」とわびた。
石井は「このままだと有罪になりますよ」と迫ったが、田中は「いや有罪にはならない」と譲らなかった。
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石井はすぐに田中の言葉をベンベニステに伝えた。
「田中の気持ちは理解できる。すぐに帰国するよ」
ベンベニステはあっさり受け入れ、2日後、石井が娘2人へのお土産にとプレゼントした日本人形を手に帰国した。
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現在もワシントンで弁護士活動を続けるリチャード・ベンベニステは7月、産経新聞の取材に応じ、石井一の依頼で田中角栄の有罪判決を阻止しようと日本で過ごした日々を振り返り、こう言い切った。
「(自らの提案が採用されていれば)判決が合法的に受け入れられることは考えにくい。少なくとも、コーチャン(ロッキード社元副会長)に反対尋問する機会を持つか、証言が受け入れられないとして記録から抹消されるまで、判断は保留されたはずだ」
それにしても田中はなぜベンベニステへの代理人依頼を断ったのか。石井は「オヤジは無罪を固く信じていた。それに米国に仕掛けられたワナから逃れるのに米国人の手を借りたくないという、日本人としての意地とプライドがあったのではないか」と回想する。
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その後も石井は自ら調査と思考を重ね、判決を11日後に控えた昭和58年10月1日、「政治家として考える ロッキード裁判に関する一考察」と題した小冊子をまとめた。
石井は「世論の状況を考えると公開したら逆に反発を受けかねない」と考え、田中とその周辺の5人だけにひそかに手渡した。B4判53ページ、10章で構成された小冊子は、ロッキード事件と裁判の問題点、疑問点を多角的にまとめた、いわば「無罪ペーパー」だった。
ペーパーはまず、事件の発端について50年、米上院外交委員会・多国籍企業小委員会の委員長だったチャーチ上院議員の事務所に突然、ロッキード社の秘密資料や政府文書、売り込み工作費の領収書などが届けられたことに疑問を呈し、「誰が届けたのだろうか。何者かの非常に強い意図があったに違いない」と指摘した。
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また、裁判がコーチャンらに刑事免責を与える嘱託尋問調書を根拠としたことについて、
(1)同調書は捜査段階の資料として使われることはあっても、通常は裁判の証拠とならない
(2)嘱託尋問は被告人も弁護人もいない場で行われ、必要な反対尋問も行われていない
(3)検察の捜査段階で最高裁判所がコーチャンらの不起訴の宣明を決定した-ことなどを問題視した。
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これらの異例の捜査や裁判には「ある種の狙い」があり、それは「日米両政府やロッキード社を傷つけない範囲で、日本の高官を狙い撃つことだったに相違ない」との見方を示した。
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このほか、田中への請託の有無や金銭授受の不確かさなどを指摘。首相の職務権限についても内閣法の解釈を詳細に分析し、「有罪とするのは困難と見ざるをえない」と結論づけた。田中はペーパーを読み込み、いつも枕元に置いて大切にしたという。しかし、58年10月12日、懲役4年、追徴金5億円の有罪判決が下った。そして石井も約2カ月後の12月18日に行われた衆院選(田中判決選挙)で落選した。
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意気消沈していた石井は10日後、田中周辺からの誘いで、目白の田中邸を訪れた。田中は新潟料理を振る舞い、「君を落としたのは本当に残念だ」と慰めた。そして石井が届けたペーパーについて、「君一人が書いたのか。どうしてこんなことが分かるのか」と尋ねた。石井は「事件は完全にでっち上げられたものだと思っています。ただ感情的に言っても仕方ありませんから、事実を並べて論理的に書いたのです」と答えた。そして「時を経て、世間が冷静さを取り戻せば、いつか真実が明らかになる日がくると思います」とつけ加えた。田中は深くうなずいていた。
今も田中の無罪を信じる石井は語る。
「米政権は自分の思い通りになると思っていた日本を、日中国交正常化や資源外交などで独自の道に進めようとしていた田中を追い落とそうとした。そして、日本では当時首相の三木武夫が弱かった政権基盤の強化につながると考え、田中をターゲットに捜査を進めさせた。こうして作り上げられたワナに田中ははめられたのだ」
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「ある国が長期的な利益を犠牲にして、短期的な利益をもとに決定を下すことは、これが初めてではないだろう」
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1973(昭和48)年11月、日本を訪れた米国務長官、ヘンリー・キッシンジャー(93)は日本側にいやみを言った。在日米大使館の首席公使だったトーマス・P・シュースミス(故人)の証言によれば、外相、大平正芳との会談での言葉だったという。この年10月に勃発した第4次中東戦争は石油危機の形で日本を直撃し、首相、田中角栄は原油確保のためアラブ諸国寄りの姿勢を強めていた。イスラエルを支援し続けてきた米国との足並みは乱れた。キッシンジャーは日本人について「私は彼らを理解できない」ともこぼした。
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キッシンジャーは12月17日、イスラエル首相、ゴルダ・メイアらとの会談で田中への不満をぶちまけた。米外交文書によると、キッシンジャーはメイアにイスラエルへの国際的な風当たりが強くなっていると説明しながら、田中を名指して語った。「先見の明を欠き、勇気がないことを認めたがらない複数の政府は、イスラエルを非難することで何か仕事をしているように思わせようとしている。田中は私に『(翌年)7月に選挙があるので、何かをしていることを見せなければいけない』と言う。
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ロッキード事件に絡み、田中が独自の資源外交を展開するためアラブ諸国に接近を図ったことが、米国の石油メジャーの「虎の尾」を踏んだという説がまことしやかに語られている。
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最近になり機密解除された公電やシュースミスら当時の外交官が、国務省に近い研究機関「米外交研究協会」に対して行った証言記録からは、米政府が一貫して田中に不信感を抱いていた様子が浮かび上がる。
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70年から73年まで国務省で日本部長を務めたリチャード・A・エリクソンは、72年7月に田中内閣が発足した当初について「ニクソン、キッシンジャーはもともと、田中と関わりを持ちたくなかった。利益がなかった」と証言した。佐藤内閣の通産相時代はニクソン政権との間の日米繊維交渉を合意に導いた田中だったが、首相就任当初の田中の印象は「下っ端政治家」(エリクソン)だったという。
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田中は首相として初の訪米でワシントンを訪れる意向だったのに対し、ニクソンが難色を示した。エリクソンによれば、72年8月31、9月1両日の日米首脳会談がハワイで行われたのはそのためだったという。田中はハワイで、日中国交正常化に踏み切り、台湾との外交関係を終えることを米側に伝えたとされる。仁義を切ったつもりの田中は同月末に北京に飛び、日中共同声明の調印にこぎ着けた。しかし、米側は日中国交正常化に突き進む田中への懸念を強めていった。
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ハワイ会談を控えた8月10日付で、米国家安全保障会議(NSC)極東担当上級部員だったジョン・H・ホルドリッジが、大統領補佐官だったキッシンジャーに送った機密扱いの公電が今年4月に公開された。そこにはこう記されていた。
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「田中は日米を『切り離せない兄弟』と言うが、中国との国交正常化に関する彼の扱い方は、この基本的な前提に多大な影響を与えるに違いない。田中はこのことに気付いているが、『米国従属』という国内の批判を恐れて、米国の懸案事項(特に台湾防衛に関する)について、あまり積極的になれない」
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田中の自主路線に芽生えた米側の不快感は増幅されていった。
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日本政府は否定してきたが、1972(昭和47)年8月31~9月1両日のハワイでの日米首脳会談で、大統領のニクソンが、補佐官のキッシンジャーとともに田中角栄、駐米大使の牛場信彦と行った少人数会合で、ロッキード社の旅客機トライスターの購入を持ちかけたとの見方がある。
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当時国務省日本部長のエリクソンは「分からない。ロッキードは事前説明の対象となる議題には含まれていなかったからだ」としつつ、「ニクソンとキッシンジャーの個人的な協議事項があったかもしれない」と証言に含みを残した。
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一方、8月10日付で米国家安全保障会議(NSC)上級部員、ホルドリッジが上司のキッシンジャーに送った機密公電には、「日本が1億ドル(308億円)から2億ドルに当たる米国の航空機を購入する可能性がある」との記述がある。
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全日空によるトライスター21機購入(総額1050億円)が公表されたのは10月30日。公電に記された金額と開きはあるが、日米貿易不均衡の解消に航空機購入が首脳会談で話題となったのは間違いなさそうだ。
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76年2月4日、上院外交委員会多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)の公聴会で、ロッキード社が航空機売り込みのため、日本を含む外国政府関係者に巨額の資金提供を行っていたことが明らかになる。しかし、国務長官になっていたキッシンジャーは、この公聴会に先立つ75年11月28日付で司法長官、エドワード・レビ宛ての書簡で、ロッキード社の資料公開に異議を唱えていたことが分かっている。
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「早まって外国政府高官の名前や国籍を公開することは、米国の外交に損害をもたらすことになる」。すでに米証券取引委員会が同社の海外不正支払いについて調べを進めていた。
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キッシンジャーは事件の調査にどう関わっていたのか。ニューヨークの事務所に取材を申し込んだが、回答を得られなかった。
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日本側でも、事件発覚を受けた首相、三木武夫の素早い対応に、「国策捜査」との指摘がつきまとった。76年2月のチャーチ委員会で、ロッキード社副会長(当時)のコーチャンが日本への賄賂を証言すると、日本国内の世論は沸騰し、国会は紛糾した。
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三木は2月9日の政府・自民党首脳会議で、「まずなすべきことは真相の究明であり、法に触れるなら厳正に処置すべきは当然だ」と捜査の開始を示唆した。三権分立の日本で首相が司法の対応について口にすることは異例だった。さらに三木は同24日、米大統領のフォードに捜査への協力を要請する書簡を送る。三木の言動に自民党内で反発が広がった。
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当時、官房副長官で三木の「秘蔵っ子」と呼ばれた元首相の海部俊樹(85)は三木がフォードに書簡を送る数日前、首相官邸の執務室で「党内のほとんどが反対しています。書簡は出さない方がいいのでは」と具申したと明かす。三木は「国内から捜査の資料は出てこないだろう。協力を要請することを決めた。日本の民主主義は事件を明らかにして崩れるほど未熟ではない」と、書簡を自らの手でしたためた。
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「どのくらいでケリがつくのか」。東京地検特捜部検事として同26日に渡米して、田中逮捕の決め手となった嘱託尋問の実現に奔走した堀田力(82)は、三木から直接の電話を受けた。「米国にいる一検事に首相が電話するなど考えられなかった」と話す。
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米国への要請からわずか5カ月後の7月27日、田中は逮捕された。党内では、田中、大平、福田、椎名、水田、船田の6派が反主流に回り、8月19日に「挙党体制確立協議会」を設立。三木派以外の主流派は中曽根派だけという「三木おろし」の様相となった。情勢を報告する海部に、三木は「敵になるんならそれでもいい。道理はオレにある」と引かなかった。年末に衆院議員の任期満了を控え、解散権行使という手もあった。反対する閣僚が出ることを想定し、海部に交代リストまで作らせた。
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海部は「国民に信を問えば勝てるという自信はあったと思うが、解散すれば自民党は分裂していた」と語る。結局、解散は行われず任期満了に伴って衆院選は12月5日に行われ、自民党は敗北、三木は辞任した。海部は振り返る。「真相解明によって政権を強化したいという思いが三木にあったのは確かだが、日本の政治をクリーンにしなければ民主主義は育たないという信念の方が強かった」
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昭和60年2月7日は、ロッキード事件での逮捕、1審有罪判決後も「闇将軍」「キングメーカー」として君臨してきた田中角栄にとって、政治力の減衰を示す日となった。当時、蔵相などを歴任し、自民党田中派内で「ニューリーダー」と目されていた竹下登が「創政会」を結成したのだ。
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それに先立ち、当時52歳で当選6回の自民党田中派衆院議員だった渡部恒三(84)は、東京・平河町の砂防会館にある田中派会長室に田中を訪ねた。だれもが田中の逆鱗に触れることを恐れて尻込みする中、中堅・若手議員の代表として創政会への参加を報告するためだった。
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「貴様ーっ、このバカ野郎!」。田中はビル内に響き渡るほどの大声で渡部を怒鳴りつけた。そして「次の選挙ではたたき落としてやる」と、具体的な有力候補の名前を出して落選させる考えまで示した。
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「オヤジさんの気持ちは分かりますが、私は竹下さんとは早大雄弁会からの付き合いです。オヤジさんが父親なら、竹下さんは兄貴。オヤジさんの後は竹下さんを担ぐより仕方ありません」
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渡部は率直に自分の気持ちを伝えた。その姿勢が評価されたのか、田中は創政会結成後、たびたび東京・目白の自宅を訪れた渡部を歓迎した。応接間でお気に入りのオールドパーを酌み交わしながら、互いの地元の話などを語り合い、「元気で頑張れ」と励ました。
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創政会が結成された背景には、田中派が約120人を抱える党内最大派閥だったものの、田中が自分の派閥から首相候補を出さず、後継者も決めないという状況が続いていたことへの不満があった。結成は極秘裏に進められたが、「派中派(派閥内派閥)」になると警戒した田中は猛烈な切り崩し工作を進めた。その結果、参加者は当初の81人から40人に半減し、位置付けは「勉強会」ということになった。
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しかし、そのわずか20日後の2月27日、田中は脳梗塞で倒れて都内の病院に入院。以降、言語障害や行動障害が残った。9月にはロッキード事件の控訴審が東京高裁で始まったが、田中は欠席。一方、政治活動はそれでも続け、翌61年7月の衆院選でトップ当選を果たしたが、任期中、登院することはなかった。そして62年7月には、竹下が「経世会」(竹下派)を発足。田中派140人のうち、118人が参加し、田中は政治力を失った。
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追い打ちをかけるように同月29日、ロッキード事件の控訴審判決で、東京高裁は1審判決を支持し、田中の控訴を棄却。田中は即日、上告したが、もはや裁判も政治も展望を見いだす状況にはなかった。その後、田中は平成2年の衆院解散で政界を引退し、5年12月16日、75歳で死去。ロッキード事件は上告審の審理途中で公訴棄却となり、刑事被告人のまま人生の幕を閉じた。
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渡部は田中を振り返ってこう語る。「ロッキード事件について、オヤジが言い訳を言ったのを聞いたことはない。無罪とか有罪とかを超越して自分は死ぬまで政治家だという信念があったのではないか。われわれはそういう田中という人間の信者だったんだな。政治的な損得勘定や理屈ではなかった」
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田中角栄の政治力が衰えていく一方で、田中逮捕という金字塔を打ち立てた検察はヒーロー的な存在になっていった。「天下の田中角栄を逮捕したというのが衝撃だった。地方の一検事としても、東京の特捜はすごいことをやるなと驚愕した」。田中逮捕当時、福島地検検事だった宗像紀夫(74)には、東京地検特捜部がまぶしかった。後に特捜部でリクルート事件の主任検事を務め、部長としてゼネコン汚職事件を指揮する宗像は昭和59年、ロッキード事件の控訴審に投入された。
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「62年までの3年間、記録を読み込み、大学ノートに問題点を書いていった。ほかの事件は担当しなかった。絶対に負けられない事件ということだった」
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17年余りに及ぶ田中との暗闘に勝利した検察。捜査の中心的役割を担った東京地検特捜部は“史上最強の捜査機関”として人々の記憶に刻みこまれることになった。だが、その金看板が後に検察のおごりを生んだのではないか、という見方も少なくない。時に暴力を伴う強引な取り調べ、あらかじめターゲットを決めて描かれる事件の筋書き…。そんな話が聞こえてくるようになった。
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元東京地検特捜部検事で弁護士の郷原信郎(61)はロッキード事件が検察に残した「負の遺産」についてこう指摘する。
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「大艦巨砲主義というのが日本海海戦でできあがり、その戦勝体験が日本海軍にとって必勝パターンと信じられた。ロッキード事件捜査の戦勝体験がリクルート事件やゼネコン汚職事件にみられる贈収賄罪へのこだわりと、その捜査手法としての調書中心主義を生んだ。これがまさに大艦巨砲主義といえる。それがその後の捜査の近代化を遅らせた側面があるだろう」。調書中心主義の弊害が現れたのが、大阪地検特捜部が元厚生労働省局長の村木厚子(60)=無罪確定=を逮捕した郵便不正事件に端を発し、後に元特捜部長らの有罪が確定した証拠改竄事件だった。
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検察の描いた構図通りに村木の関与を裏付け、公判への影響を避けるため、押収していたフロッピーディスクの日時を書き換えた。特捜検察が「筋書き」に証拠を合わせるというゆがんだ捜査が行われていた。東京地検特捜部検事として、米国でロッキード社元副会長のアーチボルド・カール・コーチャンらの嘱託尋問の実現に奔走した堀田力(82)は証拠改竄事件について「一つのストーリーを先に作っていたから起きた」と指摘する。
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あらかじめターゲットを決めて筋書きを作り、犯罪要件をあてはめていくー。こうした検察の「ストーリー捜査」は半ば常態化していたのではないか、との指摘もある。「国会議員の○○と△△は、いずれやらなきゃいけない」。そんなことを口走る特捜検事もいた。この捜査手法の最大の弊害は筋書きに合わせようとするあまり、強引な取り調べに陥りやすいことだ。
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「人格を否定された」「土下座しろといわれた」…。リクールト事件やゼネコン汚職事件などでも検事の取り調べの過酷さを訴える声が相次いだ。実はロッキード事件の公判でも「椅子をけ飛ばされた」「侮蔑的な言葉で怒鳴られた」といった特捜検事の取り調べの一端が明かされている。ある検察幹部は言う。「ロッキードの成功体験があったから、他の捜査手法の開発が遅れた。時代の変化とともに、かつての説得してしゃべらせ、事件を広げるというやり方に行き詰まりが生じてきた」
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ロッキード事件をめぐっては、田中が狙い撃ちされたとの見方は今も消えていない。これに対し、堀田は「ロッキード事件では、いろいろな可能性があった。田中の可能性、他の人の可能性、政治家ではない可能性…。田中は、いくつもある読み筋の一つに過ぎなかった」と話している。
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