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建設業界、産業廃棄物業界、行政などのニュースを発信。

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2017 / 1月

中国はゴミ捨て場か・中国報道:日本は大量のゴミを輸出!

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廃棄電子産品、プラスチック、生活ゴミ!
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毎年800万トンあまりの廃プラ!
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大量生産、大量消費から生じる大量のゴミは世界的な社会問題の1つだが、中国メディアの今日頭条は2016年12月18日付で、日本は中国に向けて大量のゴミを輸出していると批判する記事を掲載した。
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記事は、日本で出たくず鉄等の廃棄金属、廃棄電子産品、プラスチック、生活ゴミの一部が中国に運ばれていると主張し、こうしたゴミは環境保全規準を満たさない方法で廃棄され、有害物質が含まれていると指摘した。
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さらに「日本に限らず、毎年世界で生じる5億トンの電子ゴミの70%以上は様々なルートを経由して中国に運ばれている」と説明、中国税関のデータを引用し、2011年から13年にかけて毎年800万トンあまりの廃棄プラスチックが中国に運ばれたと紹介した。
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また記事は、ゴミはそれが生じた国で処理しなければならないとする国際公約があり、ゴミの輸出は「原則的には許されていない」と説明。まるで世界全体が中国に向かってゴミを投げ捨てているかのような状態だと批判した。
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経済協力開発機構(OECD)と国連環境計画(UNEP)は1989年に有害廃棄物の国境を越える移動及びその処分の規制に関する「バーゼル条約」を採択した。

日本は同条約に1993年に加盟しているが、同条約のもとでも輸入国が再生または回収の原材料としてゴミを必要としているなら資源として輸出できるとされる。

記事は「世界全体が中国に向かってゴミを投げ捨てているかのような状態」と主張しているが、実際には中国がゴミを密輸入しているのであり、中国には世界中から密輸入したゴミから資源を回収し、利益を得る組織が存在することが分かっている。
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天津市元代理書記の党籍はく奪:規律に違反と!

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習近平主席の側近だったが!
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中国共産党の中央規律検査委員会は1月4日、重大な規律違反があったとして、黄興国・元天津市党委代理書記兼市長(62)の党籍をはく奪し、公職から追放すると発表した。また、不正に金品を受け取るなど犯罪行為があったとして、司法機関に送致して立件するという。
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規律検査委によると、黄氏は幹部任用をめぐり財物を受け取ったり、身近な人物を任用したりした。また、親類が黄氏の職務上の影響力を利用して巨額の利益を得るのを黙認し、自らの子供が私利を得るために職権を使った。さらに、企業経営をめぐって関係者に利益を得させて巨額の財物を受け取ったとしている。
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同委は「政治的規律に違反し、経済的に貪欲で、生活面で堕落し、党の事業やイメージを著しく損ねた」と厳しく批判している。
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天津は北京、上海などと並ぶ4直轄市の一つで、トップの書記は最高指導部入りもうかがう重要ポスト。黄氏は2014年に天津市党委代理書記となり、いずれ書記になるとみられていた。浙江省時代に習近平国家主席の部下だった時期があり、昨年1月にはいち早く習氏を「核心」と呼んで忠誠を訴えるなど、習氏に近い人物とみられていた。だが、昨年9月の同規律検査委が黄氏を重大な規律違反の疑いで調査していることを発表していた。
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中国・国土資源局局長:市長らを幹部を銃撃!

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その後自殺が判明・中国紙!
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2017年1月4日午前10時50分(日本時間同11時50分)ごろ、中国四川省攀枝花市で同市国土資源局局長・忠恕が市の責任者らを銃で襲撃するという事件が起きた。新京報が伝えた。
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陳忠恕(チェン・ジョンシュウ)容疑者が襲ったのは市内で開かれた会議に出席していた中国共産党市委員会書記や李建勤市長などで、陳容疑者はその後、同じ建物内で自殺したことが確認された。2人は負傷し病院に運ばれたが、被害者の命に別状はないという。
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市の公安関係者は「現在、調査を進めている」と話しており、関連の情報は追って発表されるもよう。同紙によると、市長は攀枝花市に赴任する前、国土資源部で長年にわたり勤務していた。
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地方とはいえ、中国で党幹部が銃撃されるのは極めて異例だ。
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人口約120万人の同市は省都・成都から南西に約600キロ離れた工業都市。鉱物資源が豊富で、特にチタンとバナジウムは世界有数の産地として知られる。
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李市長は昨年7月、中央の国土資源省執法監察局長から副書記に“天下り”していた。事件の背景は不明だが、個人的恨みのほか、汚職がらみの犯行との見方も取り沙汰されている。
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サハラ砂漠・サウジに雪:スイスは雪のない冬!

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サハラは37年ぶり!
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アフリカのサハラ(Sahara)砂漠で今週、1979年2月18日以来、37年ぶりとなる降雪が観測された。降った雪は1日は溶けずに残った。雪が降ったのは、アルジェリアとモロッコの国境近くにあるアインセフラという場所で、サハラ砂漠の北端。
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サウジアラビアでは、12月に入って以来、各地で雪が何度も降っているようだ。
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スイスはこの冬、記録的な雪不足に見舞われている。スイス・アルプスのスキーリゾート地、レ・クロゼ(Les Crosets)でも、ゲレンデに雪はほとんど積もっていない。
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気象当局によると昨年12月の降水量は過去150年で最も少なく、月間記録でも屈指の「乾燥した1か月」だった。スイスの平野部では例年なら12月には90ミリ近い降水量を記録するが、今年は西部では多くの地域で積雪どころか一滴の雨も降らない状態が続いている。
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地球全体の気候に変化が起きているという。年末から毎年スキーに出かける人々も、2015年の末も雪に恵まれず滑れるのはゲレンデのほんの一部という。冬スキーに出かけたのに遂にはゴルフ、スケート、テニス、郊外で食事と、ただのリゾート遊びで終わってるという。
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20世紀後半からの温暖化は、日射量変動のみでは説明できず、大気中の温室効果ガス濃度の人為的な増加が主因であることがわかっており、2万~10万年スケールの日射量変動は理論的に計算でき、日射量変動による将来の氷期が今後3万年以内に起こる確率は低いと予測されています。
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気候変動の原因は、地球の自転軸の傾きや地球が太陽の周りを回る軌道が周期を持って変動することによって生ずる2万~10万年スケールの北半球夏季の日射量変動と密接に関係していることがわかっています(この周期変動をミランコヴィッチサイクルという)。
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20世紀後半から起こっている気温上昇速度は約10倍も速く、ミランコヴィッチサイクルに起因する気候変動では、今も続く現代の温暖化の傾向を説明することができないという。
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JR九州社長:長崎新幹線フル走行・検討を!

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FGTの開発遅れで!
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選定のタイミングは17年夏!
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JR九州の青柳俊彦社長は12月20日の定例記者会見で、九州新幹線長崎ルートについて、全線を新幹線が走る「フル規格」の導入も検討するべきだとの考えを示した。国が目指す在来線と新幹線を走行できるフリーゲージトレイン(軌間可変電車、FGT)の開発が遅れており、「フル規格」を念頭に「それ(FGT)に代わる検討を国の方で進めていただきたい」と語った。
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JR九州の青柳俊彦社長は20日の定例記者会見で、国が目指す在来線と新幹線を走行できるフリーゲージトレイン(軌間可変電車、FGT)の開発が遅れており、「フル規格」を念頭に「それ(FGT)に代わる検討を国の方で進めていただきたい」と語った。
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青柳社長は、鉄道建設・運輸施設整備支援機構によるFGTの耐久走行試験の再開が予定されている17年夏が、FGT導入とフル規格化のどちらを選ぶかを決めるタイミングになるとの認識も示した。
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佐賀県内では武雄市など10の市町議会が可決しいるのに、長崎県内の要望は出ない原因は、フル規格を求めれば、22年度の開業が先に延びる上に、最悪、開業そのものが白紙に戻るという慎重論である。
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どうも開業という事に目を向けるあまり、将来展望を置き去りにしている一部利権政治屋が利権のために新幹線をいじり回している。できもしないFGTより、出来るフル規格に舵を取ろうとしているJR九州方針に市議会も乗るべきだろうが、如何。
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衆議院解散・この言葉だけで:注目を浴びた2016年!

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さて29年に総選挙は、何時あるのか!

年頭所感では酉年の衆院解散・総選挙を匂わせた!
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「酉(とり)年はしばしば政治の大きな転換点となってきた。変化の一年となることが予想される」。安倍晋三首相は4日の記者会見の冒頭発言で、酉年に当たる1969年、93年、2005年にそれぞれ行われた衆院解散・総選挙に触れ、同じ干支(えと)の今年に解散権を行使する可能性をにじませた。
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この言葉は、自民党を問わず与野党の衆議院議員に緊張感を与えたことになる。昨年から、解散はあると言いながら、いろいろな場面で言葉を引っ込めてきた。今年は、いつ解散かという時期が焦点となった。
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2016年2月11日、「4月に解散総選挙をやれば、再び圧勝」という観測で、安倍内閣は7月の参院選に合わせ、衆院も解散総選挙を行うと見られていた。
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2月に入ってから「安倍首相主催の『桜を見る会』が例年より早い4月9日に設定されたため、衆院解散・総選挙が同月中にあるのではないか」という臆測が広がった。このとき、この報を聞いた民主党の枝野幸男幹事長は1月31日、さいたま市の会合で「4月24日投開票は10%の確率である」と危機感をあおった。
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この1週間後、自民党の下村博文・文部科学相が、フジテレビ番組「新報道2001」に出演し、年内に衆院解散・総選挙が行われる可能性について「可能性は非常に高いと思う。と煽った。
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「3月解散4月投開票が行われるかも知れない」というのは、安倍晋三が甘利明の後任人事に、あの石原伸晃を起用したことから、いっそう鮮明になった。
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伸晃は、「オヤジの威光があるから、さまざまなポジションに就けてきたが、一つとしてまともな仕事ができない」と党内でも世捨て人同然の扱いを受けている。安倍晋三などは、石原伸晃と院内ですれ違っても、目も合わせないというほど嫌っている。「そんな伸晃をなぜ、安倍晋三は、懐刀だった甘利明の後任に任命したのか」と週刊誌の記者たちが訝しがるのも当然だ。
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ところが、4月14日21時26分、熊本県と大分県で相次いで震度7という大地震が発生し衆参同時選挙など吹っ飛んでしまった。大規模地震があった年は大震災後に年内解散した前例はないのである。
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6月6日、安倍晋三首相が7月の参院選に合わせた衆参同日選を見送ったことで、永田町の関心は次の衆院解散・総選挙の時期に移ってきた。2017年4月に予定していた消費税率10%の引き上げは19年10月まで2年半延期され、解散時期の自由度は増した。
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改めて衆院選が議員の口の端に乗り出したのは、9月ころから、日経新聞の解散予測記事からだ。これ以降、新聞は派閥領袖などの発言を掲載しているので内容を追ってみた。
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9月17日、永田町で来年(2017)1月に召集する通常国会冒頭での衆院解散説が浮上している。12月のロシアのプーチン大統領の来日時に安倍晋三首相が北方領土問題を前進させる政治決断を下し、その信を国民に問う――との観測だ。2017年の自民党大会の前に選挙で勝利すれば同大会で党総裁任期の延長も決めやすくなる。ただ長期政権をにらみ、党内への引き締め効果を狙っているとの見方もある。
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日経記事(9/17朝刊)をきっかけに浮上した「来年1月解散説」。
12月15日のプーチン訪日後、北方領土を巡る会談が行われ、産経と東京新聞では17年1月解散で衆院選は見送り濃厚と報じている。「首相がどうするか分からないが、理論上は1月解散はあり得る。しっかり準備しておけ」。麻生太郎副総理・財務相は8月、自らが率いる派閥の若手議員に伝えた。1月解散は麻生氏の持論。7月の参院選直前には、首相にも直接、実施するよう進言していた。
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公明代表「衆院解散、いつあってもおかしくない」
2016/9/28 日経
公明党の山口那津男代表は28日午後、都内で講演し、衆院解散・総選挙の時期について「いつあってもおかしくない。あまりある時間があるわけではない」との認識を示した。「安倍晋三首相が決断すれば対応しなければならない。常在戦場でやるだけだ」と語った。
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衆院1月解散「与野党に対応の動き」 自民・下村氏
2016/10/2
自民党の下村博文幹事長代行は2日、永田町で取り沙汰される来年1月の衆院解散・総選挙について「与野党を問わず、対応しようという動きが出てきた」と述べた。前回の衆院選から約2年たつことから「いつ解散があってもおかしくない」とも指摘した。

都内で記者団に語った。
下村氏は安倍晋三首相の側近。衆院小選挙区の「0増6減」などに伴い、来年5月末にも区割りの見直しが勧告されることも「(解散を)配慮する要因の一つになる」と述べた。勧告後は候補者の調整や、新たな区割りの下での選挙準備に時間がかかるとみられるからだ。
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二階幹事長「選挙の風が吹き始めている」
2016年10月10日
自民党の二階幹事長が、衆議院の解散に関して「選挙の風が吹き始めている」と述べた。
二階幹事長「選挙の風が吹いているか、吹いていないかと言われれば、いま、もう吹き始めているというのが適当だと思う」二階幹事長はその上で、「これだけ風が吹いてくると、いま準備に取りかからない人がいるとすれば論外だ」と述べ、選挙準備を急ぐべきとの考えを示した。年明けの通常国会での衆議院解散・総選挙の臆測が広がる中、若手議員らに準備を促す狙いがありそうだ。
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自民・高村副総裁「解散風吹き始めている」
2016年10月12日
自民党の高村副総裁は12日、「解散風が吹き始めている」と述べ、衆議院の早期解散もあり得るとの見方を示し、党所属議員に準備を促した。自民・高村副総裁「確かなことは解散風が吹き始めていると、こういうことです。常在戦場という心構えをこえて何らかの準備は始めるのがいいかと思います」
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一方で高村副総裁は、「安倍総理自身も今の時点で確定的なことはわからないと思う」と述べ、安倍首相は解散するかどうかまだ判断していないとの見方を示した。
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こうした中、民進党の蓮舫代表は選挙準備を急ぐ考えを示した。民進・蓮舫代表「総選挙がないと私たちの仲間も増えません。その部分ではいつでも戦える態勢は整えたい。そう思っています」
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二階幹事長 選挙準備を急ぐよう呼びかけ
2016年10月19日
自民党は19日、所属する当選1、2回の衆議院議員を集めて、選挙対策を指導する「選挙塾」を開いた。この中で二階幹事長は「選挙はやがて回ってくる」と述べ、選挙準備を急ぐよう呼びかけた。自民党・二階幹事長「選挙、解散、それはやがて回ってくるわけだから、そういうことに対しての備えをそろそろ準備をしておく」二階幹事長はまた、「解散について報道されているが、意識することなく、地道に準備してほしい」などと選挙基盤の強化に努めるよう促したという。
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19日に参加したのは当選1、2回の衆議院議員34人で、来週も残りの議員を対象に「選挙塾」を続ける予定。二階氏は、選挙基盤が弱い若手議員は自民党として公認せず候補者を差し替える可能性にも言及しており、年明け総選挙の臆測が広がる中、若手議員らに準備を急ぐよう促す狙いがある。
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自民党幹部“解散風”強まることをけん制
2016年10月24日
自民党が圧勝した衆議院の2つの補欠選挙を受けて、自民党幹部からは解散風が強まることをけん制する発言が相次いでいる。
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下村幹事長代行は、自民党の当選1回と2回の議員を集めた会合で、「補欠選挙によって解散風が加速することは全くない」と強調した。下村幹事長代行「補選によって流れがさらに風が加速されるのではないかということでは全くなく、地道に今からしっかりとした準備をしていく必要があるのではないか」.
2つの補欠選挙における自民党の圧勝は、永田町で臆測が出ている早期解散への追い風ともなるが、下村幹事長代行は解散風が必要以上に強まることをけん制した形。
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また、二階幹事長も同じ会合で「選挙のことは風が吹くとか吹かないとかそんな簡単なものじゃない」と述べ、解散風に惑わされずに地道に選挙準備を進めるよう促した。こうした自民党幹部の発言は、党内の早期解散への臆測を沈静化させることで、安倍首相のフリーハンドを確保する狙いがあるものとみられる。
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自民・二階幹事長“直ちに解散ないだろう”
2016年10月28日
衆議院解散の時期をめぐり自民党の二階幹事長は28日、「今の所、ただちに解散ということは総理の念頭にもないだろう」と述べ、早期解散の可能性は低いとの認識を示した。
自民党・二階幹事長「今、経済の問題に対し、これを立て直すべく全力を尽くそうということが、党内、皆そういうことが大事だということで意見が一致。今の所、ただちに解散をどうこうということは総理の念頭にもないでしょう」
二階幹事長はさらに、「私の勘では、解散がすぐという切迫したことはない。国会審議をしっかりやらないといけない」と強調した。その一方で、「徐々に準備はやっていかないといけない」と述べ、選挙準備は怠るべきではないとの考えを示した。
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“解散風”どこに?二階幹事長の発言に注目
2016年10月28日
衆議院解散の時期をめぐり、自民党の二階幹事長は今月10日に、「解散の風が吹き始めている」「今準備に取りかからない人は論外だ」などと話していた。ところが28日は早期解散の可能性は低いとの認識を示した。国会記者会館から青山和弘記者が伝える。
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二階幹事長は今、経済の立て直しが大事だとして「ただちに解散ということは安倍首相の念頭にもないだろう」と語った。 自民党・二階幹事長「今のところただちに解散をどうこうということは、(安倍)総理の念頭にもないでしょう」
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なぜ、二階幹事長の発言がこんなにも変わったのかというと、12月の日露首脳会談を経て、安倍首相が早期解散に踏み切るとの臆測もある中で、二階幹事長は当初「選挙準備は常に怠っちゃいけない」と話し、議員は緊張感を持つべきとの考えを強調していた。
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一方で安倍首相は、この頃周辺に「解散風が強く吹きすぎている」と語るなど、解散すると言っていないのに既定路線となって逆に解散を迫られるような事態になることに懸念を示すようになっていた。そうした中、二階幹事長は周辺に対して「首相は経済対策をしっかりやりたいということらしい。この冬は落ち着いて仕事ができそうだ」と話すようになった。解散のフリーハンドを握っておきたい安倍首相の考えに配慮したものとみられる。
安倍首相は今後も解散のタイミングを慎重に見極めるものとみられる。
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小沢氏、全国行脚本格化 「衆院選へ共闘急ぐ」
2016年11月25日
自由党の小沢一郎共同代表が次期衆院選に備え、全国行脚を本格化させている。党名変更に伴う地方組織の刷新を名目に各地を回る方針だ。小沢氏は25日、東京都北区の党会合で「今、選挙がないと言われているが、こういう時が一番危ない。野党共闘を急いでまとめたい」と述べ、早期の衆院解散の可能性はあり得るとの認識を示した。
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公明が選挙準備を言い出した。
2016/11/26
自民と連立を組む公明の山口代表が11月26日、国会は「常在戦場」だと述べ、選挙準備を強化するように指示した。安倍首相に最も近い党の代表がいうぐらいだから、かなり緊迫してきたと思える。その雰囲気は伝わるものである。野党共闘に最初は難を示していた民進も、さすがに動き出したようである。野田幹事長は、空白地区を含めて他の野党と調整しているとある。調整もまだらなところもあるが、一生懸命に行っているという。
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自由党の小沢代表も、全国行脚して、組織の梃入れをしている。こういう時期が、最も解散に気をつけよと述べている。軍事費は増やし、海外への援助はまるで打ち出の小槌の如くお金を振りまいている。日本の年金、介護、医療等の社会保障を減らしていく。

国民はここで一度、今の政治をリセットすべきである。安倍政権の横暴、傲慢を止めるには、選挙で勝つしかない。国民の怒りもそろそろ爆発する。
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公明党は26日、党本部で全国県代表協議会を開いた。山口那津男代表はあいさつで「年明けから大型の地方選挙が相次ぎ、衆院選も常在戦場だ」と強調。来年夏の東京都議会議員選挙なども見据え、結束して準備をするよう呼びかけた。
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自民・二階幹事長“年内の衆院解散ない”
2016年12月7日
自民党の二階幹事長が年内の衆議院の解散はないと明言した。「(解散は)年内にはありません。そんなことくらいでしょうね、見通しは」-二階幹事長は「年が明けて、どうなっていくかはまた新しい流れが来る」として、年明け以降の解散の可能性には含みを残した。
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二階幹事長は「今がチャンスだと解散をもて遊ぶものではない」としつつも「解散はいつあってもいいという気持ちで、臨まないといけない」とも述べ、総選挙の準備を怠るべきではないとの認識を示した。
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二階俊博幹事長「歴史に残る立派な演説。衆院解散を予測した人は失敗」
2016年12月28日 産経新聞
自民党の二階俊博幹事長は28日、安倍晋三首相が真珠湾を訪問して演説したことについて「真摯な態度で、不戦の誓いを心の底から述べた。感銘深い、大きく言えば、歴史に残るような立派な演説だった」と述べた。
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今月中旬の日露首脳会談や今回の真珠湾訪問といった外交成果を受けて首相が年明け早々にも衆院解散・総選挙に打って出るとの憶測があったが、二階氏は「そういうことを予測した人は完全に空回り、失敗だったのではないか。首相やわれわれ党から解散をにおわせるようなことを言った覚えはないのに、先走って『解散だ、解散だ』と言った人に責任がある」と否定した。
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「解散予測した人は失敗」 けむにまく
2016年12月29日 毎日新聞
自民党の二階俊博幹事長は28日、今秋に取りざたされた「年明け(衆院)解散」について、「予測した人は完全に空回り、失敗だったんじゃないか。その人にコメントを求めてください」と党本部で記者団に語った。二階氏自らが「解散風」を吹かせていた時期もあり、記者団をけむにまいた格好だ。二階氏は9月末から10月初旬ごろ、党会合などで「いつ選挙があってもいいように準備を怠りなくやっていく」と繰り返していた。
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政界ズバリ予測 毎日新聞記者座談
2017年1月1日
「一寸先は闇」といわれる政界。その暗がりをわずかでものぞこうと政治記者は日々、目をこらしている。では2017年はどんな年に?首相官邸、与党、野党を担当する3人の記者が大胆に占った。より、抜粋。
解散 秋が有力
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デスク まずは衆院解散から。年内にあるんじゃない?
記者A(首相官邸担当) 「1月解散」は消えましたね。米国では1月20日にドナルド・トランプ氏が新大統領に就任する。安倍晋三首相の周辺からは「安定した政治が求められている。解散の必要はない」という声が聞こえてきます。
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記者B(与党担当) 17年夏には公明党が重視する東京都議選があります。小池百合子知事が自身の政治塾から候補者を立てたら、自民、公明両党が全員当選した前回とは選挙の構図が変わります。まず都議選を乗り切り、解散は秋と考えるのが常識的です。
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記者A 任期満了が近づいた09年8月の衆院選で自民党は惨敗し、政権から転落した。首相は18年の「追い込まれ解散」を嫌がるだろう。
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記者C(野党担当) 民進党の蓮舫代表は早期解散の警戒を解いていないよ。もし立ち遅れたら、ダメージは計り知れないからね。
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デスク 衆院選の争点は?
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記者A 首相は国政選挙のたびに政権の経済政策「アベノミクス」を前面に押し出してきた。それは次の衆院選でも変わらないと思います。ただ、アベノミクスは肝心の成長戦略が弱く、「大胆な金融緩和」にもほころびがみえる。野党はそこを攻めるはずです。
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記者B 16年参院選で首相は「アベノミクスは道半ば」と繰り返したけど、もうこのフレーズは通用しませんよ。旧民主党政権の「失政」を挙げて現政権を正当化する姿勢も卒業してほしい。
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記者C 自民党が参院選で公約を「成長」から「分配」にシフトさせたのはうまかった。「同一労働同一賃金」なんて、本来は野党の政策。首相が経済界に賃上げを促す「官製春闘」は定着したし、野党は対立軸の設定が難しくなっている。
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デスク 政権に不安材料があるとすれば何だろう。
記者A 安保関連法や環太平洋パートナーシップ協定(TPP)、カジノ解禁など個々の政策に批判はあっても、内閣支持率は安定しています。自民党の総裁任期は「連続3期9年」まで延びるし、現時点では「ポスト安倍は安倍」ですよ。
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記者C かつて小泉純一郎首相は安倍氏を自民党幹事長や官房長官に抜てきし、後継者として経験を積ませたよね。「ポスト安倍」とされる岸田文雄外相や石破茂前地方創生担当相の処遇をみていると、安倍首相にそういう意図は感じられないなあ。
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記者B 岸田氏も石破氏も首相の座を狙うにしてはおとなしすぎますよ。自民党の人材不足。長い目でみれば、それが最大の危機だと思います。
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今後の政治日程を見ても、いきなり解散するなら予算案が成立する3月末以降から天皇陛下の退位に関する法案提出後の4月~5月。次に考えられるのは、東京都議会選挙(7月22日)が終わった後の9月頃。
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衆院解散考えず=安倍首相
時事通信  2017年1月4日
安倍晋三首相は4日、三重県伊勢市での年頭記者会見で、衆院解散について「今年に入って解散の2文字を全く考えたことがない」と述べた。
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第48回衆院選は2017年1月下旬以降、3月~5月と、都議会議員選以後の9月ころになる。安倍首相の胸の内は「いつ解散」と浮かんでいるのか。
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本年も1年間よろしくお願い致します!

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年も変わり早くも4日目。役所を始め、大抵の会社は本日から仕事始めでしょう。各社営業担当は、来週いっぱいまで、年始の挨拶回りで忙しいことでしょう。
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今年は欧州の選挙で、現政権が維持できるのか見通せず、どうも世の中騒がしくなりそうです。日本も、昨年暮れから、夏の東京都議会選挙を挟んで、衆議院選挙があるのか、あるとしたら何時なのか、予想記事が週刊誌・新聞でも取り上げられていますが、安倍首相はゴルフ先の記者質問に、(解散は)ない、ない、と笑ってごまかしているが、腹の内は誰も知らない。
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選挙があるとしたら、「都議選の前だろう」し、それを見逃したら「本年末から来年初めだろう」と推測する向きが多い。米大統領就任式以降、トランプ大統領との早期会談、プーチン大統領とのロシア会談など、挟んで本議会での予算成立を控え、慌てて選挙をする状況ではない。
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経済安定の安倍と辞任している向きはあるが、景気が順調に見えても税収は落ちている。このままいけば、製造業の設備投資は一部を除いて停滞する。
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その実感が、産廃業界の稼働率が20~40%ほど落ちている。その先にあるのは、単価競争であり、違法投棄という悪循環に陥る。製造業の排出元は、収運業者や中間処理場に任せたら、あとは知らない的な感覚が強い。本紙は、今までは中間処理場を中心にチエックしてきたが、今年からは、排出元が委託先を吟味して委託しているのかチエックしていく。違反が見えたら、本紙上で公表する。
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田中角栄(3)・砂防会館:長老が暗闘する伏魔殿!

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老朽化のため建て替えに!
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因習に彩られた建物も近代化へ衣替え!
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田中角栄に絡む色々な内幕がnetの読み物として、世の中に出てきたが、角栄時代の議員が現役から次々と去ってゆく中、沢山の政治家の内幕を見てきたであろう歴史の証人。ただ、物言わぬ証人として存在感を示していた砂防会館がついに解体される。本日で、田中角栄に関する転載は3回目。正月3ケ日の読み物としては丁度良い内容であったろうと思う。明日からは、また正常の業務になる社員の方々も、今年1年、頑張ってください。
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■砂防会館■
一般社団法人全国治水砂防協会(会長・綿貫民輔元衆院議長)が本部を置き、管理運営する。本館は地上5階地下2階建てで、昭和59年には別館A、平成5年には別館Bが完成。協会の事務局や会議室などのほかは、主に貸事務室などとして運用されている。
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2015年、結党60周年を迎える自民党を、陰で支えてきた建物が国会近くにある。田中角栄、中曽根康弘両元首相といった自民党の大物政治家が事務所を構えた「砂防会館」(東京都千代田区平河町)だ。かつては党本部も置かれ、権力闘争の舞台ともなったが、本館は建て替えのため来年4月以降に取り壊される。長老たちが暗闘し、明暗を分けた“権力の牙城”をめぐるドラマを証言で振り返る。
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「志帥会に入りたいという議員の希望はあるが、数ばかり増やしてもしようがない。一致結束が大事だ」
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自民党二階派(志帥会)の会長である二階俊博総務会長は8日、内閣改造直後、同派の在京議員懇談会でこう語った。表情には、総裁選で派閥として結束して素早く動き、林幹雄経済産業相のポストを勝ち取った自信がうかがえた。
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二階派は事務所を砂防会館本館2階に置いている。
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二階氏は9月の党総裁選で無投票再選の流れをつくった立役者の一人だ。4月に再選支持を早々と表明。8月の派閥研修会では同派議員35人の署名を集め、推薦状を作成し、安倍晋三首相に手渡した。出馬を模索した野田聖子前総務会長に対しては7月に出馬を思いとどまるよう促した。
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これに対し「無投票は国民の失望を招く」として野田氏の出馬を模索したのが、平成24年に衆院議員を引退した後も砂防会館本館4階に個人事務所を置く古賀誠元幹事長だ。
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岸田派(宏池会)名誉会長として同派に影響力を持つ古賀氏は派内中堅・若手はもちろん、他派閥へも野田氏の推薦人になるよう働きかけた。
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しかし、同じ砂防会館に陣取る二階氏に先手を打たれ、古賀氏の党内工作は難航した。一時、立候補に必要な20人の推薦人を野田氏が集めたとの情報が永田町を駆け巡ったが、総裁選を行うことで首相の「1強」状態を牽制するという古賀氏の構想はついえた。
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二階氏は周辺に、古賀氏について「影響力を発揮したいなら、引退しなきゃよかったんだ」と冷ややかに語ったという。
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「派閥は戦う集団でなければダメだ。ただの寄り合い所帯では人の役にも立たない。来年は戦う集団になってほしい」
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9月26日に東京都内のホテルで開かれた額賀派(平成研究会)研修会の懇親会で、笹川堯元総務会長は派閥運営に苦言を呈した。
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額賀派はかつて砂防会館に事務所を置いて「鉄の結束」で一時代を築いた田中派の流れをくむ。だが、橋本龍太郎元首相を最後に総裁候補を欠いている。
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会長の額賀福志郎元財務相と砂防会館本館3階に事務所を置く青木幹雄元参院議員会長の間では、総裁選のたびに、こんな会話が交わされているという。
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額賀氏「総裁選に出たいと思っているのですが…」
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青木氏「まあムリだわね。カネはあんの?」
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額賀氏に総裁選出馬経験はない。9月の総裁選でも、額賀派は首相に再選支持を伝えるのが8月27日まで遅れ、二階派のような注目を集められなかった。
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第2次安倍政権発足以降、「反安倍の拠点」として砂防会館がにわかに耳目を集めた時期もあった。
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というのも、政権奪還前の24年の党総裁選で二階、古賀、青木各氏はいずれも安倍首相以外の陣営にくみした。同じ総裁選で石原伸晃元幹事長を支援した森喜朗元首相も一時期、砂防会館本館4階に個人事務所を構え、青木氏らとの交流が取り沙汰されていたからだ。
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首相は二階氏を総務会長として重用することで「戦略的互恵関係」(二階氏周辺)を確立し、外相には岸田氏を起用して古賀氏との分断も図った。森氏はその後、事務所を移転。「反安倍勢力」の拠点はもはや砂防会館にはない。
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砂防会館は、東京・永田町の自民党本部から国道246号を隔て、歩いて数分のところにある。昭和32年8月に完成した地上5階地下2階の本館に、2棟の別館が隣り合っている。このうち本館が、平成23年の東日本大震災で窓ガラスが割れるなど耐震性に問題が生じたため、今年2月に立て替えが決まり、30年度中に新会館が完成する予定だ。
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砂防会館本館には完成まもなく、資金繰りの関係もあり、昭和30年の保守合同で誕生した自民党が2、3階に入居した。自民党を取材する記者クラブを「平河クラブ」と呼ぶのは、砂防会館の建つ東京・平河町に由来する。
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昭和41年、自民党が現在の党本部に移転すると、空いた2階、3階に中曽根康弘、田中角栄両元首相が派閥事務所を構えた。田中氏の後援会「越山会」のほか、4階には中曽根氏の個人事務所もあった。後に首相となる両氏が事務所を構えたことで、砂防会館は戦後政治史の暗闘の舞台となることを宿命付けられたといってもいいだろう。
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43年に中曽根氏の秘書となった与謝野馨元官房長官(77)は、「第1次角福戦争」といわれるポスト佐藤栄作を、田中氏と福田赳夫元首相が争った47年の自民党総裁選の激しさを覚えている。田中氏は同年5月、69人で事実上の田中派を結成し、砂防会館に入居していた。総裁選を前に田中-中曽根会談が極秘裏に行われたのは、4階の中曽根事務所だった。
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与謝野氏によると、会談は1時間弱行われた。会談後、中曽根氏は「田中氏は早口で、『ほとんどみんなが自分を支持している』と紙を見ながら説明していた」と話したという。総裁選は当初、田中、福田両氏が互角だった形勢が、キャスチングボートを握っていた中曽根派の支持を得たことで田中氏が優位に立ち、後に「今太閤」と呼ばれる田中首相が誕生した。
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与謝野氏によると「当時、同じ建物にあっても、両事務所は一切、付き合いがなかった」という。会談当日は、休日で記者の姿もなく、田中氏の早坂茂三秘書から「水を用意してください」といわれたことを不思議と覚えている。会談で中曽根氏は田中氏支持を明確にしなかったが、与謝野氏は「会えば、それで支持ということだったのだろう。

政治家同士が会談するということの意味の大きさに驚いた」と振り返った。
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田中氏は首相就任から約3カ月後の47年9月、中国を電撃的に訪問、日中共同声明を発表し、日中国交正常化を実現した。そのころ、砂防会館では、田中氏の秘書を23年間務めることになる朝賀昭氏(72)が、個人事務所の私室に、家庭に普及する黎明期(れいめいき)にあったビデオの録画装置を持ち込んでいた。“親父”の雄姿を録画するためだ。
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朝賀氏は「当時の機械は机ほども大きくて、運ぶのも録画するのもひと苦労だった。留守の親父の部屋で秘書みんなで、当時の中国の周恩来首相と飛行場で握手しているところなんかを『緊張しているね』なんて言いながら見た。たかがビデオなんだけど、生まれて初めて録画したのが歴史的な場面ということで、感慨深かった」と語る。
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帰国後、録画された映像を砂防会館の個人事務所のテレビで見た田中氏は、「いい顔しているな。この機械は、(映画を映す)幻灯機みたいなもんだ」と満足げだったという。
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しかし、首相としての田中氏の栄華は長くは続かない。49年、金脈問題で総辞職し、51年7月27日、ロッキード事件で東京地検に外為法違反容疑で逮捕された。このとき、砂防会館にも、東京地検の強制捜査が入った。朝賀氏は当時の様子を「戦場のようだった」と表現し、振り返った。
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「地検はなにもかもを持っていった。でも、いくつも部屋がある中で、検事が最初、親父の私室の捜査令状を持ってないのに入ろうとしたから『令状はあるか』という話になって、ひともんちゃくあって小一時間捜査がストップした」
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逮捕後、田中氏は個人事務所を砂防会館から引き払い、近隣のビルに移した。側近には「俺は責任を取って出ていくが、お前たちは残れ」と言い残したため、田中派の事務所などは砂防会館に残った。
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ただ、田中氏はこの年12月の衆院選では16万8522票でトップ当選。選挙の強さと砂防会館に残る田中派の鉄の結束を背景に、むしろ“闇将軍”として政界への影響力を強めていくことになる。
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自民党の派閥政治の栄枯盛衰を見つめてきた砂防会館(東京都千代田区平河町)。昭和から平成にかけ、田中派から中曽根派へと主役が移り変わった舞台は、今静かに歴史の幕を下ろそうとしている。
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■田中曽根内閣
「協力したこともあれば相反したこともあるが、際立った政治家だった」
中曽根康弘元首相(97)は平成21年12月の記者会見で、首相就任までの経緯を脳裏に浮かべつつ、田中角栄元首相を述懐した。
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昭和49年12月に発足した三木武夫内閣では、田中氏は三木降ろしに動き、中曽根氏は政権側。54年、田中氏の強い影響で「角影内閣」と呼ばれた大平正芳内閣では、大平降ろしを目指した中曽根氏と田中氏が「四十日抗争」といわれた政争で相まみえた。
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両氏が再び交じり合ったのが、中曽根氏や安倍晋太郎元外相ら4人が争った57年の自民党総裁選だ。田中氏は中曽根氏支持を決め、派閥に支援を指示した。
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砂防会館を運営する全国治水砂防協会会長の綿貫民輔元衆院議長(88)は当時、田中派に所属。「当時派内では、過去に反目した経緯などから、反中曽根が多かった」と振り返る。
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「後に副総裁になる金丸信氏が『親父のいうことに反対のやつは出ていけ』と締めた。

砂防会館の本館の玄関にみんなが集まったところに中曽根氏が来て、『みんなで応援しよう』と。あれで勢いづいた」
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■必勝、田中派選挙
かつて田中派は「田中総合病院」「田中軍団」と呼ばれた。石破茂地方創生担当相(5.8)は58年3月、田中氏の誘いで事務局職員となった。
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石破氏は、壁一面に北海道から沖縄県までの選挙区に自民党候補者の名前を書き、田中派の候補を赤い枠で囲うよう指示された。派閥幹部による応援演説のため、全国の新聞を取り寄せ選挙区情勢を分析した資料作りも命じられた。
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石破氏は「歩いた家、握った手の数しか票は出ないという田中氏の教えを、秘書まで徹底していた。自分が自民党幹事長のとき、これを根付かせたかった」と体得した政治哲学を語る。9月28日に立ち上げた石破派の事務所も、一時砂防会館に置くことを検討した。
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一方石破氏は、61年に初当選後は中曽根派に所属。重鎮の江藤隆美元運輸相から「ワシらは地鶏じゃ。エサは自分で探して歩かなくちゃいけんのじゃ」と諭され、面倒見のいい田中派と自主自立の中曽根派との文化の違いを感じたという。
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■田中派が分裂
58年12月の衆院選を経た後、田中派は最大の121人にふくれあがり、59年4月には手狭になった派閥事務所を砂防会館の別館に移した。最盛期を迎える裏で、派内では若手を中心に、大平、鈴木善幸、中曽根各氏という別派閥の首相を担ぎ、自派の後継者を育てないように見えた田中氏への不満が渦巻いていた。
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不満は60年2月、竹下登元首相らを中心に発足した派中派勉強会「創政会」として爆発する。小沢一郎氏といった子飼い議員も参画すると、田中氏は同月、脳梗塞を発症。田中派は62年、二階堂進氏のグループと、竹下派に分裂した。
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綿貫氏は「分裂時に砂防会館事務所の取り合いになり、全国治水砂防協会会長だった西村英一元厚相が『どちらも出ていけ』と一喝した」と語る。その後は両派が田中派の“正統後継”を主張して砂防会館に出入りしたが、平成6年4月の小渕派の退去で、田中派の流れをくむ派閥はすべて姿を消した。
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■中曽根氏の栄華も…
田中派の崩壊とともに、砂防会館の象徴は中曽根氏となった。しかし、63年にリクルート事件が直撃し、渡辺美智雄元副総理が中曽根派を継いだ後も、平成6年の村山富市首相指名の際に渡辺氏自身が造反するなど迷走し、派閥は10年に分裂。中曽根氏も15年10月、砂防会館の事務所を訪ねてきた小泉純一郎首相(当時)に事実上の引退勧告を受け、21年には砂防会館の事務所を閉鎖した。
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現在、砂防会館に派閥事務所を置くのは自民党の二階俊博総務会長(76)が率いる二階派のみで、かつてのにぎわいはない。
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石破氏は建て替えについて「派閥政治の象徴だった。ひとつの歴史が終わる」と遠くを見つめる。1年生議員時代、田中派に属した二階氏もこう語る。
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「政治の歴史の大きなページを占めただけに、感慨深い。新しい立派な砂防会館が建立され、新しい政治の一ページを開くだろう」
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小池知事:豊洲、五輪・全ての道は都議選へと!

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諸悪の根源は石原元知事にあり!
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自民党員ではあるが自民党でない小池党!
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2020年の東京五輪・パラリンピックで開催主催の東京都が石原~舛添元知事の時代大判振る舞いの予算でブラックボックス化であったが、昨年の都知事選で小池百合子が新都知事となり、ブラックボックスをこじ開け、白日の下に曝け出そうと悪戦苦闘を続けている。五輪を開催するには多額の運営資金が必要だとされているが、過去にはどのくらいの予算をかけたのであろうか。
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1984年 ロサンゼルス五輪—-約10億ドル(約997億円)
1988年 ソウル五輪———-約80億ドル(約7,976億円)
1992年 バルセロナ五輪—-約150億ドル(約1兆4,955億円)
1996年 アトランタ五輪——約70億ドル(約6,979億円)
2000年 シドニー五輪——–約50億ドル(約4,985億円)
2004年 アテネ五輪——–約140億ドル(約1兆3,958億円)
2008年 北京五輪———-約430億ドル(約4兆2,871億円)
2012年 ロンドン五輪——約400億ドル(約3兆9,880億円)
※1ドル=99.7円 で計算。
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アテネ大会で1兆円を超えてから、北京大会では国の威信をかけこれでもかと4兆円以上のカネをかけた中国。ロンドン大会も見劣りしないようにと約4兆円も金をかけ、五輪そのものが華美を競うような開催の仕方になってきた。
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2020年の東京五輪の予算は、五輪招致用の立候補ファイルでは「3013億1700万円」とされ、これに、非大会組織委員会予算「4327億3800万円」を加算すると、「約7345億円」となる。直近の大会と比べるとかなりコンパクトな開催取るはずであったが、開催が決まると為政者独特の悪い癖、華美・面子を表面にだし、同じアジアの北京開催に負けてなるかとの競争心が頭をもたげたのであろう。五輪メイン会場となる国立競技場の改修に始まり、次々と大型施設の建設入札が行われた。
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その最中に舛添知事がスキャンダルで辞任し、選挙の結果、小池知事が誕生した。就任早々、ブラックボックスの1の蓋(豊洲移転)を開け、2の蓋(都議会新党)と3の蓋(五輪開催費用)を同時に開け、中をかき回し始めた。
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2020年東京五輪・パラリンピックの関連予算を検証している東京都の調査チームは29日の都政改革本部(本部長・小池百合子知事)の会合で、競技施設の整備費や警備コストなどが膨らみ、今のままでは大会開催費の総額が3兆円を超えるとの推計を明らかにした。調査チームは報告書で、経費を縮減するため、都が整備するボート競技場など3施設について、都外の施設活用に変更するなどの大幅な見直しを求めた。これを踏まえ、都は具体的な検討に着手する。
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小池氏は席上、「大変重い提言だ。ベストのソリューション(解決策)を見つけていきたい」と表明。「レガシー(遺産)のある東京大会ができると確信しているし、成功させなければならない」と語った。
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開催費は招致段階で7340億円と見積もられていた。しかし、報告書によると、新国立競技場など競技施設や周辺インフラの整備だけで経費は7640億円。このうち、約800億円と見込んでいた仮設施設(大会後に撤去)の建設費が2800億円程度に膨らむ。
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さらに、大会中の警備や輸送などに1兆2000億~1兆6000億円の費用が掛かると試算。割高な工事発注など、都の予算管理の甘さの影響でコストがさらに増え、全体では3兆円を超える可能性があるという。3兆円超の言葉は「都政改革本部」が言い出した。開催費用について、外部有識者からなる東京都の調査チームが2016年9月29日、1次報告書を公表し、総費用が「3兆円を超す可能性がある」と指摘した。調査チームの推計だが、これまで五輪開催の総経費は示されていなかった。
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大会経費について、大会組織委員会が2016年12月21日、総額1兆6千億~1兆8千億円とする予算計画を示したことで、焦点は費用負担に移った。組織委が担う5千億円を除き、1兆1千億~1兆3千億円をどう分担するか。競技会場を抱える自治体には懸念が広がっており、年明けから本格化する協議は難航が予想される。
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立候補ファイルでは、開催費用は組織委と都、政府で原則負担し、会場については恒久施設を都、仮設と恒久施設を大会仕様にする改修費を組織委が負担するとしていた。

しかし招致時に723億円と試算された仮設整備費は、2800億円に膨らんだ。組織委で全額負担することは困難で、今年3月に組織委、都、政府は費用負担の役割分担を見直すことで合意した。
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ほとんどの競技を都内で開催する「コンパクト五輪」から「広域開催」に様変わりしたことも問題を難しくしている。レスリングやサーフィンなどが行われる千葉県の担当者は「仮設施設は組織委の役割」との認識で「変更されるとは考えていない」と話す。
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都知事選や会場見直しの影響で協議が進まず、来年度の予算編成にも支障が出かねない。神奈川県の黒岩祐治知事は先月下旬、都と組織委、政府に対し費用負担の明確化を求める緊急要請書を送付した。
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田中角栄(2)・冤罪 ロッキード事件の真相!

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石井一氏が語る・ロッキード事件について!
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米国の弁護士「陰謀が絡まっており、底が深すぎ奇々怪々だ!
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ロッキード事件で田中角栄元首相が逮捕されてから7月27日で40年。それを前に事件当時、自民党田中派衆院議員だった石井一氏(81)が25日、自らの調査をもとに事件と裁判の真相を明かした著書「冤罪-田中角栄とロッキード事件の真相」(産経新聞出版、本体1400円)を出版した。石井氏に田中氏と聞いた。(聞き手 高橋昌之)
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--昭和51年7月27日、田中氏はロッキード事件で逮捕されたが
「その年の2月から米国のチャーチ委員会(上院外交委員会多国籍企業小委員会)で、事件が取り上げられ、日本でも捜査が進められていたが、私も含めて田中の周辺ではだれも逮捕まで踏み切るとは思っていなかった。それに対して、東京地検は金権政治の象徴である田中を逮捕することが正義だというおごりのもとに、前の首相を、それも最初は外為法違反という容疑で逮捕するという暴挙に突っ込んだ。これは歴史的に糾弾されるべきことだと思っている」
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--その後の裁判をどう見たか
「田中は終始一貫、無罪を信じて切っていたし、やましいという様子を全く見せなかった。そこで、私は事件に疑問を持つようになり、弁護団らと話をしているうちに、田中は本当に無罪ではないかと思って、自分でも調査することにした。田中派だからとかそういうことよりも、政治家として捜査や裁判が行き過ぎたり、曲がったりしたときは追及していくのは使命ではないかという思いが強かった」
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--58年1月26日、検察側は田中氏に対し、懲役5年、追徴金5億円を求刑した
「その時、私は『検察側のストーリーをつぶすには、日本国内の法廷闘争だけでは勝てない。米国で調査を進めて真相に迫らなければならない』と思い、渡米を繰り返した。協力してくれる政治専門の優秀な弁護士はいないかと考え、スタンフォード大学大学院時代からの友人に相談したところ、その年の2月にリチャード・ベンベニステという弁護士に会うことができた。ニクソン大統領を辞任に追い込んだウォーターゲート事件で主任弁護士を務めた凄腕の持ち主だった。私が事件の関連資料を渡し、田中の弁護を依頼したところ、10日ほどして『引き受けましょう』という返事がきた。改めて渡米した私に、彼は『この事件には絶対、陰謀が絡まっている。底が深すぎるし、奇々怪々だ』と語った。そして、事件発覚の経緯や田中側への5億円の資金提供を認めた嘱託尋問調書を日本政府が要求して裁判所が証拠として採用したことなどの点をしてきた。そのうえで『事件を証言したロッキード社(元副会長)のコーチャンは日本で刑事免責を受けているが、自分が米国内で彼を訴追することは可能だ』とも語った」
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--その後のベンベニステ氏との調査は
「彼は3月14日、同僚や秘書など総勢10人で来日した。私が手配して高輪プリンスホテル(現グランドプリンスホテル新高輪)の最上階をフロアごと借り切り、急ピッチで本格的な調査を始めた。10日ほどが過ぎ、代理人を依頼するため、田中にどう会わせようかと思案していたところ、田中から突然、東京・目白の私邸に呼ばれた。田中は『いろいろ苦労をかけているようだな。だが、大変申し訳ないが、アメリカの弁護士は断ることにした』と言われた。私は『そんな話がありますか。せっかくすごいのを連れてきたのに』と言ったが、田中は「分かっとる。分かっとる。が、すまん、許してくれ」とわびた。さらに私は『このままだと有罪になりますよ』とも言ったのだが、田中は『いや有罪にはならない』と譲らなかった。私はすぐにベンベニステにこのことを伝えた。彼は『田中の気持ちは理解できる。すぐに帰国するよ』と受け入れてくれた」
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--田中氏はなぜ依頼を断ったと思うか
「ひとつは『米国から仕掛けられたワナから逃れるのに米国人の手を借りたくない』という日本人としての意地とプライドがあったと思う。もうひとつは田中が無罪を固く信じていたということだ。それで米国人の弁護士まで頼む必要はないと思ったのだろう」
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--58年10月12日の1審判決を前に、調査の結果を小冊子にまとめ、田中氏らに渡したということだが

「事件と裁判には多くの問題があるのに、田中が有罪になることには納得がいかなかったので、自分なりの調査の結果を手書きの小冊子にまとめた。最初はみんなに配って公開しようと思ったが、世論の状況を考えると逆に反発を受けるのではないかと思い、田中とその周辺の5人にだけ渡した。内容は事件の発端への疑問や嘱託尋問調書が採用されたことの問題点、田中への請託の有無や金銭授受の不確かさなど指摘し、『有罪とするのは困難と見ざるをえない』という見解を示したものだった」
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--田中氏の受け止めは
「小冊子を読み込み、いつも枕元に置いて大切にしてくれていたそうだ。その後、判決が出て、私もその年の12月18日に行われた衆院選で落選した。その10日後、田中周辺からの誘いで、目白の私邸を訪ねた。田中は新潟料理をふるまって、『君を落としたのは本当に残念だ』と慰めてくれたのだが、その後、私が渡した小冊子の話になった。田中が『君一人が書いたのか。どうしてこんなことが分かるのか』と訪ねたので、私は『事件は完全にでっち上げられたものだと思っています。ただ、感情的に言っても仕方ありませんから、事実を並べて論理的に書いたのです。時を経て、世間が冷静さを取り戻せば、いつか真実が明らかになる日がくると思います』と答えた。田中は深く、深くうなずいていた」
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--1審での懲役4年、追徴金5億円という有罪判決を田中はどう受け止めたのか
「田中は判決に向かうとき、無罪だと信じていた。しかし、有罪判決が出て司法に対する憤りに満ちていた。裁判所から帰ってくると、自宅事務所の会議室に駆け付けた国会議員だけを入れ、『総理大臣経験者としての私が、このような罪を、このような形で受けることは、国民に申し開きのしようがなく、名誉にかけて許せない』と演説をした。その後の田中は派閥をどんどん大きくして、自民党を完全に支配した。その異常なまでの執念の背景には、首相というポストを傷つけてしまったという反省と、自分の無実をかならず晴らすという意地があったのだと思う」
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--事件をめぐっては日米政府の陰謀説もある
「米国の政権は自分の思い通りになると思っていた日本を、日中国交正常化や資源外交などで独自の道に進めようとした田中を追い落とそうとした。田中は『(当時国務長官だった)キッシンジャーにやられた』ということを私にも言っていた。一方、日本側では事件当時の首相の三木武夫が、自分の政権基盤を強化しようとして、事件を機に田中を葬り去ろうとした。それに歩調を合わせて裁判所や検察という司法が、異常な執念と思い上がりから、首相経験者を仕留めようとした。そこへマスコミが追い打ちをかけ、世論は田中を罰することが日本の民主主義を救うことになるというムードになってしまった。これは歴史的に検証されなければならないことだと思う」
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--田中氏は平成5年12月に刑事被告人のまま、75歳で死去した
「ものすごく悔しかったと思う。昭和60年に脳梗塞で倒れ、障害が残ってから亡くなるまでの間は筆舌に尽くしがたい苦悩があっただろう。無実でありながら、罪を晴らせないままこの世を去ったことはまさに悲劇だ」
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--田中氏を政治家としてどう評価しているか
「政治家として並外れた能力の持ち主だった。予算の数字から政策の中身を知り尽くし、議員立法もたくさんやった。その意味で政党政治家の模範といえる存在だった。一方で『カネ』のイメージが強かった。ただ、それは自分の力で作ったもので、反省面ではあるが、希有な政治家だったと言えるのではないか。ただ、紛れもない愛国者であり、庶民の目線を持っていた。ロッキード事件がなく、田中の能力が発揮されていたら、日本の国は北方領土問題をはじめ、いまだに残っている問題もとっくに解決できていただろう。田中がどれほど大きな功績を上げることことができたかと考えると残念だ」
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■石井一(いしい・はじめ) 昭和9年、神戸市生まれ。甲南大学卒業、米スタンフォード大学大学院修了。サラリーマンを経て44年、35歳で衆院初当選。自民党田中派、竹下派を経て、平成5年に同党を離党し、その後は新生党、新進党、民主党に所属。衆院議員11期、参院議員1期。国土庁長官、自治相・国家公安委員長などを歴任した。
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長時間労働:鉄建も残業96時間で書類送検されていた!

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社員過労死か・2016年4月!
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2015年12月25日に自殺した電通の新入女子社員、ブラックな労働環境が明らかになり労働基準局までが各地の支社に強制捜査に入るなど世間が注目を浴びる中、12月28日上司だった幹部社員の男性1人と、法人としての同社を労働基準法違反(長時間労働)の疑いで書類送検した。
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東日本大震災の復興工事で社員に長時間労働をさせたとして、大船渡労働基準監督署は2016年4月15日、鉄建と同社の現場所長を労働基準法違反の疑いで書類送検した。この現場では今年3月9日、当時41歳の男性社員が事務所内で倒れ、死亡している。この社員の2月の残業時間は、労使協定の上限を36時間超過する約96時間だった。 同日、石井直社長は2016年1月の取締役会で引責辞任すると発表。
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社員が死亡したのは、被災したJR大船渡線をBRT(バス高速輸送システム)で本格復旧する工事の現場だ。鉄道が走っていた敷地にBRT専用の道路を造る。死亡した社員は、河川に架ける橋の施工管理を担当していた。
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3月9日午後8時50分ごろに倒れ、市内の病院に搬送されたが、午後10時15分ごろに死亡が確認された。死因は、大動脈瘤解離による急性循環不全だった。
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現場の元請け社員の労働時間は自己申告制で管理していた。死亡した社員が申告した2月の残業時間は、労使協定で決めた上限の60時間以下だった。しかし、大船渡労基署が社員のパソコンの記録などを調べると、実際は100時間近く残業をしていたことが判明。1日当たりの残業時間は、最長で5時間37分だった。
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この残業時間は、心臓疾患による過労死認定の基準である「発症前1カ月間におおむね100時間」に該当する。労基署では長時間労働による過労死の可能性が高いとみている。
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鉄建では、この4月からパソコンを利用した勤怠管理システムを導入している。今後、残業を事前申告する段階で上司がチェックすることと併せ、勤怠管理システムの効果を検証して改善していくという。
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建設会社社員の過労死としては、広島簡易裁判所が2013年12月に鹿島道路と同社の元営業所長にそれぞれ罰金20万円の略式命令を下した例がある。死亡した社員は、労使協定の1カ月100時間の上限を2時間1分超過する残業をしていた。略式命令の確定後、国土交通省関東地方整備局は、鹿島道路を中国地方で3日間の営業停止としている。
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厚生労働省は2015年10月7日、2014年に成立した「過労死等防止対策推進法」に基づく「平成28年版過労死等防止対策白書」を公表した。業界ごとの長時間労働の現状や、対策の実施状況などがまとめられている。
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労働時間に関する質問(企業を対象)では、業種別の正規雇用従業員(フルタイム)の月間時間外労働時間を調査。平均的な月における、1カ月あたりの時間外労働が45時間を超える割合が最も多かったのは
1.「運輸業/郵便業」(14.0%)
2.「宿泊業/飲食サービス業」(3.7%)
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「月間20時間超」と回答した企業の割合
1.「運輸業/郵便業」(54.7%)、
2.「情報通信業」(53.7%)、
3.「建設業」(48.7%)の順に多くなっている。
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正社員(フルタイム)の平均的な1週間当たりの残業時間に関し、性別にその平均をみると、男性が8.6時間、女性が5.2時間となっている。また、その残業時間が20時間以上と回答した労働者の割合は、男性が11.6%、女性が5.1%となっている。
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企業側は「顧客(消費者)からの不規則な要望に対応する必要があるため」「業務量が多いため」「仕事の繁閑の差が大きいため」などを回答理由として挙げている場合が多い。特に「建設業」「情報通信業」「運輸業/郵便業」「卸売業/小売業」では「顧客(消費者)からの不規則な要望に対応する必要があるため」を挙げる企業が最多となっている。
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正社員(フルタイム)の労働者調査において、所定外労働が必要となる理由をみると、「人員が足りないため(仕事量が多いため)」「予定外の仕事が突発的に発生するため」「業務の繁閑が激しいため」を挙げる労働者が多かった。特に「建設業」「情報通信業」「卸売業/小売業」「宿泊業/飲食サービス業」などで「人員が足りないため(仕事量が多いため)」を挙げる労働者が最多となっており、「学術研究/専門・技術サービス業」では「予定外の仕事が突発的に発生するため」を挙げる労働者が最も多くなっている。
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≪成27年度「過労死等の労災補償状況」を公表≫
厚生労働省は平成28年6月24日、平成27年度の「過労死等の労災補償状況」を取りまとめましたので、公表します。
厚生労働省では、過重な仕事が原因で発症した脳・心臓疾患や、仕事による強いストレスなどが原因で発病した精神障害の状況について、平成14年から、労災請求件数や、「業務上疾病」と認定し労災保険給付を決定した支給決定件数などを年1回、取りまとめています。
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【要約】
1 脳・心臓疾患に関する事案の労災補償状況
(1)請求件数は795 件で、前年度比32 件の増となった。
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(2)支給決定件数は251件で前年度比26件の減となり、うち死亡件数も 前年度比25 件減の96件であった。
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(3)業種別(大分類)では、請求件数は「運輸業,郵便業」181 件 、「卸売業,小売業」 116件 、「建設業」111件の順で多く、支給決定件数は「運輸業,郵便業」96 件、「卸売業,小売業」35 件、「製造業」34 件の順に多い。
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中分類では、請求件数、支給決定件数ともに「運輸業,郵便業」の「道路貨物運送業」 133 件、82 件が最多。
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(4)職種別 ( 大分類 ) では、請求件数は「輸送・機械運転従事者」 161 件、「専門的・技術的職業従事者」 118 件、「販売従事者」95件 の順で多く、支給決定件数は「輸送・機械運転従事者」88 件、「販売従事者」34件、 「専門的・技術的職業従事者」33 件の順に多い。
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中分類では、請求件数、支給決定件数ともに「輸送・機械運転従事者」の「自動車運転従事者」 153 件、87 件が最多。
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(5)年齢別では、請求件数は「 50 ~ 59 歳」 263 件、「60歳以上」233件、「40~49歳」198 件 の順で多く、支給決定件数は「 50 ~ 59 歳」9 1 件、「 40 ~ 49 歳」80 件、「60 歳以上」38 件の順に多い。
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(6) 1か月平均の時間外労働時間数別支給決定件数は、「80時間以上~100時間未満」105件で最も多く、「100時間以上」の合計件数は120件であった。
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2  精神障害に関する事案の労災補償状況
(1) 請求件数は 1,515 件で、前年度比59 件の増となり、うち未遂を含む自殺件数は前年度比14件減の199件であった。
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(2) 支給決定件数は 472 件で前年度比25 件の減となり、うち未遂を含む自殺の件数も前年度比6件減の93件であった。
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(3) 業種別( 大分類)では、請求件数は「製造業」2 62 件、「医療,福祉」 254 件、「卸売業,小売業」223 件の順に多く、支給決定件数は「製造業」71 件、「卸売業,小売業」65 件、「運輸業,郵便業」57 件の順に多い。
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中分類では 、請求件数は「医療,福祉」の「社会保険・社会福祉・介護事業」157件、支給決定件数は「運輸業,郵便業」の「道路貨物運送業」36 件 が最多。
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(4) 職種別(大分類)では、請求件数は「事務従事者」362件、「専門的・技術的職業従事者」325件、「サービス職業従事者」183件の順に多く、支給決定件数は「専門的・技術的職業従事者」114件、「事務従事者」93 件、「サービス職業従事者」5 3件 の順に多い。
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中分類では、請求件数、支給決定件数ともに「事務従事者」の「一般事務従事者」 241 件、61 件が最多。
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(5) 年齢別では、請求件数は「40 ~49 歳」 459 件、「30 ~3 9 歳」419 件、「5 0 ~5 9 歳」 287 件、支給決定件数は「40~49歳」147件、「30~39歳」137件、「20~29歳」87件の順に多い。
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(6) 1か月平均の時間外労働時間数別支給決定件数は、「20時間未満」86件で最も多く、「80時間以上~100時間未満」20件、「100時間以上」の合計件数は172件であった。
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(7) 出来事別の支給決定件数は、「仕事内容・仕事量の(大きな)変化を生じさせる出来事があった」75件、「(ひどい)嫌がらせ、いじめ、又は暴行を受けた」60 件 の順に多い。
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田中角栄(1)・ロッキード事件で逮捕:政争の具に!

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三木政権は田中角栄に止めを!
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田中角栄(たなか・かくえい)
大正7年新潟県生まれ。高等小学校卒業後、昭和9年東京に出て建築事務所に勤務。陸軍入隊、満州出征を経て18年田中土建工業設立。22年衆院初当選。32年、39歳で郵政相として初入閣、以後蔵相、自民党幹事長、通産相など歴任。47年7月、54歳で首相就任、9月日中国交正常化を果たす。「日本列島改造論」で角栄ブームが起きるが、自らの金権体質を批判され、49年11月退陣。51年7月ロッキード事件をめぐる受託収賄容疑などで逮捕、翌月起訴されたが、田中派を率いて政界に強い影響力を維持。58年ロッキード裁判で懲役4年、追徴金5億円の有罪判決、控訴。60年2月、脳梗塞で倒れ、平成5年12月、75歳で死去。
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新潟県民は、現在の道路事情や郷土開発の姿を見るにつけ、角栄の後姿を思い出すことであろう。功罪半ばといわれても、郷土に角栄がいなかったら、九州のO県、M県、中国地方のS県、T県のような過疎地域よりもっと過疎になっていたのではなかろうかと、、、。
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本日は、 2016年の角栄本が多数出版され、ネット上でも角栄待望論的な文章が多数散見された。数あるネット記事の中でも、産経ニュースで公開されている【角栄逮捕・40年後の証言】という記事は、生存する関係者の証言を転載する。「陰謀論」がくすぶる逮捕の真相や、思想や人脈など田中の“遺産”に迫った企画「角栄逮捕・40年後の証言」を読んでください。
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明晰な頭脳と大胆な行動力で「コンピューター付きブルドーザー」と異名をとった戦後を象徴する政治家、田中角栄(1918~93年)。新潟の寒村の出身で高等教育を受けずに政界の頂点まで上り詰めたことから「今太閤」とも呼ばれた元首相が、ロッキード事件で逮捕されてから7月27日で40年になります。中国との国交正常化を成し遂げ、「日本列島改造論」による大規模な公共事業を推し進めて国民から絶大な支持を得ますが、自らの金権体質を批判され、退任後はロッキード事件をめぐる受託収賄容疑などで逮捕され、懲役4年、追徴金5億円の有罪判決を受けた。
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≪田中角栄、ロッキード事件40年後の「驚愕証言」≫
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空前の田中角栄ブームが到来している。角栄氏を主人公にした石原慎太郎氏の小説『天才』がベストセラーとなったのをはじめ、数々の関連本が出版され、NHKスペシャルの「未解決事件」シリーズでも、2夜連続で『ロッキード事件の真実』が放送された。
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そうしたなかで7月上旬、『田中角栄を葬ったのは誰だ』(K&Kプレス刊)を上梓した、事件当時、衆院議員秘書を務めた平野貞夫氏(元参院議員)はこう断じる。
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「NHKなどの報道は基本的に、田中角栄さんを逮捕した検察のやり方を追認、称賛するものに見えた。しかし、私はむしろ逮捕のプロセスに大いに疑問を抱いている。田中さんは権力によって消され、真相は闇に葬られたのではないか。40年後の今こそ、真実を解き明かす必要がある」
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いわゆる「ロッキード事件」とは、角栄氏が総理時代に、米航空機メーカー・ロッキード社の代理店だった丸紅から5億円の賄賂を受け取ったとされる事件。5億円は、角栄氏が全日空にロッキード社製の大型航空機「トライスター」の購入を承諾させたことへの謝礼とされている。角栄氏は1976年7月に外為法違反容疑で逮捕され、一審と二審で懲役4年の実刑判決を受けた。そして上告後の1993年、最高裁の判決を待つことなく他界している。
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事件の発端は1976年2月、米議会上院公聴会で、「ロッキード社が日本政府高官に工作資金を渡した」との疑惑が飛び出したことだった。ロッキード社幹部の衝撃的な証言により、角栄氏をはじめとする複数の政治家に追及の矛先が向けられ、国会は紛糾した。
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当時、国会正常化に奔走したのが衆院議長・前尾繁三郎氏であり、その秘書が平野氏だった。「私は『ロッキード国会』と呼ばれたあの時期に、政治家や各党の動きを記した大量のメモをとってある。この事件は米国発だが、主要な舞台となったのは日本の政府与党の内部。その熾烈な権力争いの結果、敗れたのが田中さんだった」
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◆消えた「児玉ルート」
オイルショックによる物価上昇や金脈政治批判を受け、田中内閣が総辞職に追い込まれてから1年2か月後の1976年2月5日。前日の米議会公聴会を受けて、朝日新聞が朝刊2面に、
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〈ロッキード社 丸紅・児玉氏への資金〉
との見出しで、小さな記事を掲載した。この400字にも満たない記事が、政財界を揺るがす事件に発展するとは、平野氏も予想していなかったという。
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「見出しに名前の挙がっていた児玉誉士夫氏は、右翼の大物で政界のフィクサーとして名が知られていた人物。しかも、当時幹事長だった中曽根康弘氏の元書生が児玉氏の秘書を務めるなど、自民党中枢との関係が深いことは知られていた。疑惑が広がれば政権与党を直撃すると感じた一方、記事は淡々としたトーンで、児玉氏の名前を挙げていたのも朝日一紙だけだったので、そこまで大騒ぎになるとは思っていなかった」
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だが、平野氏の予想に反して各紙は連日、大きく疑惑を取り上げるようになり、通常国会は紛糾。衆院予算委員会では全日空、丸紅の幹部、角栄氏の「刎頸(ふんけい)の友」であり、米議会で工作資金が渡った先として名前の挙がった国際興業グループ創始者・小佐野賢治氏らが証人喚問の場に立った。
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「朝日の見出しにあった通り、ロッキード社からの工作資金の流れには主に2つのルートがあった。
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ひとつは児玉氏を通じて防衛庁に次期対潜戒機P3Cを売り込むルート。もうひとつは丸紅を通じて全日空に大型航空機トライスターを売り込むルートだった。政界への波及でいえば、第1の『児玉ルート』は元防衛庁長官で当時幹事長だった中曽根氏につながり、第2の『丸紅ルート』は小佐野氏を通じて田中さんにつながるものだった。
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当時、ロッキード社が流した対日工作資金約30億円(1000万ドル、当時のレートで円換算)のうち約21億円は児玉氏に秘密コンサルタント料として渡ったとされていた。にもかかわらず“本線”であるはずの児玉ルートは、事件発覚後すぐに、事実上、捜査の対象外になってしまった」(平野氏)
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その理由は、児玉氏が脳塞の後遺症のために重度の意識障害を起こし、国会の証人喚問に応じることができないことだった。
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結果、東京地検の捜査対象は丸紅ルートに集中し、「角栄逮捕」の流れにつながっていく。
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「なぜ児玉氏の証人喚問が不可能だったか。実は証人喚問の直前、児玉氏の証言を不可能にする作為がはたらいていた可能性が高い」
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平野氏はそういって、驚くべき証言を続けた
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田中角栄・元首相が逮捕された「戦後最大の疑獄事件」、ロッキード事件発覚当初から、児玉誉士夫氏は「病気」を理由に証人喚問を拒否していた。
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国会は1976年2月16日、病状確認のために医師団を児玉邸に派遣した。結果、児玉氏は「重度の意識障害」と診断され、喚問は見送られることになった。
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7月上旬、『田中角栄を葬ったのは誰だ』(K&Kプレス刊)を上梓した、事件当時、衆院議長秘書を勤めていた平野貞夫氏(元参院議員)が振り返る。「私は当時、児玉氏が中曽根(康弘)氏を守るために、自分の意志で証人喚問を拒否したと思っていた。しかし、その判断が間違っていたことに、後になって気付いた」
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そのきっかけは、ひとつの告発記事だった。『新潮45』(2001年4月号)に掲載された記事で、児玉氏の主治医・喜多村孝一東京女子医大教授(当時、故人)の部下だった天野惠市氏(当時、同大助教授)の手記である。天野氏はその中で、国会医師団派遣直前の喜多村氏の行動を暴露した。記事には1976年2月16日の午前中、東京女子医大の脳神経センター外来診察室での出来事が克明に記されている。
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〈立ったままの喜多村が、切り出した。
「これから、児玉様のお宅へ行ってくる」
喜多村は、児玉を必ず、「児玉様」と呼んだ。〉(前掲記事より、以下同)天野氏が訝りつつその理由を聞いた後の2人のやり取りは以下の通りだった。
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〈「国会医師団が来ると児玉様は興奮して脳卒中を起こすかもしれないから、そうならないように注射を打ちに行く」
「何を注射するのですか」
「フェノバールとセルシンだ」
いずれも強力な睡眠作用と全身麻酔作用がある。
「先生、そんなことしたら、医師団が来ても患者は完全に眠り込んだ状態になっていて診察できないじゃないですか。そんな犯罪的な医療行為をしたらえらいことになりますよ、絶対やめてください」〉
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止める天野氏に対して喜多村氏は激怒し、看護師の持ってきた薬剤と注射器を往診カバンに詰めて出ていった──手記にはそう書かれている。
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国会医師団が児玉氏を診察したのは、喜多村氏が児玉邸を訪れてから数時間後。そして喜多村氏が国会に提出していた診断書の通り、「重度の意識障害下」にあり、国会での証人喚問は不可能と判断されたのである。
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平野氏がいう。「フェノバールとセルシンの注射で発生する意識障害や昏睡状態は、重症の脳梗塞による意識障害と酷似している。仮に国会医師団が見抜けなかったとしてもおかしくない」「そして、着目すべきは“主治医が児玉邸を訪れたタイミング”だと指摘する。「私のメモにも残っていますが、2月16日は医師団の派遣を巡って衆議院の予算委員会理事会が紛糾していた。医師団の派遣そのものを決めたのが正午過ぎで、メンバーが決まったのは午後4時。そこから『2月16日の当日中に行くか』『翌日の朝にするか』を協議し、夜7時になって当日中の派遣が正式に決定した。私は議長秘書として医師団派遣の調整に関わっていたので、時系列に間違いはない。
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つまり、児玉氏の主治医は、国会医師団の派遣がまだ正式に決まっていない16日午前中に、すでに“医師団が今日中に児玉邸に来る”と確信していたことになる。医師団派遣はいわば機密事項だった。にもかかわらず、なぜ主治医は知っていたのか。国会運営を取り仕切れる中枢にいて、かつ児玉氏の主治医にもコンタクトできる人物が情報を流していたとしか考えられない」
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◆「得をしたのは誰だ」
もし児玉喚問が実現していたら、ロッキード事件は違った方向に展開していた可能性がある。丸紅を通じて角栄氏が受け取ったとされるのは5億円。一方、児玉ルートには21億円が流れたとされている。平野氏が続ける。
「児玉氏の証言が得られなかったため、東京地検は狙いを田中さん一人に絞り、逮捕に全力を傾けた。もし当局が児玉ルートにも切り込んでいたら、ダメージを受けたのは中曽根氏だったはず。私は告発記事を読んだ後に天野医師と会って話したが、児玉氏の主治医だった喜多村氏は、その後、“中曽根氏の主治医”を名乗るようになったと証言している」
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事件発覚当時から、角栄氏の逮捕に至る流れは、政治的な思惑のある「国策捜査」ではないかとの指摘がされていた。米議会公聴会で疑惑が出た直後の1976年2月9日に当時の三木武夫・首相は、与党内に累が及ぶ疑惑であるにもかかわらず、「なすべきことは真相の究明」と言明。権力側が政界ルートの捜査を検察に促す“逆指揮権”が発動したともいわれた。
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そして結果として、三木首相と党内で対立する角栄氏に追及の矛先が向かった。その三木政権を幹事長として支えていたのが中曽根氏だった。
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角栄氏が1976年8月に保釈されると、田中派をはじめとする自民党内の反主流派6派閥が一気に「三木おろし」の逆襲を始め、その際に政権サイドについたのが三木派と中曽根派だけだった。当時、自民党内で壮絶な権力闘争があったことは間違いない。
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そして時は流れて平成の世になり、2008年に秘密指定が解除された米公文書に、中曽根氏とロッキード事件を結びつける記述が見つかっている。
〈ロッキード事件の発覚直後の1976年2月、中曽根康弘・自民党幹事長(当時)から米政府に「この問題をもみ消すことを希望する」との要請があった〉(2010年2月12日付、朝日新聞)
中曽根事務所は平野氏の指摘、米公文書の記述について、「ノーコメント」とするのみ。平野氏が続ける。
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「田中さんは物的証拠がないまま、証言だけで有罪になった。政治、捜査機関、司法当局、そしてメディアによって、“田中有罪”という世論の大合唱が作り上げられていった」。なぜ、ロッキード事件では結果的に角栄氏だけが狙い撃ちされたのか。
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1976年9月に角栄氏が米国の意に背いて日中国交正常化を実現させ、同時に台湾との国交を断絶したことでホワイトハウスが激怒した―といった「米国の虎の尾を踏んだ説」も根強くある。それを裏付けるような機密解除された米公文書の存在も報じられている。平野氏がいう。
「“虎の尾論”は一面の真実をついているでしょう。ただ、私にできるのは、『対米追従シンドローム』に侵された日本の権力者たちが、田中角栄という政治家を葬ったということを論証すること。それが使命だと考えているから今回、『田中角栄を葬ったのは誰だ』を改めて出版した。事件から40年を機に、国民に目を見開いてほしい」
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真実は、どこにあるのか。
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その日、昭和51年7月27日。空白む前の午前3時、1台の黒いセドリックが東京地検から静かに滑り出した。乗り込んでいたのは、特別捜査部検事の松田昇(82)、検察事務官で特別捜査資料課長の田山太市郎と課員の水野光昭(73)ら運転手を含めて5人。行き先は、東京・目白、田中角栄の私邸。午前4時ごろから、庁舎周辺を輪番で巡回するマスコミ各社の目をくらます隠密行動だった。
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「田中邸に入るのは午前7時という指令を受けていた。だから、靖国神社で時間をつぶした」
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水野はこう明かす。気温25度ほど、南南西のそよ風。車中に張り詰めた緊張感で、誰も口を開かなかった。人目をはばかり、参拝もしなかった。しかし、主任検事として、事件を仕切った特捜部副部長の吉永祐介の怒りを買った。
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「勝負の日に、敗戦の神様の前で待機するなんて、お前ら何考えているんだ」もとより、吉永に靖国神社を貶(おとし)める意図などなかったはずだ。乾坤一擲、吉永なりに期するものがあったのだろう。
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ロッキード事件-。米ロッキード社(当時)の大型航空機「L-1011トライスター」の売り込み工作をめぐる戦後最大の疑獄事件だ。
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この年の2月。米上院多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)の公聴会で、ロッキード社から日本の政府高官に巨額の工作資金が渡ったことが判明し、日本の捜査当局は2月24日、本格的な捜査に着手。特捜部は警視庁、東京国税局と合同で、「政財界の黒幕」と呼ばれた大物右翼、児玉誉士夫宅や丸紅本社など27カ所の捜索差押に乗り出した。
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検察の捜査態勢は東京高検管内から集めた検事と検察事務官を含め、検事35人、副検事5人、検察事務官65人の総勢105人。家宅捜索箇所は国内130カ所を超え、押収した証拠品は約6万6千点に上った。
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目白の田中邸前で、水野は記者の姿を覚悟していた。しかし、数十m先に1台のタクシーが止まっているだけだった。
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「マスコミらしきやつがいるから、『地検か』と聞いてきたら、『陳情客だ』と言ってくれ」。そう、警備の警察官に頼んで、高さ3m、幅5mの門扉の中に足を踏み入れた。
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そろそろコイにエサをやる時間のはずだった。しかし、書生は「まだお休みです」と告げるのみ。政治ルートで情報が入ったのか、逃げたのか-。
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ほどなくして、うがいの音が聞こえた。現れたのは、田中その人だった。
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「地検の特捜です。ご足労いただこうと思いまして」。松田が言うと、「ご苦労さん。電話1本くれれば、来ていただかなくても、こちらからうかがったのに」と田中は応じ、「松田検事ですか。児玉を調べて大変ですね」と話しかけたという。
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松田はそれまで、脳血栓で倒れた児玉の在宅取り調べを担当。田中はそのことを知っていたのだ。
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玄関先には田中の妻のはな、長女の真紀子(72)の姿もあった。真紀子の目には涙が浮かんでいた。
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「お前ら、総理大臣をやった男の家族がうろたえるんじゃない。すぐ帰ってくる」そう話す田中を一行は地検の車に誘った。田中は車内後部座席で、松田と田山に挟まれて座った。
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「検事さん、たばこを吸ってもいいか」。たばこをくわえて、マッチを擦ったが、手元が狂って、指先を焼いた。任意同行を求めた検事同様、田中も緊張していたのだろう。
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戦後を象徴する政治家、田中角栄がロッキード事件で逮捕されてから40年。今再び「角栄ブーム」が巻き起こる中、生存する関係者の証言をもとに、「陰謀論」がくすぶる逮捕の真相や、功罪相半ばする田中の遺産に迫る。
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「黒い高官-いきなり“王手”」
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田中角栄逮捕を伝える昭和51年7月27日付のサンケイ新聞夕刊にはこんな横見出しが躍った。徹底的な情報管理でこの頂上作戦を指揮した東京地検特捜部副部長の吉永祐介にとっては、まぎれもなく勝負の日だった。
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田中の逮捕を先駆けて報じた新聞はなかった。
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「2月以降、頂点は角栄だと警戒していた。『桜のころまで何もないよ』『桜が散るころになるか』と検事から聞いていたが、結局、最後まで、時期についての感触はつかめなかった」こう話すのは、当時のサンケイ新聞司法クラブキャップ、樋口正紀(76)だ。1カ月以上も自宅に帰らず、連日、東京・丸の内ホテルや本社に臨泊し、Xデーを追っていた。
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「明日は歯医者に寄るから(出勤は)遅くなるよ」
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田中逮捕の前日、夜回り取材の記者らを前に、吉永はこう話したという。しかし、吉永は午前5時半には登庁。そして、午前7時過ぎには自ら検察庁舎正面玄関に出て、報道規制のロープを張り、「名前は言えないけど、入れるよ」と一言発した。吉永に、大手紙の記者が食い下がった。
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「誰が来るんですか」
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「いやあ、小物だよ」
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そんなやり取りがあった後、1台の車が地検前に横付けにされた。
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いつものように片手を上げるしぐさ。自宅から任意同行された田中を見て、記者は「とぼけやがって」と吐き捨て、駆けだした。
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田中への逮捕状執行は午前8時50分。過去に参考人として田中から話を聴いた経験を持つ東京地検検事正、高瀬礼二は「こういう形でまたお会いするのは非常に残念ですが、環境が変わりますので、お体にご留意ください」と語り、副部長室を立ち去った。
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逮捕状を執行したのは特捜部副部長の石黒。執行に先立ち、筆と紙を求めた田中。自民党幹事長だった中曽根康弘(98)宛てに、離党届をしたためた。
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「やっとここまで、たどり着けたか」
米ロサンゼルス。7月26日午後2時半(日本時間27日午前6時半)、当時東京地検特捜部検事だった堀田力(82)は電話を受けた。相手は吉永だ。「今から田中を逮捕する。(特捜部検事の)松田(昇)君が田中宅に入った」
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堀田は、米司法省の捜査協力を取りつけるとともに、「極秘で調べられるだけ、調べてこい」という半ば無理筋な命を受け、その年の2月26日に渡米していた。「大阪空港から沖縄へ、そして、グアムを経由して、米国」。着慣れた背広にネクタイではなく、カメラを下げ、サングラスをかけて観光客を装った。
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事件の成否は、ロッキード社の元副会長、アーチボルド・カール・コーチャンと元東京事務所代表、ジョン・ウィリアム・クラッターの供述にかかっていた。
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「米国が秘密の証拠をくれるはずがない。といって、米国で証拠を集める方法もない」。これが当初の特捜部の考え方だったというが、堀田は「交渉もしないでこの事件を諦めてしまっていいのか」という思いだった。
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「頂を目指して、進む」ことを胸中に秘め、堀田は「国境の壁、政治の壁、時効の壁、色々な手続きの壁…大小さまざまな壁を全部壊していった」。そして、コーチャンとクラッターの調書を手にする。それが、ロッキード事件の帰趨(きすう)を決めたと言っていい。
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ロッキードから丸紅を通じて田中側への5億円の資金提供を認めたコーチャンとクラッターの調書は、米司法省に依頼して堀田らの立ち会いの下で行われた「嘱託尋問」によって得られた。
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日本の検察はその調書を確保するため、日本で起訴しないことを「免責不起訴宣明書」で確約。さらに、日本の最高裁もその免責を保証する「宣明書」でこれに“お墨付き”を与えた。だからこそ、コーチャンらは証言した。
コーチャンらの嘱託尋問調書は1、2審では証拠として採用された。
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しかし、最高裁大法廷は平成7年2月22日、田中とともに起訴された「丸紅ルート」の2人の被告に対する判決で、田中への5億円の賄賂を認定しながらも、嘱託尋問調書の証拠能力を否定した。日本では刑事免責の制度を採用しておらず、弁護側の反対尋問の機会を閉ざしたとしたからだ。
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それでは田中の刑事責任は何が裏打ちするのか。事件の底流に何らかの政治的意図は働いていなかったか。逮捕から40年の今も疑問は消えない。.
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ロッキード事件 1975(昭和50)年夏、米上院外交委員会多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)の事務所に、米ロッキード社(当時)の極秘資料が届けられた。資料配達の経緯には不明な点が多く、意図的な配達による謀略説の根拠ともなっている。
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翌76年2月のチャーチ委員会の公聴会で、資料が公表され、ロッキード社副会長のコーチャンが全日空への航空機売り込みに絡み、「大物右翼」「政財界の黒幕」と称された児玉誉士夫▽「政商」と呼ばれた国際興業社主の小佐野賢治▽総合商社の丸紅-を通じ、複数の日本政府高官に巨額の工作資金を渡していたことを証言した。
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検察庁と警視庁、国税庁は合同捜査態勢をとり、東京地検特捜部は元首相の田中角栄、元運輸相の橋本登美三郎、元運輸政務次官の佐藤孝行の政治家3人を逮捕、起訴したのをはじめ計16人を起訴。公判は「丸紅」「全日空」「小佐野・児玉」の計3ルートで進行。佐藤ら11人の有罪が確定したが、田中ら5人は死亡により公訴が棄却された。
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ロッキード事件で田中角栄が受託収賄、外為法違反容疑で逮捕されてから6年半後の昭和58年1月26日。検察は田中に懲役5年、追徴金5億円という求刑を突きつけた。だが、嘱託尋問調書の証拠能力に早くから疑問を投げかけ、田中への有罪判決を突き崩そうとした“幻”の代理人がいた。米国人弁護士、リチャード・ベンベニステ(73)である。
ベンベニステに田中の代理人を依頼したのは、当時48歳で当選5回の自民党田中派衆院議員だった石井一(81)。
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「検察側の田中有罪ストーリーを潰すには、国内の法廷闘争だけでは勝てない。米国で調査を進めて真相に迫らなければならない」
石井は田中の求刑を聞いてこう決意し、協力してくれる弁護士を探しに渡米した。米スタンフォード大大学院時代からの友人を介して、ベンベニステと出会う。当時40歳。ニクソン米大統領を辞任に追い込んだウォーターゲート事件の主任検事を務めたすご腕の弁護士だった。
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2月、石井は米ワシントンの事務所を訪れ、ベンベニステと面会。ロッキード事件の関連資料を渡し、田中の弁護への協力を依頼した。10日ほどして「引き受けましょう」という返事が届いた。
改めて渡米した石井に、ベンベニステは「この事件には絶対、陰謀が絡まっている。底が深すぎるし、奇々怪々だ」と語った。
事件発覚の経緯や、田中側への5億円の資金提供を認めた嘱託尋問調書を日本政府が要求して裁判所が証拠として採用したことなど問題点を指摘。そのうえでこんな秘策をささやいた。
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「事件を証言したロッキード社(元副会長)のコーチャンは日本で刑事免責を受けているが、自分が米国内で彼を訴追することは可能だ」。ベンベニステがコーチャン相手に米国で裁判を起こし、真実を引き出すというものだった。
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ベンベニステは3月14日、同僚や秘書ら総勢10人で来日した。石井の手配で東京・高輪の高輪プリンスホテル(現・グランドプリンス新高輪)の最上階をフロアごと借り切り、急ピッチで本格調査を進めた。
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その結果、「宣誓証人に尋問する機会を与えられなかった被告人は、その証言をもとに何人(なんぴと)たりとも有罪宣告をされない。こうした権利は日米の憲法にとって基礎となるものだが、田中にはその権利が与えられなかった。有罪の宣告は成り立たない」との見解を石井らに伝えた。
裁判は論告求刑を終え、判決が迫っている。「あと半年…、いや1年遅れたな」。強力な援軍を得た思いの石井は後悔したものの、「1審は有罪になるかもしれないが、2審、最高裁がある」と思い直した。
ベンベニステの来日から10日ほどが過ぎ、石井が代理人を依頼するため、田中にどう引き合わせようかと思案していたところ、田中から突然、目白の私邸に呼ばれた。
「いろいろ苦労をかけているようだな。だが、大変申し訳ないがアメリカの弁護士は断ることにした」。意外な田中の言葉に、石井は「そんな話がありますか。せっかくすごいのを連れてきたのに」と食い下がった。それでも、田中は「分かっとる。分かっとる。が、すまん、許してくれ」とわびた。
石井は「このままだと有罪になりますよ」と迫ったが、田中は「いや有罪にはならない」と譲らなかった。
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石井はすぐに田中の言葉をベンベニステに伝えた。
「田中の気持ちは理解できる。すぐに帰国するよ」
ベンベニステはあっさり受け入れ、2日後、石井が娘2人へのお土産にとプレゼントした日本人形を手に帰国した。
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現在もワシントンで弁護士活動を続けるリチャード・ベンベニステは7月、産経新聞の取材に応じ、石井一の依頼で田中角栄の有罪判決を阻止しようと日本で過ごした日々を振り返り、こう言い切った。
「(自らの提案が採用されていれば)判決が合法的に受け入れられることは考えにくい。少なくとも、コーチャン(ロッキード社元副会長)に反対尋問する機会を持つか、証言が受け入れられないとして記録から抹消されるまで、判断は保留されたはずだ」
それにしても田中はなぜベンベニステへの代理人依頼を断ったのか。石井は「オヤジは無罪を固く信じていた。それに米国に仕掛けられたワナから逃れるのに米国人の手を借りたくないという、日本人としての意地とプライドがあったのではないか」と回想する。
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その後も石井は自ら調査と思考を重ね、判決を11日後に控えた昭和58年10月1日、「政治家として考える ロッキード裁判に関する一考察」と題した小冊子をまとめた。
石井は「世論の状況を考えると公開したら逆に反発を受けかねない」と考え、田中とその周辺の5人だけにひそかに手渡した。B4判53ページ、10章で構成された小冊子は、ロッキード事件と裁判の問題点、疑問点を多角的にまとめた、いわば「無罪ペーパー」だった。
ペーパーはまず、事件の発端について50年、米上院外交委員会・多国籍企業小委員会の委員長だったチャーチ上院議員の事務所に突然、ロッキード社の秘密資料や政府文書、売り込み工作費の領収書などが届けられたことに疑問を呈し、「誰が届けたのだろうか。何者かの非常に強い意図があったに違いない」と指摘した。
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また、裁判がコーチャンらに刑事免責を与える嘱託尋問調書を根拠としたことについて、
(1)同調書は捜査段階の資料として使われることはあっても、通常は裁判の証拠とならない
(2)嘱託尋問は被告人も弁護人もいない場で行われ、必要な反対尋問も行われていない
(3)検察の捜査段階で最高裁判所がコーチャンらの不起訴の宣明を決定した-ことなどを問題視した。
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これらの異例の捜査や裁判には「ある種の狙い」があり、それは「日米両政府やロッキード社を傷つけない範囲で、日本の高官を狙い撃つことだったに相違ない」との見方を示した。
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このほか、田中への請託の有無や金銭授受の不確かさなどを指摘。首相の職務権限についても内閣法の解釈を詳細に分析し、「有罪とするのは困難と見ざるをえない」と結論づけた。田中はペーパーを読み込み、いつも枕元に置いて大切にしたという。しかし、58年10月12日、懲役4年、追徴金5億円の有罪判決が下った。そして石井も約2カ月後の12月18日に行われた衆院選(田中判決選挙)で落選した。
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意気消沈していた石井は10日後、田中周辺からの誘いで、目白の田中邸を訪れた。田中は新潟料理を振る舞い、「君を落としたのは本当に残念だ」と慰めた。そして石井が届けたペーパーについて、「君一人が書いたのか。どうしてこんなことが分かるのか」と尋ねた。石井は「事件は完全にでっち上げられたものだと思っています。ただ感情的に言っても仕方ありませんから、事実を並べて論理的に書いたのです」と答えた。そして「時を経て、世間が冷静さを取り戻せば、いつか真実が明らかになる日がくると思います」とつけ加えた。田中は深くうなずいていた。
今も田中の無罪を信じる石井は語る。
「米政権は自分の思い通りになると思っていた日本を、日中国交正常化や資源外交などで独自の道に進めようとしていた田中を追い落とそうとした。そして、日本では当時首相の三木武夫が弱かった政権基盤の強化につながると考え、田中をターゲットに捜査を進めさせた。こうして作り上げられたワナに田中ははめられたのだ」
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「ある国が長期的な利益を犠牲にして、短期的な利益をもとに決定を下すことは、これが初めてではないだろう」
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1973(昭和48)年11月、日本を訪れた米国務長官、ヘンリー・キッシンジャー(93)は日本側にいやみを言った。在日米大使館の首席公使だったトーマス・P・シュースミス(故人)の証言によれば、外相、大平正芳との会談での言葉だったという。この年10月に勃発した第4次中東戦争は石油危機の形で日本を直撃し、首相、田中角栄は原油確保のためアラブ諸国寄りの姿勢を強めていた。イスラエルを支援し続けてきた米国との足並みは乱れた。キッシンジャーは日本人について「私は彼らを理解できない」ともこぼした。
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キッシンジャーは12月17日、イスラエル首相、ゴルダ・メイアらとの会談で田中への不満をぶちまけた。米外交文書によると、キッシンジャーはメイアにイスラエルへの国際的な風当たりが強くなっていると説明しながら、田中を名指して語った。「先見の明を欠き、勇気がないことを認めたがらない複数の政府は、イスラエルを非難することで何か仕事をしているように思わせようとしている。田中は私に『(翌年)7月に選挙があるので、何かをしていることを見せなければいけない』と言う。
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ロッキード事件に絡み、田中が独自の資源外交を展開するためアラブ諸国に接近を図ったことが、米国の石油メジャーの「虎の尾」を踏んだという説がまことしやかに語られている。
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最近になり機密解除された公電やシュースミスら当時の外交官が、国務省に近い研究機関「米外交研究協会」に対して行った証言記録からは、米政府が一貫して田中に不信感を抱いていた様子が浮かび上がる。
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70年から73年まで国務省で日本部長を務めたリチャード・A・エリクソンは、72年7月に田中内閣が発足した当初について「ニクソン、キッシンジャーはもともと、田中と関わりを持ちたくなかった。利益がなかった」と証言した。佐藤内閣の通産相時代はニクソン政権との間の日米繊維交渉を合意に導いた田中だったが、首相就任当初の田中の印象は「下っ端政治家」(エリクソン)だったという。
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田中は首相として初の訪米でワシントンを訪れる意向だったのに対し、ニクソンが難色を示した。エリクソンによれば、72年8月31、9月1両日の日米首脳会談がハワイで行われたのはそのためだったという。田中はハワイで、日中国交正常化に踏み切り、台湾との外交関係を終えることを米側に伝えたとされる。仁義を切ったつもりの田中は同月末に北京に飛び、日中共同声明の調印にこぎ着けた。しかし、米側は日中国交正常化に突き進む田中への懸念を強めていった。
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ハワイ会談を控えた8月10日付で、米国家安全保障会議(NSC)極東担当上級部員だったジョン・H・ホルドリッジが、大統領補佐官だったキッシンジャーに送った機密扱いの公電が今年4月に公開された。そこにはこう記されていた。
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「田中は日米を『切り離せない兄弟』と言うが、中国との国交正常化に関する彼の扱い方は、この基本的な前提に多大な影響を与えるに違いない。田中はこのことに気付いているが、『米国従属』という国内の批判を恐れて、米国の懸案事項(特に台湾防衛に関する)について、あまり積極的になれない」
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田中の自主路線に芽生えた米側の不快感は増幅されていった。
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日本政府は否定してきたが、1972(昭和47)年8月31~9月1両日のハワイでの日米首脳会談で、大統領のニクソンが、補佐官のキッシンジャーとともに田中角栄、駐米大使の牛場信彦と行った少人数会合で、ロッキード社の旅客機トライスターの購入を持ちかけたとの見方がある。
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当時国務省日本部長のエリクソンは「分からない。ロッキードは事前説明の対象となる議題には含まれていなかったからだ」としつつ、「ニクソンとキッシンジャーの個人的な協議事項があったかもしれない」と証言に含みを残した。
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一方、8月10日付で米国家安全保障会議(NSC)上級部員、ホルドリッジが上司のキッシンジャーに送った機密公電には、「日本が1億ドル(308億円)から2億ドルに当たる米国の航空機を購入する可能性がある」との記述がある。
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全日空によるトライスター21機購入(総額1050億円)が公表されたのは10月30日。公電に記された金額と開きはあるが、日米貿易不均衡の解消に航空機購入が首脳会談で話題となったのは間違いなさそうだ。
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76年2月4日、上院外交委員会多国籍企業小委員会(チャーチ委員会)の公聴会で、ロッキード社が航空機売り込みのため、日本を含む外国政府関係者に巨額の資金提供を行っていたことが明らかになる。しかし、国務長官になっていたキッシンジャーは、この公聴会に先立つ75年11月28日付で司法長官、エドワード・レビ宛ての書簡で、ロッキード社の資料公開に異議を唱えていたことが分かっている。
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「早まって外国政府高官の名前や国籍を公開することは、米国の外交に損害をもたらすことになる」。すでに米証券取引委員会が同社の海外不正支払いについて調べを進めていた。
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キッシンジャーは事件の調査にどう関わっていたのか。ニューヨークの事務所に取材を申し込んだが、回答を得られなかった。
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日本側でも、事件発覚を受けた首相、三木武夫の素早い対応に、「国策捜査」との指摘がつきまとった。76年2月のチャーチ委員会で、ロッキード社副会長(当時)のコーチャンが日本への賄賂を証言すると、日本国内の世論は沸騰し、国会は紛糾した。
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三木は2月9日の政府・自民党首脳会議で、「まずなすべきことは真相の究明であり、法に触れるなら厳正に処置すべきは当然だ」と捜査の開始を示唆した。三権分立の日本で首相が司法の対応について口にすることは異例だった。さらに三木は同24日、米大統領のフォードに捜査への協力を要請する書簡を送る。三木の言動に自民党内で反発が広がった。
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当時、官房副長官で三木の「秘蔵っ子」と呼ばれた元首相の海部俊樹(85)は三木がフォードに書簡を送る数日前、首相官邸の執務室で「党内のほとんどが反対しています。書簡は出さない方がいいのでは」と具申したと明かす。三木は「国内から捜査の資料は出てこないだろう。協力を要請することを決めた。日本の民主主義は事件を明らかにして崩れるほど未熟ではない」と、書簡を自らの手でしたためた。
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「どのくらいでケリがつくのか」。東京地検特捜部検事として同26日に渡米して、田中逮捕の決め手となった嘱託尋問の実現に奔走した堀田力(82)は、三木から直接の電話を受けた。「米国にいる一検事に首相が電話するなど考えられなかった」と話す。
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米国への要請からわずか5カ月後の7月27日、田中は逮捕された。党内では、田中、大平、福田、椎名、水田、船田の6派が反主流に回り、8月19日に「挙党体制確立協議会」を設立。三木派以外の主流派は中曽根派だけという「三木おろし」の様相となった。情勢を報告する海部に、三木は「敵になるんならそれでもいい。道理はオレにある」と引かなかった。年末に衆院議員の任期満了を控え、解散権行使という手もあった。反対する閣僚が出ることを想定し、海部に交代リストまで作らせた。
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海部は「国民に信を問えば勝てるという自信はあったと思うが、解散すれば自民党は分裂していた」と語る。結局、解散は行われず任期満了に伴って衆院選は12月5日に行われ、自民党は敗北、三木は辞任した。海部は振り返る。「真相解明によって政権を強化したいという思いが三木にあったのは確かだが、日本の政治をクリーンにしなければ民主主義は育たないという信念の方が強かった」
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昭和60年2月7日は、ロッキード事件での逮捕、1審有罪判決後も「闇将軍」「キングメーカー」として君臨してきた田中角栄にとって、政治力の減衰を示す日となった。当時、蔵相などを歴任し、自民党田中派内で「ニューリーダー」と目されていた竹下登が「創政会」を結成したのだ。
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それに先立ち、当時52歳で当選6回の自民党田中派衆院議員だった渡部恒三(84)は、東京・平河町の砂防会館にある田中派会長室に田中を訪ねた。だれもが田中の逆鱗に触れることを恐れて尻込みする中、中堅・若手議員の代表として創政会への参加を報告するためだった。
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「貴様ーっ、このバカ野郎!」。田中はビル内に響き渡るほどの大声で渡部を怒鳴りつけた。そして「次の選挙ではたたき落としてやる」と、具体的な有力候補の名前を出して落選させる考えまで示した。
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「オヤジさんの気持ちは分かりますが、私は竹下さんとは早大雄弁会からの付き合いです。オヤジさんが父親なら、竹下さんは兄貴。オヤジさんの後は竹下さんを担ぐより仕方ありません」
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渡部は率直に自分の気持ちを伝えた。その姿勢が評価されたのか、田中は創政会結成後、たびたび東京・目白の自宅を訪れた渡部を歓迎した。応接間でお気に入りのオールドパーを酌み交わしながら、互いの地元の話などを語り合い、「元気で頑張れ」と励ました。
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創政会が結成された背景には、田中派が約120人を抱える党内最大派閥だったものの、田中が自分の派閥から首相候補を出さず、後継者も決めないという状況が続いていたことへの不満があった。結成は極秘裏に進められたが、「派中派(派閥内派閥)」になると警戒した田中は猛烈な切り崩し工作を進めた。その結果、参加者は当初の81人から40人に半減し、位置付けは「勉強会」ということになった。
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しかし、そのわずか20日後の2月27日、田中は脳梗塞で倒れて都内の病院に入院。以降、言語障害や行動障害が残った。9月にはロッキード事件の控訴審が東京高裁で始まったが、田中は欠席。一方、政治活動はそれでも続け、翌61年7月の衆院選でトップ当選を果たしたが、任期中、登院することはなかった。そして62年7月には、竹下が「経世会」(竹下派)を発足。田中派140人のうち、118人が参加し、田中は政治力を失った。
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追い打ちをかけるように同月29日、ロッキード事件の控訴審判決で、東京高裁は1審判決を支持し、田中の控訴を棄却。田中は即日、上告したが、もはや裁判も政治も展望を見いだす状況にはなかった。その後、田中は平成2年の衆院解散で政界を引退し、5年12月16日、75歳で死去。ロッキード事件は上告審の審理途中で公訴棄却となり、刑事被告人のまま人生の幕を閉じた。
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渡部は田中を振り返ってこう語る。「ロッキード事件について、オヤジが言い訳を言ったのを聞いたことはない。無罪とか有罪とかを超越して自分は死ぬまで政治家だという信念があったのではないか。われわれはそういう田中という人間の信者だったんだな。政治的な損得勘定や理屈ではなかった」
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田中角栄の政治力が衰えていく一方で、田中逮捕という金字塔を打ち立てた検察はヒーロー的な存在になっていった。「天下の田中角栄を逮捕したというのが衝撃だった。地方の一検事としても、東京の特捜はすごいことをやるなと驚愕した」。田中逮捕当時、福島地検検事だった宗像紀夫(74)には、東京地検特捜部がまぶしかった。後に特捜部でリクルート事件の主任検事を務め、部長としてゼネコン汚職事件を指揮する宗像は昭和59年、ロッキード事件の控訴審に投入された。
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「62年までの3年間、記録を読み込み、大学ノートに問題点を書いていった。ほかの事件は担当しなかった。絶対に負けられない事件ということだった」
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17年余りに及ぶ田中との暗闘に勝利した検察。捜査の中心的役割を担った東京地検特捜部は“史上最強の捜査機関”として人々の記憶に刻みこまれることになった。だが、その金看板が後に検察のおごりを生んだのではないか、という見方も少なくない。時に暴力を伴う強引な取り調べ、あらかじめターゲットを決めて描かれる事件の筋書き…。そんな話が聞こえてくるようになった。
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元東京地検特捜部検事で弁護士の郷原信郎(61)はロッキード事件が検察に残した「負の遺産」についてこう指摘する。
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「大艦巨砲主義というのが日本海海戦でできあがり、その戦勝体験が日本海軍にとって必勝パターンと信じられた。ロッキード事件捜査の戦勝体験がリクルート事件やゼネコン汚職事件にみられる贈収賄罪へのこだわりと、その捜査手法としての調書中心主義を生んだ。これがまさに大艦巨砲主義といえる。それがその後の捜査の近代化を遅らせた側面があるだろう」。調書中心主義の弊害が現れたのが、大阪地検特捜部が元厚生労働省局長の村木厚子(60)=無罪確定=を逮捕した郵便不正事件に端を発し、後に元特捜部長らの有罪が確定した証拠改竄事件だった。
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検察の描いた構図通りに村木の関与を裏付け、公判への影響を避けるため、押収していたフロッピーディスクの日時を書き換えた。特捜検察が「筋書き」に証拠を合わせるというゆがんだ捜査が行われていた。東京地検特捜部検事として、米国でロッキード社元副会長のアーチボルド・カール・コーチャンらの嘱託尋問の実現に奔走した堀田力(82)は証拠改竄事件について「一つのストーリーを先に作っていたから起きた」と指摘する。
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あらかじめターゲットを決めて筋書きを作り、犯罪要件をあてはめていくー。こうした検察の「ストーリー捜査」は半ば常態化していたのではないか、との指摘もある。「国会議員の○○と△△は、いずれやらなきゃいけない」。そんなことを口走る特捜検事もいた。この捜査手法の最大の弊害は筋書きに合わせようとするあまり、強引な取り調べに陥りやすいことだ。
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「人格を否定された」「土下座しろといわれた」…。リクールト事件やゼネコン汚職事件などでも検事の取り調べの過酷さを訴える声が相次いだ。実はロッキード事件の公判でも「椅子をけ飛ばされた」「侮蔑的な言葉で怒鳴られた」といった特捜検事の取り調べの一端が明かされている。ある検察幹部は言う。「ロッキードの成功体験があったから、他の捜査手法の開発が遅れた。時代の変化とともに、かつての説得してしゃべらせ、事件を広げるというやり方に行き詰まりが生じてきた」
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ロッキード事件をめぐっては、田中が狙い撃ちされたとの見方は今も消えていない。これに対し、堀田は「ロッキード事件では、いろいろな可能性があった。田中の可能性、他の人の可能性、政治家ではない可能性…。田中は、いくつもある読み筋の一つに過ぎなかった」と話している。
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