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建設業界、産業廃棄物業界、行政などのニュースを発信。

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私立大支援事業:加計学園傘下の2大学が選ばれていた!

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千葉科学大「『フィッシュ・ファクトリー』システムの開発」!
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岡山理科大の事業「恐竜研究の国際的な拠点形成」!
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7月4日、東京地検特捜部は、文部科学省の「私立大学研究ブランディング事業」で東京医科大学に便宜を図る見返りに、同大に自分の息子を合格させてもらったとして、同省科学技術・学術政策局長の佐野太容疑者を受託収賄容疑で逮捕した。また同大の臼井正彦理事長(77)が関与していたとされ、理事長を辞任した。
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佐野前局長と臼井前理事長を仲介したとして、元医療コンサルティング会社役員の谷口浩司が受託収賄ほう助容疑で逮捕されている。
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このような危険を冒さなくても、1~2年で合格していたように思うのだが、何を焦ったのだろうか。加計学園のようなルートを持たない私大の焦りなのか。
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文部科学省の私立大支援事業に関連し、同省の前局長が息子の裏口入学への関与をめぐり逮捕された受託収賄事件で、疑惑の舞台となった東京医科大(東京都新宿区)の臼井正彦理事長(77)と鈴木衛学長(69)が不正に関わった疑いがあることが5日、関係者への取材で分かった。東京地検特捜部は、臼井理事長が前局長への依頼など不正を主導したとみており、大学の組織ぐるみの可能性が出てきた。
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一方、加計学園系列の2大学が同じ支援事業の対象になっていたことが判明。野党は、選定の背景が不透明と追及を始めた。
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東京医科大の事業が選定された「私立大学研究ブランディング事業」の16年度分で、獣医学部新設問題が問われている「加計学園」(岡山市)が運営する千葉科学大と岡山理科大が選ばれていた。岡山理科大の事業は「恐竜研究の国際的な拠点形成」で、千葉科学大は「『フィッシュ・ファクトリー』システムの開発」などが対象。思わぬ形で加計学園の名が浮上した。
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文科省によると、対象校の選定はまず、各大学の提出書類を複数の専門家が審査して点数化。それを基に大学学長らが委員を務める委員会で決まるというが、加計問題を追及する野党は国会内で開いたヒアリングで、同事業での大学選定までの経緯に「お手盛りやお友達の利権が入り込む余地があるのではないか」と指摘。東京医科大の問題で佐野容疑者が、自ら選定に「後押し」したと一部で報じられたこともあり、“口利き”が通じた疑いがあるとして、大学が事業に選ばれる過程の詳細な情報公開を求めたが、文科省は捜査中を理由に説明を避けた。
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大学選定の会議は非公表だが、文科省担当者は「議事録は残していない」と述べた。選定のプロセスが明確にならない限り、加計系2大学の選定も含めて、疑惑が深まりそうだ。
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「暴力団への利益供与」の㈱熊谷組!

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次の狙いは「くまもと県北病院か!」
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暴力団と密接な関連があるとして岐阜県から入札参加資格停止措置を受けた建設業者が、三重県の外郭団体「三重県環境保全事業団」発注の工事に参入!
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元請けのゼネコン「熊谷組」(東京)は措置を把握しながら、下請けとして参入させていた。
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「暴力団への利益供与」に当たる不祥事(重大コンプライアンス違反)を起している「株式会社 熊谷組」の次の狙いは「くまもと県北病院」のようだ!

株式会社 熊谷組は、「地方独立行政法人くまもと県北病院機構新病院整備事業(設計・施工一括発注公募型プロポーザル方式)」に「山下設計・熊谷組JV」で入札参加。
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株式会社 熊谷組は「暴力団への利益供与」に当たる不祥事(重大コンプライアンス違反)を起しているにも係らず「参加失格」にならないのは何故か!
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その背景には、「玉名市長 藏原隆浩 氏と㈱九建総合開発 会長 新永正昭 氏との関係」及び「㈱九建総合開発 会長 新永正昭 氏及び株式会社秀拓 代表取締役多良木 慶輝 氏及び崇城大学 理事長(兼)学長 中山峰男 氏側の圧力」が大きく関係していると言われている。
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審査結果の通知が「平成30年7月17日(火曜日)?予定」にでるのが楽しみである。
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春の自民党大会:中核派に呼応・関西生コンなど極左集結!

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9条改憲発議絶対反対! 
朝鮮戦争とめよう!
3・25大行進全国から結集を労組交流センター!
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自民党大会会場の品川駅前は騒然 シュプレヒコール、罵声… 左右団体が集結で 自民党大会が開かれた2018年3月25日、会場となった東京都港区のグランドプリンスホテル新高輪近くのJR・京浜急行品川駅には左右の団体が集結し、騒然となった。
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品川駅前のロータリーには自民党大会が始まる午前10時前から人が集まった。過激派の一つ、中核派の機関紙「前進」が22日から集結を呼びかけていた。
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主催は「改憲・戦争阻止! 大行進実行委員会」。呼びかけ人には「とめよう戦争への道! 百万人署名運動」事務局長や、 全日本建設運輸連帯労働組合関西地区生コン支部、国鉄千葉動力車労働組合(動労千葉)などが名を連ねた。
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街宣車の前で「戦争教育許さない」「今こそ安倍を引きずり下ろせ」などとシュプレヒコールを繰り返した。
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駅の周辺には右翼団体の街宣車のべ数十台が集まり「おまえらの支持する政党に政権が担えるのかよ」などと罵声を浴びせ、一帯は騒然となり、カメラを構える外国人の姿もあった。
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主催の「改憲・戦争阻止! 大行進実行委」は同日午後、東京都千代田区の日比谷野外音楽堂で集会を開き、銀座でデモ行進をした。
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「9条改憲発議絶対反対! 朝鮮戦争とめよう!3・25大行進」へ全国から結集を労組交流センター (2018年3月 1日)
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月刊『労働運動』(0336号08/01)(2018/03/01)
「9条改憲発議絶対反対! 朝鮮戦争とめよう!3・25大行進」へ全国から結集を!
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飯田 英貴(全国労組交流センター事務局長)
全日建運輸連帯労働組合関西地区生コン支部、全国金属機械労働組合港合同、国鉄千葉動力車労働組合などが呼びかける、「9条改憲発議絶対反対! 朝鮮戦争止めよう! 3・25大行進」(日比谷野音)に全国からの結集を呼びかけます。
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労働組合が戦争に協力するのか
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安倍首相は、3月25日の自民党大会で9条改憲案をまとめ、秋の臨時国会で改憲を発議、そして来年春には国民投票を実施する方針を固めました。来年5月1日の新天皇即位、その秋に行なわれる即位の礼、大嘗祭の過程を「静かな環境」で迎え、2020年に新憲法を施行するには、国民投票は来春しかないと決断しています。
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また、朝鮮半島―東アジアをめぐる戦争の危機が切迫しています。2月2日に米トランプ政権は、「抑止」から「使う」に転換する恐るべき「核戦略見直し」を発表し、安倍政権はそれを「高く評価する」と表明しました。人類の生存を脅かす核戦争の危機を絶対に止めなければなりません。
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そして安倍政権は、かつて戦争遂行のために労働組合を産業報国会に再編したように、連合を改憲推進勢力としてとり込む以外ないと考えています。そのために経団連の新会長に日立製作所会長であり、JR東海名誉会長・葛西と共に安倍を支援してきた改憲派の中西宏明を据えました。それと軌を一にして、UAゼンセンが今秋にも憲法9条2項の削除、「自衛戦力の明記」などの見解を土台に、「国の基本問題」を組合方針としてまとめるとしています。労働組合が再び戦争に協力するのか否かがいま問われています。
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こうした重大情勢を前にして、動労千葉の呼びかけに、関西生コン支部、港合同、そして、とめよう戦争への道!百万人署名運動事務局長の西川重則さん、「日の丸・君が代」不起立被処分者の根津公子さん、世田谷地区労顧問で非正規職問題に尽力されてきた花輪不二男さんが応え、「改憲・戦争阻止大行進」の呼びかけに名を連ねて下さっています。これらの方々とは、国鉄闘争を軸とした労働運動の分野で長年共闘してきた土台があります。しかし、改憲阻止という政治闘争において、動労千葉の呼びかけに一も二もなく賛同してくれたことはこれまでの延長に考えることは出来ません。問われているのは私たちです。
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左派系の言い回し方は、どれも似たような内容だし、こじ付け方も同じだ。いつの間にか、朝鮮半島から日本の反対運動に首を突っ込み、反安倍にも、反辺野古にもハングル文字が氾濫している。日本は厳しい取り締まりをしていないから、のさばっているのだ。そろそろ取締法案を作らないといけないのではないか。
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JR総連、JR東労組の革マル派問題が多少静かになったようだが、今度は中核派に属する動労千葉や関西生コン(連帯ユニオン)が自民党大会に向け、自分たちも反自民・安倍内閣打倒の旗印でデモ行進をしたが、中核派の主戦場は沖縄・辺野古の基地問題だ。
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青森県・土地評価業務入札:90%落札!

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過去1年の落札率平均上回る!
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業者間で事前調整か!
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県発注の土地評価業務の指名競争入札を巡る官製談合防止法違反事件で、不正に落札したとされる二つの業者の落札率が、過去1年の平均落札率より約9~約11ポイント高いことが分かった。県警捜査2課は業者間で事前に談合があった可能性があるとみて調べている。
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同課によると、県が発注したのは弘前市内の県道拡張工事に伴う土地価格の評価業務。10社が入札に参加したが、3区間のうち2区間を、公契約関係競売入札妨害容疑で逮捕された島根幹夫容疑者(59)と千葉篤志容疑者(45)の不動産鑑定会社が落札。落札率は92%と89.95%だった。
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現在公表されている入札結果によると、土地評価業務に関する入札は17年7月~18年6月までに19回行われた。今回の入札(3回)を除く16回の平均落札率は81.07%で、70%台が約7割。県内の不動産鑑定業者は「それぞれの業者が最低制限価格ぎりぎりを狙って勝負すれば、落札率は80%を切るかその前後になる。90%は高い」と話している。
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この事件では、入札情報を漏らしたとして、県中南地域県民局地域整備部総括主幹用地課長の神敬一容疑者(58)も官製談合防止法違反などの疑いで逮捕されている。
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県発注の土地評価業務の指名競争入札をめぐる官製談合事件で、同業務に絡む拡幅工事の対象となっているのが、弘前市の都市計画道路「3・4・20号紺屋町野田線」だ。弘前さくらまつり期間や冬期間は渋滞が目立ち、近隣住民からは「早く工事を進めてほしい」といった要望に加え、事件を受けて「何が起きているのかよく分からない」など困惑の声も上がっている。
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駐独米大使・提案:米・EU間の車関税ゼロに!

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ドイツから米国への輸出・年間約50万台!
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EUから米国へ2.5%→20%・米国からEUは10%!
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独紙ハンデルスブラットは7月4日、駐独米大使がフォルクスワーゲン(VW)など独自動車大手の社長らと会い、米国と欧州連合(EU)間の自動車への関税をそれぞれゼロにすることを提案したと報じた。実現すれば、トランプ米大統領による関税引き上げ検討を警戒していたドイツの自動車業界にとって吉報となる。
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報道によると、トランプ氏に近いリチャード・グレネル駐独米大使が4日ベルリンで会談したのは、VWのヘルベルト・ディース社長のほか独ダイムラー、独BMW、独部品大手コンチネンタル、独自動車工業会(VDA)のそれぞれトップ。独自動車大手首脳と米大使との会談は6月にも開かれていた。
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現在、EU から米国への自動車関税は2.5%、米国からEU は10%かかる。グレネル大使はこれを互いにゼロにすることを提案したという。同時に米欧間の規格の違いなどの「非関税障壁」を撤廃することや、米国への投資の拡大なども求めた。
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トランプ氏はEUから米国への自動車関税について20%へ引き上げると明言。8月までに調査を終えることになっている。これに対しEUは報復を示唆。米国が自動車の輸入制限を発動すれば、最大で2940億ドル(約32兆円)規模の報復関税を米国がEUなどから受ける可能性があるとけん制していた。
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ドイツから米国への輸出は年間約50万台。独大手は関税が上がると経営への大きな打撃となるため、警戒を高めていた。
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JR東労組・JR総連:旧国鉄三大事件と重なる影(3・終)!

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故意にレールが外され、列車が脱線した「松川事件」!
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乗務員3人が死亡した!
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松川事件
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昭和24年の事件。
「松川事件」とは、1949年に福島県の日本国有鉄道東北本線で起きた列車往来妨害事件です。下山事件、三鷹事件とあわせて戦後の「国鉄三大ミステリー事件」の一つといわれており、容疑者20人が逮捕されたものの、その後の裁判で全員が無罪となり、未解決事件となった。
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【第2の三鷹事件とも言われ】
1949年8月17日午前3時9分、東北本線松川駅北約1.8km、金谷川間のカーブで、青森初上野行き下り412号旅客列車が脱線転覆し、大破。機関士・石田正三さん(49歳)と機関助士・伊藤利市さん(27歳)が即死、機関助士の茂木政市さん(23歳)もまもなく死亡した。その他、荷物車掌と乗客3人が軽傷を負った。
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荷物車掌が機関車に駆けつけた時、茂木機関士は虫の息で、一言「列車妨害だ」と伝えた。
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これが松川事件の発端である。同年7月には下山事件、三鷹事件が起こっており、この事件は「第2の三鷹事件」などと報じられたりした。
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事件直前、現場付近を通過した列車の機関助士は、レールと土手のあいだをかがみながら通った4、5人の男を見かけた。全員白シャツに黒ズボンだった。
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田の中からはバール、スパナー、レールの継目板2枚、犬クギ2本が発見された。レールの犬クギ29本が抜かれており、レールは外側に開いてアメのようになっていた。また重い1本のレールは線路から13mも離れたところに、破損もなく落ちており、犬クギをはずすために使われたと思われるバールが1本、近くの稲田から発見された。事故ではなく、何者かによる計画的犯行であることは明らかだった。
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17日午後2時頃、元若松機関区員・Yが松川駅構内で逮捕された。Yは16日午後2時から東芝松川工場の職場大会に出席、しかしYは事件には関わりのなかったことがわかった。
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現場に急行した福島地検の・高田検事正と新井県国警隊長は、「計画的な列車妨害事故」と共同発表を行う。

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また18日には、吉田内閣の増田甲子七官房長官が、「今回の事件は今までにない凶悪犯罪である。三鷹事件をはじめ、その他の各種事件と思想的底流においては同じである」という談話を発表。
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捜査当局は事件まもなく、松川付近の不良少年たちを洗い始める。
9月10日、元国鉄の線路工手の赤間勝美(当時19歳)が暴行容疑で別件逮捕された。赤間は定員法でクビを切られていたが、共産党員や労組員でもなく、思想的背景は一見なさそうだった。
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それから一週間後、東芝松川工場の菊池武(当時18歳)という少年が、窃盗容疑で逮捕されたが、彼もまた共産党や労組とは関わりがなかった。
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「赤間自白」なるものが作られ、”共同謀議”を経て事件に関わったとされる人間が芋づる式に逮捕された。 国労福島支部分会長・鈴木信ら国労側10名、東芝松川労組組合長・杉浦三郎ら東芝の労働者10名が逮捕され、列車転覆致死罪の共謀共同正犯で起訴された。
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起訴の要旨は「人員整理反対闘争中の国労と東芝松川労組が警察の干渉をそらすため共謀して列車転覆を計画した。5回の連絡謀議をして、49年8月17日未明、枕木の犬くぎなど線路破壊工作をして機関車を脱線転覆させ、機関士ら3人を死なせた」というものである。
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【松川裁判】
国鉄、東芝の関係者、それぞれ10名が逮捕された。当時、それぞれの労働組合では何が起こっていたか。
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もともと国鉄労組の指導権は、共産党と革同(革新同志会)の統一左派がにぎっていた。組合は6月の新交番制反対の国電ストを前哨戦として闘い、首切りが発令されたならば、「ストライキをも含む実力行使」で抵抗する方針を、民同派の反対を押し切って決定した。7月に入って、第一次首切り370万人余の名簿が発表された。そしてその後、下山事件が起こるのである。7月13日には第二次首切りの6万人が発表された。国労中央闘争委員会は、「残念ながら事態は最悪に近づきつつある」という当局への警告文を、17対15で採択した。これに反対した民同派は、退場戦術をとり、中闘委は事実上分裂している。その夜、三鷹事件が起こった。労組及び共産党関係者の犯行と見られ、
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松川事件はそんななかで起こった。もはやこれは決定的な一撃だった。首切りは進み、そのなかには統一左派の幹部らも多く含まれていた。混乱のなかで指導権は反共である民同に移り、8月には組合指導部を自派でかためる中央委員会の開催に成功して、左派とのたたかいに終止符をうった。
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東芝では全国44ヶ所の工場のうち、弱小の地方工場28を切り離し、米の電機メーカーGE(ゼネラル・エレクトリック)と提携して、優秀工場中心に再編成をはかる合理化計画をすすめていた。それにともない。3万人の従業員を1万6千人に減らす手はずとなっていた。切り離しの対象となった松川工場では、東芝労連の波状ストの一環として、8月17日に首切り反対の24時間スト決行を予定していた。まさにその未明、事件は起こった。
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1949年12月5日、福島地裁で第一回公判が開かれる。赤間は「警察にだまされていた。白いものは白い」と無実を訴える。
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1950年8月、福島地検は実に10人に死刑、無期懲役3人を含む重罪の求刑。
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同年12月6日、福島地裁・長尾信裁判長は5名に死刑、ほか全員を無期、懲役3年6ヶ月~15年の有罪とした。
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判決の証拠類が長尾裁判長に代わった判事によって読み続けられていた午前11時半、各被告が一斉に発言を求め、斎藤被告が「裁判長の朗読は何を言っているのか解らない。無罪にするつもりか有罪にするつもりかはっきりせよ」と述べたが、判事の発言中止に被告席は総立ちとなり、傍聴席から「インターナショナル」の歌声が起こる。裁判長の制止も聞かず合唱は続き、赤旗を振る者さえいた。この騒ぎに、判事はついに全被告の退廷を命じた。
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1953年10月26日、広津和郎ら作家9人が「公正判決要求書」を提出。これには志賀直哉、吉川英治、川端康成、武者小路実篤らが連署していた。
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同年12月22日、仙台高裁(鈴木偵次郎裁判長)では共同謀議の一部が崩れ3名だけが無罪となったが、他17名については有罪を維持する判決を下した。
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被告(当時の年齢・役割) 所属 求刑 一審 二審
佐藤一(28歳・実行者) 東芝 死刑 死刑 死刑
他の被告は省略
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ところがその後、佐藤一のアリバイとなりうる「諏訪メモ」が発見された。
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1959年8月10日、最高裁・田中耕太郎裁判長は原判決を破棄、差し戻した。
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1961年8月8日、仙台高裁・門田実裁判長は全員に無罪を言い渡した。検察側は上告。
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なおこの差し戻し審で、警察が事件現場で発見したという「自在スパナ」が捏造だったことが判明した。この自在スパナは松川駅の線路班倉庫に1丁あったもので、犯人はこれを持ち出して線路の継目部のボルト・ナットをゆるめたものとされたが、裁判所に提出されたスパナは新品同様であり、使用した風にも見えなかったし、この小型工具でボルト・ナットをゆるめることも不可能だった。
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1963年9月12日、最高裁・斎藤朔郎裁判長は上告を棄却し、全員の無罪が確定した。事件当時、”少年”と呼ばれた赤間氏も、この時には中年(当時33歳)の顔になっていた。
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同年10月11日、愛知県の農業Bが、松川事件の無罪判決に不満を持ち、「杉浦が若い者をそそのかして事件を犯したもの」として、杉浦宅に出刃包丁を持って押しかけた。押し問答の末、Bは杉浦の生活状態に同情して殺害を断念した。
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【諏訪メモのゆくえ】
毎日新聞福島支局の記者・倉島康氏は、ある日下宿近くの銭湯で斎藤千と偶然会った。
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「クラさん、おもしろい話がある。アリバイだ。松川事件で死刑になる1人の被告のアリバイが見つかりそうなんだよ」
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事件当時は長野の高校生だった倉島記者は、松川事件については詳しくは知らなかった。翌日、広津和郎の「中央公論特集 松川事件」を買い、事件の概要を調べた。そして安田覚治弁護士に会いに行くと、倉島記者が切り出す前に、1通の書類を出した。
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事件の2日前、被告らが謀議していたとされる時刻、東芝松川工場労働組合側と、東芝松川工場長ら会社側との団体交渉が工場長室で行われたが、これに東芝労連本部から派遣された佐藤一が出席していた。さらにこの交渉の経過を記したメモを会社側の事務課長補佐・諏訪某氏がとっており、弁護士の書類はそのメモの全文について報告することを求める内容だった。
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諏訪氏は事務課長補佐であると言っても、組合を相手にすることが多かった人物で、被疑者10人のうち9人まではひととおり知っていた。面識がなかったのは、断交直前に争議応援のため福島入りした佐藤一だけであった。
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佐藤一のアリバイについては、それまでにも一緒に団交していた組合員が証言したりしたが、裁判所は信用しなかった。そのためこのメモは佐藤のアリバイを証明する一番のものとされ、この内容から次の3点が主張できる。
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(1)佐藤一は列車転覆謀略が行われたと指摘されている時刻には、その場から10km離れたところで、クビ切り反対の団体交渉の出席。
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(2)佐藤一が出席していない転覆謀略は”空中楼閣”として崩れ去り、列車転覆と言う実行行為は全く不可能である。
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(3)佐藤一が団体交渉に出席していた証拠となるメモは、事件直後”その筋”が持ち去ったまま行方不明である。
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このメモは持ち主の名前から「諏訪メモ」と呼ばれるのだが、これを警察、検察が隠したものとされ、弁護団がその所在を尋ねても、返ってくるのは「知らない」という答えだった。
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諏訪メモの存在を知った倉島記者は、そのことを支局の先輩に知らせたが、どうも反応は薄かった。松川事件は「もう終わった事件」とされていたからである。
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結局、毎日新聞はこのスクープを掲載することはなく、アカハタ(日共の機関紙)、朝日新聞などに先を越されることとなった。
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朝日報道から3日後、倉島記者は検察ナンバー2の次席検事に誘われて、若手検事とともに官舎でマージャンをした。その時、倉島記者は「朝日(新聞)に出ていたね」と探りを入れると、「ああ諏訪メモね。あれはちゃんとしたところにあるんだよ」という返答があった。
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諏訪メモは、国鉄労組員、東芝労組員らが大量に逮捕された時、警察が東芝から多数押収した書類のなかにあった。福島地検はすぐにこれの領置の手続きをとて「借出し」として、松川事件捜査を担当したある検事の手にわたった。二審(仙台高裁)に進むと、メモも仙台に移されたが、「最高裁で確定したら東芝の諏訪氏に返還する」と決められていた。最高裁に上告されると、メモは福島に戻ったが、福島地検本庁ではなく、ある検事宅に保管された。
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倉島記者は各検事のところを回って探りをいれつづけた。そして4日目、検事正室に、郡山支部長の検事が来ており、次席検事を交えて密談中であることを知った。
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倉島記者は廊下の柵をのぼり、3人の姿を確認。密談を盗み聞きして、郡山支部長は「諏訪メモは昨日からここにあります」という言葉を聞いた。
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結局、倉島氏はこのことを地方版(福島版)にのみ送稿。
そして最高裁は諏訪氏にメモの提出命令を出した。
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この一記者のスクープにより、被告は無罪を勝ち取った。
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諏訪氏は事件の記録をまとめようとしたが、すでに関係者が鬼籍に入っていたり、自身の病気などのためうまく進まなかった。
諏訪氏は1946年に東芝鶴見工場から松川工場に転勤してきた。農家の離れを借りており、そこは事件現場のすぐ近くだった。
当日午前5時ごろ、母屋の主人に起こされた諏訪氏は、一緒に現場を見に行った。発生から2時間以上が経過していたが、この時には警察も到着していなかったという。機関車は横転したままで、線路脇の畦道を松川駅方面に歩いていく乗客の姿があった。現場から一番近い母屋と諏訪氏の家は、被害者・関係者のための炊き出し基地となった。
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事件の前の晩11時ごろには、現場のすぐ近くの踏み切りを母屋の主人が通ったが、白い開襟シャツを着た5、6人の男たちがたむろして話し合いをしていた。そして挨拶を交わした。これは主人と、不審な男たちが知り合いだったのではなく、知らない人でもすれ違うときに「お晩です」と挨拶を交わす習慣があったためである。
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また諏訪氏は「ある被告が、無罪が確定した後に、上司に”実際は俺たちがやったんだ”と話していた」という噂話も聞いたことがあった。
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松川事件の起こった前年(昭和23年)の4月27日午前0時4分頃、奥羽線赤岩―庭坂間で、青森発上野行402列車が走っていたところ、前の機関車と郵便車が脱線、高さ10mの土堤下に転落した。つづく貨物車と客車1両も脱線して、機関士、助士の2名が死亡した。現場付近は下り傾斜の半径300mのカーブで、付近の犬釘と非常継ぎ目板が抜き取られていた。
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1949年5月9日午前4時23分、予讃線高松桟橋駅を出た宇和島行の旅客列車が、愛媛県難波村大浦のカーブにさしかかったところ転覆。機関助士3名が死亡、乗客3名が負傷した。やはり犬釘、継ぎ目板、ボルトがはずされており、国鉄で使っていないスパナとバールが発見された。
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両事件とも松川事件と酷似しており、また迷宮入りとなっている。このことから予行演習という見方もある。
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1952年6月、英文タイプ3枚の手紙が、数人の弁護士、総評など労働組合、新聞社に送られてきた。いずれも京橋郵便局から投函され、消印は6月11日だった。
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「MURDER WILL OUT (殺しはきっとバレる)」
そう題された手紙は、次のような書き出しをしている。
「帝銀事件、下山事件の犯人はいずれも日本人ではない。松川事件についても、アメリカ人が責任者であることは疑うべくもない。これには目撃者が1人いた。彼はたまたま現場付近を通りかかった時、約12名ほどの米兵が枕木からレールをはずしているのを見た」
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目撃したのは近くに住む労働者・斎藤金作氏である。
彼らは外国兵の服装をしていたが、そのまま通りすぎる斎藤さんを1人が尾行して声をかけた。
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「今夜見たことを決して他言するな。もし他言すると軍事裁判にまわされるぞ」
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その直後、列車転覆事件は起こった。
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5日後、斎藤氏はCICから出頭命令を受けた。身の危険を感じた斎藤さんは、横浜で輪タク屋をしている弟のところに逃亡した。斎藤氏も輪タク屋をして暮らしていたのだが、ある日突如行方がわからなくなった。その数十日後、横浜市南区中村町の運河上に斎藤氏の死体が浮かび上がったのである。
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遺族が駆けつけた時には、斎藤氏はすでに火葬されていた。検視の結果、外傷はなく、胃の中にアルコールが検出されたので、警察は酔って転落したものと断定した。ただ遺体が行方不明になった直後から42日間水につかった状態とは言えず、担当した医師も「二週間ぐらいの死体だと思った」と話していた。また三輪車の発見場所も死体発見現場から遠いところだった。
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その後、見知らぬ男が、斎藤さんの弟宅を訪ね、
「兄さんの死について、決して他言せぬ方が身のためだ」
と言って、名前も言わず、10万円を置いて立ち去った。
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手紙に記された斎藤金作とは、実在の人物だった。シベリア引揚者で、帰国後日本共産党に入党した。十数戸の集落である現場近く(福島県安達郡渋川村米沢川原田)に住んでいたが、横浜の弟のところにやってきて輪タク屋をやっていたことも、51年1月12日夕方に黒人の米兵を乗せていたのを最後に行方不明になっていたことも、2月22日に水死体が発見されたことも事実だった。
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ただこの怪文書は事実と異なるところも数ヶ所あった。日付が1年早くずれていたこと、弟が死体引揚げに参加していたこと、また10万円を持ってきた男もいなかった。
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また取材を拒否し続けた斎藤氏の妻も、斎藤氏が現場で米兵を目撃したことを否定、「あの夜家にいた」と主張した。
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斎藤氏は「CICから呼び出された」と二本松市議に相談に訪れたこともあったが、それはソ連に関する情報提供を求められただけらしい。ただ幼い頃から斎藤氏を知る東京・昭島市に住む老人などは、家を訪ねてきた斎藤氏の口から、現場で不審な数人を見たということを聞いた。
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「現場で見たのは背の高い人間で、引き上げるところだったらしい。そのことがあってから、しょっちゅう警察が来た。事件を知っているのは私1人だから言わせまいとして付け回すらしい」
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ちなみに犯行に関わったとされていた高橋らは全員背が低い。
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また斎藤氏の作った最後の川柳も発見された。
「宿命の試練に泣く日笑う夜」
これは何を意味するものなのだろうか。
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斎藤氏の死は、一審で有罪判決が出された翌年のことである。もし生きていれ

ば、公判に現れて、重要な証言をすることになる。警察・検察からすれば、困った

存在となる。
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斎藤金作怪死事件は週刊朝日が報じただけで、他の新聞・雑誌では一切触れられなかった。ただ気になる点としては、斎藤氏が横浜に逃げた頃、福島地方の某新聞が「斎藤金作氏地下潜行か」という記事が載った。この当時、彼は一労働者であり、容疑者でもなかった。共産党員ではあったが、党幹部ではなかった。あのタイミングでのあの報道は不可解なものである。
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【2人の泥棒が見たものは】
1959年、大酒を飲んだ末、その席上で「俺達は松川事件の犯人を見たんだよ」と口をすべらせた男がいた。2人は泥棒稼業のMとHという人物である。この話はすぐに弁護団にも伝わり、2人はとうとう法廷に立つことになった。
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事件前夜、MとHは金谷川にある呉服店に泥棒に入ったが失敗、翌日にも又も侵入に失敗した。このため2人は別々に帰ることにした。Mは線路沿いに松川に向かって歩いていた。午前2時半頃、暗闇から3人の男が現れ、さらに黒い人影が6つ現れた。いずれも大きな男である。Mは「お晩です」と声をかけると、「今晩は」と返ってきた。土地の者ではない言葉遣いだった。Mはこの男9人の出現にこわくなり、

道端のワラ束の中に身を隠した。しばらくして、轟音を聞いた。半鐘の男で列車の

転覆を知った。
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3日後、2人は松川駅前の食堂で出会った。Mがあの夜に見たことを話すと、相棒のHもまた、「金谷川の丘の近くで9人の男を目撃した」と話した。
2人はあの男たちが松川事件の犯人に違いないと確信したが、話してしまうと何度も泥棒をしていたことがバレてしまうので、10年間沈黙を続けていた。
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【その他の怪情報】
▽山路耕之助と赤間の対決
1952年、「面白倶楽部」という雑誌に松川事件に関するある記事が掲載された。それは事件前、福島県の野地温泉で、数人の男が集まり、事件をたくらんだというものだった。
この記事には実在する、赤間の兄が登場していた。赤間と元憲兵の中心としたメンバーが会議を開き、たまたま温泉に居合わせた筆者が盗み聞きをするという内容だった。
筆者は山路耕之助という人物で、しばらくその正体がわからなかったが、本名は中村某とわかった。中村は元海軍の予備大尉で、戦争中は情報機関の仕事をしていた。
赤間はこの記事に憤慨する。ある週刊誌がお膳立てして、2人の対決の場がもうけられたが、怒る赤間ととぼける中村といった具合だった。ガセネタと思われるが、中村がなぜ赤間の兄を知っていたのかはよくわかっていない。
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▽ジョージの一言
仙台に手広く工務店を開いていたKさんという男性がいた。店にはちょっとしたきっかけでCICの人間が出入りするようになった。
1949年の暮れ、KさんがジョージというCICの兵隊とコタツに入っていた時のことである。Kさんは新聞で松川事件の一審判決の記事を読んでいた。その時、ジョージは小さな声で、
「パパさん言うな。松川事件は他の者がやったんだよ」と言った。
Kさんが「他の者がやったって、誰がやった」と尋ねると、ジョージは「パパさん、今のこと黙っていろ!」と言って向こうへ行ってしまった。ジョージはその後、Kさんの前に2度あらわれたが、音信が途絶えてしまった。これは61年ごろに流れた噂である。
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▽謎のレビュー団
松川の駅前に「松楽座」という劇場があった。事件の起こる数時間前、レビュー団の公演があったが、その一座の中に変な人物がまぎれこんでいたとの噂があった。
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そのレビュー団はもともと松楽座で公演する予定はなかった。ところが急に、県の興行界のトップだった人物からじきじきに公演の交渉があったのである。松楽座の支配人は感激して、すぐにレビューを上演するようにプログラムを変更した。
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このレビュー団の本拠地は宮崎市である。「日本少女歌劇団」という名前で、戦前は主に満州や朝鮮を巡業していた。戦後劇団は再建され、この時にCICの承認を得て、旧特高警察関係者数人が、団のボスの下に参加した。このボス自身も戦後は米軍やCICとかなり親しく付き合い、羽振りも良かった。このボスは後に興行を

やめ、東京で防衛庁関係の雑誌を出していると言われた。
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ボスは団員の数について「女子30人、男子20人」と言ってきたが、公演について歩いたシナリオライターの日記が見つかり、それには男子は13名と記されてあった。20名と13名はずいぶん差がある。これについて松川事件弁護団は追及し、1964年には国会でも取り上げられた。その時、警察庁当局は「調査では男子従業員は11名だった」と答えている。
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事件当夜、松楽座の近くに住む女性は、弁当にと、劇団からおにぎりを頼まれていたが、その数は26個であった。26個は20人でも11人でも半端である。1人2個として、やはり13名ではなかったのではないだろうか。
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【犯人からの手紙】
1958年11月、ある手紙が届いた。宛名は「東京弁護士会館内 松本善明殿」となっている。
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(1枚目)
突然のお手紙失礼致します 先日松川事件第三回口頭弁論が終わりましたが実は約十年前私達七人にて事件を起した其の一人ですが今裁判を受けてゐられる被告の方々には当時の事件以来今日迄十年本当にお気の毒と思います私達七人が自首しない為に最高裁まで裁判を持って行かれましたが私達の自首する日が近づいて来ました■■又、最高裁の成行きを私達は今守って見て居りますのでどうか其れ迄現被告の方々に申し譯御座居ま也んが頑張って下さい私達と、かはって晴れる日が近い日に来ます、其れ迄私達七人を社会に置いて下さい
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私達七人の内三人は名古屋、二人は前橋、二人は岡山に現在います鉄道関係、東芝工場関係はぜんぜん関係ありません(諏訪メモ)で対立して居ますが其も関係ありま也んので私達七人を代表してお知らせします―――
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(2枚目)
私達七人は弁護側、又起訴した検察側又最高裁も重大な責任があり、私達は現犯人なので現在裁判に関係してゐるどれにも、私達は賛成しておりま也ん又、最高裁も一審二審とならって判決を下そうとしております、起訴しました無実の被告を裁判にかけた検察側が一番重大な責任があり、被告を受け持つ弁護側も、あっけないところがあると思います私達七人が現、社会にいるとしらず、回覧で事実調べを終わるなど、最高裁も私達七人にいは也れば、あっけない最高裁と思います、私達は福島列車転覆事件を実際にやった私達今、被告として裁判に付されている方々本当に申し譯なく思います、私達七人が自首する迄もう外のこと思はず気を大きく持つ日を送ってほしいものです勿論事件にはたしかに道具はつかっておりますが出所については自首して後に致します事件には当時の共産係二名に関係して居りますので自首するまで申也られませんが自首後申すことに致します.
私達が自首しない為にこのような最高裁判になった結果について日本人として本当に私達七人は申し譯なくおもいますどうか、七人が自首する迄お詫びいたします

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(3枚目)
松本弁護人様へ 私達は突然お手紙をだす事に七人で致しましたので十年後の今日松本様へ私たちが犯人であることを自首し現在の被告の方々には本当に申し譯なく詫びる気持ちで一杯です、だが私達は、今最高裁の出方を見守って自首する日をきめております、無罪である現被告を起訴した検察側、また私にいわせれば弁護側にも幾分の手おちがもありいずれにしても私達が自首する迄どうか現被告の弁護をお願ゐします、自首する日は二日前に手紙にて松本様にお知らせすると共に弁護人十数人をともなって、お公い致します、それ迄宜しく
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住所は自首するまでそのままにしておいて下さい
日本人として正しく裁かれる日を待つ日、近く自首する私達七人に栄あれ
十一月十六日 日曜日
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※封筒の裏面には「愛知県名古屋市熱田区丸高出」とあった。
※誤字などはママ。「せ」の字は「也」という漢字に見える。
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「共産係」という言葉は、日本の警察や公安調査庁では使用しないものである。これはCICが占領当時に「引揚者係、労組係、共産党係」といったもののひとつである。こうしたことからCICの下で働いている人物が疑われる。
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MとHが目撃した人数を公に発表したのが60年、レビュー団の調査を始めたのが1965年頃である。すなわちこの手紙はそうした情報を参考にして書かれたものでないことがわかる。弁護団はこの手紙について調査を開始。まず差出人のところの丸高出」という箇所を調べたが、熱田区に該当する苗字はない。会社や商店に「丸高」という名のつくところが2、3あったが、そこの経営者・従業員もすべて調べられた。
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消印には「昭和局」というスタンプが押されてあった。昭和局は1958年当時、名古屋市に実在し、熱田区と瑞穂区の郵便物を扱っていたことがわかった。さらに58年の区域改正によって、熱田区の一部は瑞穂区に編入されていた。
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調査範囲は狭まったのだが、ここである疑問が浮上した。長く名古屋市に住んでいる人間が自分の住所を書くときに、わざわざ「愛知県名古屋市」と書くのかというものである。余所者という可能性も十分にあった。
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「丸高」に関係するものでは、「丸高旅館」の支配人の机の上に、「Tドック」のある人物の名刺があるのが発見された。「Tドック」とあのレビュー団はつながりがないわけではなかった。
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松楽座でレビュー団の公演をする際、その背後にいた福島興行界のボス・Kと、Tドック塩釜工場の工場長Nは親密な関係だという情報があったのである。Kの弟分は、Tドック争議の時に、Nの配下に入り、またKの女婿はTドックの社員だった。
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Kは松川裁判をよく傍聴していた。臨終の時には「松川のことは某刑事にでも聞いてくれ」と言い残して亡くなったとも伝えられている。この話が事実だとすれば、「レビュー団―Tドック―丸高(手紙)」のラインは成立する。この手紙は、全員に無罪が言い渡された1963年9月12日午後、日比谷の松本桜の記者会見で、弁護団から公表された。だがこの手紙は翌日の新聞などで大々的に報じられることもなく、一、二の週刊誌が取り上げただけだった。
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【松川事件と出版ジャーナリズム】
一審で有罪判決が出た当時、共産党系と労組系の機関紙以外のほとんどのマスコミは警察発表のとおりに報道し、被告たちから真相を訴える手段はミニコミしかなかった。
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1951年11月、被告の手記、詩歌を中心にした文集「真実は壁を透して」(月曜書房)が発行された。これは広津氏が松川事件に取り組むきっかけとなった。
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1952年2月、人生雑誌「葦」が別冊の松川事件特集を発行、「中央公論」も同年3月号で特集、53年には「世界」も特集し、一石を投じた。
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二審判決を前として、警察の誘導、でっち上げられた自白を唯一の証拠とする一審判決批判は続いた。「改造 53年5月臨時増刊号」で広津和郎、9月号には吉岡達夫、「文芸春秋 10~11月号」に宇野浩二、「中央公論 10月号」に広津和郎が執筆。「世界 11月号」が再び特集を組み、「婦人画報」も12月号で批判に加わった。
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二審判決後もこの動きは広がり、「法律時報」「婦人公論」「婦人生活」「文芸」「新潮」「小説公園」「文学界」が批判に加わる。特に 広津和郎が「中央公論」に1954年4月号から4年半にわたって連載した裁判批判であった。20人の被告を救ったのは広津和郎氏や、諏訪メモを発見した新聞記者だけでなく、何百万の人々による支援活動だったともされる。
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娘でやはり作家の桃子さんの著書「父 広津和郎」によると、広津氏は自分のことを「なまけ者」と呼んで、よく寝る人物であった。だが興味があることをとなると、急に起き上がって熱心に調べ始める。松川裁判では、文学者としての姿勢を捨て(この間、ほとんど小説を書いていない)、また文学的推理や想像も排除して、裁判記録からの科学的な分析を貫いた。
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松本清張氏も、広津氏の取り組みについて次のように書いた。
「無罪を確信することは、あるいはだれでも容易であろう。しかし、作家がこれを文章にして執拗に世に訴えることはかならずしも容易でない。ことに、この時期まで松川無罪を叫んでいた外部は共産党関係ばかりだった。世間の誤解を恐れない、よほどの勇気を必要とする」(『社会評論集』より)
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【被告団を除名された佐藤一】
佐藤一氏は1965年8月に結婚した。妻は作家・三宅艶子の一人娘だった。当時、佐藤氏は「下山事件研究会」の事務局員として食うや食わずの生活をしていたが、妻もフリーライターとして働き、夫の取材費や研究費を稼いでいた。
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1969年、そんな夫妻のもとに一通の手紙が届けられた。それは「松川事件被告団除名」の通知書だった。佐藤氏は無罪確定後、日本共産党から雑誌「前衛」編集部に来いと言われた、刑事補償を使い切るまで冤罪事件を調べるために、これを断っていた。共産党側から求められたほどの男が、なぜ除名を通達されたのか。
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それは佐藤氏の所属する「下山事件研究会」が、徐々に「総裁他殺説」でなく、「自殺説」を開陳し始めたからだった。佐藤氏は下山事件も、松川事件と同じく謀略であったと思って研究を開始したのだが、自分で調べれば調べるほど、「自殺以外にない」と考えるようになった。つまり共産党は、「謀殺説」をとる党と考えの違う人間を「被告団」に入れておくわけにはいかない、と考えたのである。
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結局、佐藤氏はこの直後、離党届を提出。以後、冤罪研究を、妻の支えを受けながら続け、下山事件、松川事件、島田事件、狭山事件に関する信頼のおける著作を残した。2009年6月、佐藤氏は心筋梗塞で亡くなっている。享年87。
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防衛省:島嶼の水際部・地雷処理装置を開発へ!

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水陸両用車から処理用大型ロケット弾発射!
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防衛省は今年度から、占拠された島嶼の水際部に敵が敷設した水際地雷を処理し、部隊が上陸できるようにする水際障害処理装置の開発を開始する。これは帯状の爆薬をロケットで投射して、地雷原の一部を爆破し、通路を確保する92式地雷原処理車の技術を応用し、水陸両用車にこのシステムを搭載・運用することで、水際地雷を爆破し、上陸路を確保しようとするもの。
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開発期間は試験を含めて5ヵ年を見込み、2021年度までに試作完了、2022年度までに試験完了を目指す。
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水際地雷の処理方法として、処理要員が危険を冒して処理する、航空機から精密誘導爆弾を投下する、艦艇から艦載砲で射撃するなどの方法も想定はできる。しかし、人員によるのは危険性と所要時間が多くかかることから取るべきでなく、爆撃および砲撃は均一に地雷原を処理できず、投入できる航空機、艦艇、弾薬数など費用対効果の点でも得策ではなく、専用の装置の開発が必要だとして2018年度の予算
化が認められた。
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開発要素としては、海上で停泊した水陸両用車から処理弾(大型ロケット弾)を精度よく弾着させるための技術、水際部に構成された地雷原を爆破するための爆索(帯状の爆薬)の技術を確立することが挙げられている。
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なお、このような装備は海外にもなく、既存の92式地雷原処理車の技術を活かして開発の効率化も期待されるという。
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JR東労組・JR総連:旧国鉄三大事件と重なる影(2)!

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三鷹事件・1949年(昭和24年)7月15日!
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昭和24年に起きた連続鉄道事件。
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日本国有鉄道中央本線三鷹駅構内にて、無人列車が暴走し、脱線転覆しながら線路沿いの商店街に突っ込んだ事件です。
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6人の死亡者と、20人の負傷者が出た大事件として報道された。
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ストライキによる国家革命のため犯行が行われたと言われているが、犯人のアリバイや動機などに不明点が多く、国鉄労働組合員11人が起訴され、1人の非共産党員に死刑判決が言い渡された。
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轢死体で発見された下山国鉄総裁、共産党陰謀論の三鷹駅での脱線転覆。
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それぞれの事件にまつわる不思議を列挙する。まずは7月5日朝、国鉄総裁に就任して間もない下山定則は、午前8時20分頃に大田区上池台の自宅を公用車で出た。途中運転手に一旦は日本橋三越に行くよう指示するものの、東京駅前の白木屋、千代田銀行等複雑なルートを廻り、最終的には三越前で停車。「5分で戻る」と言い残したまま失踪する。結果、先に述べたように翌未明綾瀬付近にて轢死体で発見されるわけだが、遺体と現場にはほとんど血液が確認されず、他所で殺害された後に遺棄されたのではないかと推測された。しかも5日午後には東武伊勢崎線五反野駅近くの旅館に滞在した等、不自然なほどに目撃情報も多い(よって松本清張はここでの下山は謀略犯による替玉であろうと推理している)。
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三鷹事件
1949年(昭和24年)7月15日
東京都北多摩郡三鷹町(現・三鷹市)と武蔵野市にまたがる日本国有鉄道中央本線三鷹駅構内で起きた無人列車暴走事件。
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「三鷹事件」に関しては事故直後、まだ何の詳細も明らかでないうちに、現場近く、それと、隣の吉祥寺駅で停車を余儀なくされた列車内にて、「共産党がやった、こいつは共産党のしわざだぞ!」と吹聴して廻る謎の人物が複数目撃された。さらに暴走列車は駅舎東隣に位置する駅前交番を完全に崩壊させたが、当時勤務していた四人の巡査は全員無事であった。故に官憲はあらかじめ事故が起きるのを知っていたのではと訝る声もあった。同様、「松川事件」に於いては18才の少年が逮捕されるわけだが、それは事件前に彼が「近々、汽車の転覆がある」と予言めいた発言をしていたことから嫌疑をかけられたのだ。
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復興とやがて訪れる高度経済成長の象徴たる鉄道
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片島紀男(当時NHKディレクター)による全518ページに及ぶ大著『三鷹事件・1949年夏に何が起きたのか』は、片島自身による次のような回想から始まっている。
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「近くの線路は子供たちの遊び場だった。踏切番の眼を盗んでは線路の上に釘を置き、列車の車輪に轢かせてはやじりを作ったりしていた──」
1940年生まれの片島は、空襲の悪化と共に父の郷里へ疎開していたが、終戦後しばらくして東京は北区東十条へと戻る。小学校3年生だった。その頃の記憶である。
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線路に耳を当てると遠くからやってくる列車の車輪の音がする。子供たちはその音に胸をときめかせながらも、同時に時折線路際で藁の蓙(ござ)に覆われた轢死体を眼にする。線路には真っ白な米粒が糸状になって落ち、それに沿って人間の肉片も連なっていた。おそらく闇米の買い出しの途中警察の手入れがあり、逃げだそうと飛び降りた者が車輪に巻き込まれて死んだのだろう。駅近くの闇市には赤ら顔の進駐軍兵士がたむろし、同級生には「パンパン(街娼)」の娘もいた。
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復興とやがて訪れる高度経済成長の象徴たる鉄道と、その裏側にあった戦後の闇が表裏一体、見事に示唆された一文である。
そんな連合国軍占領期の1949年(昭和24年)夏、三つの大きな事件が発生する。
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まずは同年7月5日朝、国鉄総裁下山定則が出勤途中に失踪し、翌6日未明、常磐線の北千住ー綾瀬駅間で轢死体となって発見された、これが通称「下山事件」。
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その10日後の7月15日。今度は国鉄中央線・三鷹電車区構内に滞留していた7両編成の無人電車が突然動き出し、三鷹駅下り一番線に向かって暴走。死者6名、負傷者20名を出す大惨事が起きた「三鷹事件」。
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8月17日未明、東北本線松川ー金谷川駅間で故意にレールが外され、先頭の蒸気機関車が脱線転覆。乗務員3名が死亡した「松川事件」。これらを総称し、「国鉄三大ミステリー事件」と呼ばれる。
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「下山事件」、元運輸次官にして国鉄初代総裁山下の死。結局最後まで他殺か自殺かは不明のまま迷宮入りとなった。
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「三鷹事件」も6名の死者を出し、容疑者とされた元運転士の竹内景助(当時28才)は一貫して無罪を主張しながらも1955年に死刑が確定。さらに竹内は67年脳腫瘍のため45才の若さで獄死した。
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「松川事件」では元国鉄線路工の少年(当時18才)が傷害罪で別件逮捕され、少年の自供により20名の逮捕者が出たが、最終的には最高裁で全員の無罪が確定。これも真犯人は割り出されないまま未解決事件となっている。
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これらの事件の背景には、当時の国鉄が占領軍から迫られた、約10万人に近いとされた空前絶後の人員整理がある。当然の如くそれに抵抗したのが国鉄労働組合であり、同じく日本共産党の強い影響下にあったた東芝松川工場を始め日本全国の労働組合である。終戦直後は戦中の軍国主義から脱却させるため、日本の民主化を強く進めていたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)だったが、1949年1月、中国人民解放軍が北京に人民政府を樹立させた頃から旗色が悪くなる。表向きは「ドッジライン」に象徴される日本国内の経済的安定、それに伴う合理化とされたが、いざ中国大陸及び朝鮮半島に於いて紛争が起こった場合(実際、翌年には朝鮮戦争が勃発)、軍の物資輸送には鉄道が不可欠であり、国鉄内の共産党思想を無理矢理にでも排除する必要があった。いわゆるレッドパージである。
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そこで多くの作家・文化人、特に松本清張は背景に連合国軍の中心的存在、アメリカのCIC(防諜部隊)が事件に関わったと推理した。しかし、結局のところ今となってはその真偽も藪の中である。多くの人命が失われ、命は落とさずとも深く傷ついた者が多かったのは紛れもない事実。無罪を訴えながら死んでいった「三鷹事件」の被告・竹内景助最後の言葉は「くやしいヨ!」だったという。
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国鉄が人員整理を起こそうとしていたことから、人員整理に反対する国鉄労組による犯行という観点から捜査が進められた。

下山事件では下山総裁が自殺なのか他殺なのかが争点になった。死体が生体轢断(自殺の根拠)か死後轢断(他殺の根拠)かで大きな争点となった。捜査一課は自殺説を主張、警視庁捜査二課が他殺説を主張した。最終的には他殺説及び自殺説について公式の捜査結果を発表することなく捜査を打ち切った。
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三鷹事件では国鉄労働組合員11人が起訴された。裁判では10人の共産党員に無罪判決が出て1人の非共産党員に死刑判決が確定した。
松川事件では国鉄労働組合員10人と東芝松川工場労働組合員10人の計20人が起訴された。裁判ではアリバイが成立して全員の無罪判決が確定した。
これらの三事件では、「GHQが事件を起こし国鉄労組や共産党に罪をなすりつけて、人員整理をしやすくした」とする陰謀論が存在する。1人の有罪が確定した三鷹事件もアリバイの存在や供述の変遷などから、冤罪疑惑が指摘されており、獄死した元死刑囚の家族により再審申し立てがされている。
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この三大事件には、まさに「ミステリー」と呼ぶにふさわしい背景と空気感が存在する。その未解決事件の謎に引き寄せられて、松本清張の傑作ノンフィクション『日本の黒い霧』、矢田喜美雄の『謀殺・下山事件』。映画では山本薩夫監督による『松川事件』。NHK の片島紀男によるTVドキュメンタリー『戦後史の謎・三鷹事件』。近年でもオウム事件の取材でも知られる森達也による『下山事件(シモヤマ・ケース)』等、多くの謎解きが試まれている。
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これらの作品、特に文献に触れていると、我々はまるで黒澤明による同年公開の映画『野良犬』、あの画面の内側へ引きずり込まれたような錯覚に囚われる。夏、ねっとりと絡みつくような熱気と湿気。暗いコンクリートの駅構内、鉄錆の匂いの線路脇、闇市の人ごみ、進駐軍兵士のかけたレイバンのサングラス。復興していこうとする国家と未だ根強く残る貧困、差別。そこに入り込んで来る嫉妬と謀略。すべてがモノクロームの陰影に包まれた、暗黒サスペンスの世界である。
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日本の政治経済最大の事件「国鉄・民営化」暗闘の20年を追う経営、労組、そして政治……(より転載)
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牧 久(ジャーナリスト)
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荒れるきっかけを作ったのは…

―昭和62(1987)年3月31日をもって分割・民営化され、JRに生まれ変わった「日本国有鉄道」。『昭和解体』は、その解体に至るまでの20年間に、国鉄経営陣や労働組合、政治家や財界人が水面下で繰り広げた「暗闘」を克明に描いています。
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私は、国鉄の分割・民営化は戦後の日本における最大の「政治経済事件」だと考えています。ピーク時に60万もの人員を抱えた企業体は、日本においては国鉄しかありませんし、それほどの巨大組織が解体されたことで、社会は大きく変わった。
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では、この「事件」はいかにして起こったのか。これまで、当事者たちがそれぞれの立場から発言した記録は残っていますが、俯瞰して全体像を示すものがなかった。そこで本書では、国鉄経営陣や労組関係者、政治家の証言や未公開の資料をもとに、客観的な史実を示そうと考えたんです。
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―国鉄解体に向けての起点は昭和42年だと分析されています。
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その年に国鉄は累積赤字に陥り「公共企業体としては最悪の状態」と言われました。赤字解消のため、国鉄当局は「5万人の合理化計画」を発表。従来、国鉄の機関車は「機関士」と「機関助士」のふたりが乗務していましたが、これを機関士のみの「ひとり乗務」に切り替えようとしたんです。
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これに対して国鉄動力車労働組合(動労)や国鉄労働組合(国労)が猛反発し、ストライキに突入。彼らはスト解除の見返りに「ひとり乗務」の先送りと、後に禍根を残す「現場協議制度の確立」を勝ち取りました。
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―現場協議制度とは、「駅単位」や「保線区単位」といった末端レベルで、労働条件に関する協定を結ぶ制度でした。
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導入以降、全国の国鉄で駅長などの「管理者」を組合員がつるし上げる光景が繰り広げられるようになりました。組合員らは駅長のネクタイを引っ張ったり、腹を小突いたりしながら「この作業には手当をつけろ」とか「ヤミの出張手当を認めよ」などの要求をした。(※本紙注釈・関西における生コン業界の関西生コン、運輸一般の連帯ユニオンなどの実力行使も良く似た騒動を起こしている)
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これを管理者が受け入れてしまったため、職場環境は荒れ、様々な手当が乱発された。国鉄当局の「管理権」が失われる事態となったのです。
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―そうした状況を改善すべく、国鉄当局は「生産性向上運動」(通称・マル生)を導入します。
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マル生とは、全国の現場管理者を集め「労使協調して生産性を向上させる」ための研修を行うというものです。しかし実態は職員の「労組脱退」を促す内容でした。
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当初、マル生の効果は絶大で、国労・動労合わせて1ヵ月平均3000~5000人もの脱退者が続出しました。慌てた労組はマスコミに窮状を訴えることで反撃し、新聞各紙に「国鉄当局は昇給をエサに労組を切り崩している」などの批判記事が出た。(※本紙注釈・JR総連、JR東労組が2月のスト予告した事で、加入組合員が嫌気をし3万3000人もの脱退者が出たのは、当時とは経済事情が違うのが労組幹部の誤算だったろう)
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さらに水戸管理局の能力開発課長が「知恵を絞って不当労働行為(労働者の団結権を侵害する行為)をやれ」と発言したことが明るみに出て、国民の批判を招く事態ととなった。
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―その結果、国鉄当局はマル生を中止。勢いづいた労組はさらに様々な要求を突き付けます。
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とりわけ驚くのは「昇職・昇格基準の設定」を組合に渡してしまったことです。従来、国鉄では勤務成績や職務能力によって昇格を決めていました。しかし、組合の要求により、能力に関係なく、勤続年数で自動的に昇職・昇格者を決めることになってしまった。結果、職員の間に「働いても働かなくても給料は同じ」という風潮が蔓延することになったのです。
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―混乱を受け、政界から「国鉄分割・民営化」を求める声が上がります。
その中心となったのは、昭和55年に発足した鈴木善幸内閣で、行政管理庁長官に就任した中曽根康弘氏でした。
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当時の国労は、20名程度の代議士を国会に送り込むだけの票を持ち、社会党を支持していた。そこで中曽根氏は「労組を潰すことができれば社会党を崩壊させることができる」と考えたのです。そして土光敏夫・経団連名誉会長をトップに据えた「第2次臨時行政調査会」を発足させ、国鉄の分割・民営化の論議が本格的にスタートしました。
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―国鉄内部からも、後にJR各社の社長となる井手正敬、葛西敬之、松田昌士といった改革を志す若手職員が台頭します。
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井手氏ら3人は、採用年次も歩んできたキャリアも異なりますが、共通するのは地方管理局に勤務したことです。彼らは現場に出て、人事権までも組合が握っていることを知り、改革を志した。国鉄当局の中で分割に反対する「国体護持派」は、彼らを中国で文化大革命を主導した「四人組」になぞらえて「三人組」と呼び、国鉄に弓を引く反逆者とみなしていました。
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しかし三人組に共鳴する若手職員は次第に増え、昭和60年には総勢20名が「抜本的な国鉄改革の方法は分割・民営化しかない」とする「決起趣意書」に署名しました。明治維新では薩長の下級武士が決起しましたが、同じようなことが国鉄でも起こっていたのです。
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―各人各様の思惑が絡んだ結果、国鉄は解体。30年が経った今、分割・民営化をどう評しますか。
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民間企業になったおかげで、サービスは格段に良くなりました。列車が滞りなく動くのはもちろん、「エキナカ」と言われる駅構内の商業スペースは充実しているし、トイレもきれいになった(笑)。
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ただ、民営化の恩恵を受けたのは本州の東、西、東海だけで、北海道や四国は苦戦が続いている。分割・民営化はいまだ「道半ば」だと思います。

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つづく
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maneoマーケット:監視委が処分勧告!

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小口資金集め・融資を仲介!
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流用額10億円以上・流用見抜けず!
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証券取引等監視委員会は7月6日、ネット経由で小口資金を集めて融資を仲介するソーシャルレンディング最大手「maneoマーケット」(東京・千代田)を行政処分するよう金融庁に勧告したと発表した。自然エネルギー関連事業に融資するとしてお金を集めながら、実際は融資先企業の増資など説明と異なる目的に流用されていた。流用額は少なくとも10億円以上にのぼるという。
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maneoは依頼を受けて、自然エネルギー関連事業への投資資金を募集。年11~14%という高い利回りをうたって、3084人から約130億円を集めた。ただ検査したところ、実際はmaneoに資金募集を依頼した「グリーンインフラレンディング社」のグループ会社への増資など、募集時の説明と異なる目的で使われていることが発覚した。
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現時点で償還が滞るなどの実害は出ていないというが、投資資金が焦げ付くおそれがあるという。maneoは資金使途を把握する義務を負っているが、管理態勢を構築しておらず、不正な流用を見過ごす結果となった。このため監視委は金融商品取引法に基づいて金融庁に処分勧告をした。
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証券取引等監視委員会は6日、ネット経由で融資を仲介するソーシャルレンディング最大手のmaneoマーケット(東京・千代田)を行政処分するよう金融庁に勧告した。募集時の説明と異なる目的に流用されたのを見過ごすなど、管理体制に重大な不備があったため。流用額は少なくとも10億円以上で、焦げ付くおそれがあるという。
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インターネットを使う金融サービスは新たな担い手が登場している。ただ仮想通貨交換業者と同様、急激な市場の拡大に体制整備が追いついておらず、ずさんな運営実態が浮き彫りになった。
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maneoはファンド運営業者から依頼を受け、ネット上で投資資金を募る。ホームページ上に事業の概略や利回りなどの条件を載せ、投資家を集めて業者に仲介する役割を担っている。監視委が問題視したのは「グリーンインフラレンディング」という運営業者による多額の不正流用を見過ごしていたことだ。
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maneoはグリーン社の依頼で、北海道での太陽光発電やスリランカでの水力発電事業への融資名目で年利11~14%で投資家を募集。3084人から約130億円を集め同社に仲介した。だが実際には同社はグループ会社の増資など事前の説明と異なる目的に集めた資金を流用していた。
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本来はmaneoがグリーン社の資金管理の実態や資金使途を把握する義務を負う。体制が不十分だったmaneoは6日、「業務運営体制のより一層の強化に取り組む」とのコメントを発表した。グリーン社は自己資金と投資家から集めたお金を分けて管理しておらず、焦げ付きが発生する可能性がある。
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ソーシャルレンディングは高い利回りとネット上で資金調達できる便利さから、急速に普及してきた。富士キメラ総研によると2016年に650億円だった融資額は17年に1330億円に倍増。22年には9000億円規模に膨らむと試算している。ただ最大手のmaneo以外にも、すでに3社が業務改善命令や業務停止命令を受けている構図は仮想通貨交換業者と重なる。
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今回、監視委の処分勧告の対象はmaneoだが、これは実際に資金流用したグリーン社の先にいるグループ企業に検査・監督権限が及ばないことの裏返しでもある。多額の資金を簡単に集められるのに、中間に複数の会社を絡ませれば規制の網をすり抜けることができる。
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フィンテックは伝統的な金融機関以外のプレーヤーが入ることで、安くて利便性の高いサービスにつなげることをめざしている。一方で金融機関であるという自覚がないままに多額の資金を集めたり、預かったりしている例が多い。とくに内部管理体制の構築には多くの課題を抱えている。
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フィンテックの普及に新興勢力の登場は欠かせないが、急速な拡大の裏で、ひずみも大きくなっている。
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高松市新病院工事:高落札率を再三指摘・入札監視委!

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15~17年度・9会合のうち4会合で指摘!
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予定価格の事前公表を今年度から事後公表に!
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外部有識者でつくる高松市入札監視委員会が2015~17年度に開かれた9回の会合のうち4回で、市発注の公共工事の落札率が高いと問題視していたことが分かった。市は入札の際に予定価格を事前に公表していたが、落札率の高止まりを招いているとして、今年度から建築工事で入札後に公表する制度を試し始めた。
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予定価格は、工事を発注する自治体などが工事内容などを基に事前に設定する見積価格で落札額の上限になる。入札で上回ると失格になるが、落札額が予定価格に近いほど業者の利益は大きい。一方で発注者側は、品質が維持できる範囲内でなるべく安く請け負ってくれる業者との契約を望む。
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入札前に予定価格を明らかにすると、予定価格が目安となり競争が制限され、落札価格が高止まりする▽業者の積算努力を損なわせる▽談合につながる--などの弊害が生じるとされる。こうした観点から国土交通省は14年9月、予定価格を事前に公表しないとする指針を出している。
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これに対し、高松市は今年3月まで、予定価格が3000万円を超える工事や設計については事前に公表していた。16年度の平均落札率は土木一式工事が88・60%、建築一式工事が92・73%だった。
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市の入札監視委員会(委員長=大西均公認会計士)はこうした現状を問題視。議事録によると、17年度までの3年間に開かれた9回の委員会のうち4回で、抽出した計6件の入札結果の高落札率について取り上げた。16年2月の委員会では、準大手ゼネコンと地元建設会社による共同企業体が15年に79億6500万円(落札率99・80%)で落札した「高松市新病院(仮称)新築工事」について、「落札率が非常に高い」と指摘。この入札に応札したのが1者だけだった理由も担当課に尋ねた。
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入札監視委の再三の質問を受け、市は今年4月から予定価格が1億円以上の建築一式工事について予定価格を入札後に公表するようにした。今後、落札率の推移をみて本格導入するか検討するという。
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ただ、事後公表にも課題はある。予定価格を探ろうとする悪質な業者が職員への接触を図る中で、贈収賄事件に発展する恐れが指摘されている。業者が入札額を見誤って入札不調が生じ、工期に遅れが出る懸念もあるという。
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高松市では18年度も市立高松第一高校の校舎改築工事など大型案件が控える。
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市契約監理課の森田大介課長は「市の財政状況は厳しい。予定価格を事後公表にすることで落札率の低減を図りたい」と話している。
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自治体が発注する公共工事の入札に関し、落札額の上限となる予定価格をどのタイミングで公表するのか--。高松市を除く7市と県に聞いたところ、事前公表が5自治体、事後公表が3自治体と対応が分かれた。
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事前に公表しているのは、県と丸亀▽善通寺▽観音寺▽三豊の4市。入札の透明性の確保や過度な価格競争による工事の品質低下、業者と職員の癒着を避けることを理由に挙げた。三豊市は電子入札制度の導入に伴う入札不調を減らす目的で、2017年度から事前公表に変更したという。
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一方、坂出▽さぬき▽東かがわの3市は事後公表。競争性の確保が目的で、坂出市総務課は「事前公表だと予定価格の近くに(入札額が)集まる」と指摘する。業者との関係について、さぬき市管財課は「気を付けるように指導している」という。
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県建設業協会の担当者は「業者にもいろいろな考え方があり、協会として事前公表と事後公表のどちらが望ましいかは言えない」と話している。
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<2015~17年度に高松市入札監視委員会が問題視した入札結果>
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15年03月
牟礼町口径150㎜配水管布設工事の実施設計業務委託  864万円 96.48%
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15年11月 栗林小学校改築・機械設備工事 6億9638万4000円 99.88%
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15年12月 高松市新病院(仮称)新築工事   79億6500万円 99.80%
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17年03月 高松市水道資料館耐震補強等工事  2億6352万円 99.80%
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17年03月 東部下水処理場ホッパ増設工事(機械設備)1億4148万円 99.77%
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17年05月 香南町北部団地建設工事(1期) 2億4008万4000円 98.49%
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※落札金額は税込み
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<新病院は73億7500万円(税別) 西松・合田JV>

2015年~3年分の落札PDF  18.07.10 takamatu-rakusatu.pdf
建築:73億7500万円(税別)西松建設四国支店(高松市)・合田工務店(高松市)JV
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機械設備:35億9000万円(同)ダイダン四国支店(高松市)・雉鳥工業(高松市)・太善工業(高松市)JV
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電気設備:20億1000万円(同)四電工(高松市)・讃州電気工事(高松市)JV
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<2015年度~2018年度 一般競争入札結果>



大阪市上下水道工事:産廃マニフェスト・偽造疑い!

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産廃管理票の約6割に疑い!
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書類偽造で市が本格調査へ!
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大阪市は7月4日、市発注の上下水道工事で、産業廃棄物を適切に処理したことを示す管理票「マニフェスト」が偽造され、市に提出された疑いがあると発表した。

毎日新聞の指摘で市が今年5~6月、2016年度に終了した工事の業者から抽出で聞き取り調査したところ、約6割に偽造の疑いがあることがわかった。不法投棄などが行われた可能性があり、今後詳しい調査を行う。
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産廃処理が適切に行われていなかった可能性があり、市は今後、業者への立ち入り調査を実施し、廃棄物処理法違反容疑での刑事告発も検討する。
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道路を掘削する際に出るアスファルトやコンクリート片は産廃となる。
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市によると偽造の疑いがある書類は、適正に産廃物を処理したことを示すための7枚つづりの複写式伝票。通常は元請けや収集運搬、処分の各業者が同じ内容のものを保管している。
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4月に外部からの情報提供を受け、平成28年度の市発注工事の伝票計5万5千枚から抽出調査をしたところ、550枚のうち316枚で偽造の疑いが見つかった。伝票に記載された処理業者の名前が異なるなど、不自然な点が見られたという。偽造の内容は伝票に記載された業者が実際には処分に関わっていないなどで、不適正な方法で産廃物が処理された可能性があるとみられる。
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大阪市は5日までに、市発注の水道管の入れ替え工事で、産業廃棄物を適切に処理したことを示す管理伝票が偽造された疑いがあると発表した。業者が処理費用を過大に請求し不正に利益を得ていた可能性があり、市は刑事告発も視野に調査を進める。市は産廃が市指定の方法で適切に処理されず、不法投棄された疑いもあるとみている。複数の業者が関与しており、市は16年度に完了した工事計221件を調べる。
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産廃物処理をめぐる書類偽造は6月に堺市でも判明している。大阪市は廃棄物処理法違反での告発も視野に業者への調査を進める方針。大阪市発注の水道工事を巡っては、工事の埋め戻し材に、市が指定していない安価な資材を使う不正が相次いで発覚しており、市は弁護士らによる監査チームで調査を続けている。
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JR東労組・JR総連:旧国鉄三大事件と重なる影!

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故松嵜明の原点に帰るという言葉!
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JR総連、JR東労組や北鉄労などの中心にいる革命分子の労組員が、鉄道を麻痺させようと企んだ本年2月。世の中、一見静かそうに見えるが、裏では世を騒然とさせようとしている連中がいるのも事実だ。
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このような労働争議が起きようとしていても、一般国民は気づきもしない。最近は、地震、津波で鉄道やインフラがストップし、止まるという不便さに慣れてしまったのだろうか。かえって、怖いような気がする。
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騒然とする鉄道と言えば、
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国鉄三大ミステリー事件と言うのが戦後間もなく、日本が連合国軍の占領下にあった1949年の夏に相次いで発生した、日本国有鉄道にまつわる真相に謎が残る三つの事件のこと。
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国鉄総裁、謎の死「下山事件」!
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昭和24年、まだ日本が連合国の支配下にいたころの事件。
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当時国鉄の総裁に就任したばかりだった下山定則が通勤途中に失踪し、翌日死体で発見された事件。
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機関車による轢断は生前か死後か、遺体に大量付着していたヌカ油はなんなのか、激しい議論が沸き起こりました。
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捜査一課は「自殺説」を主張し、警視庁捜査二課は「他殺説」を主張していましたが、最終的に警視庁は正式な捜査結果を発表しないまま、捜査を打ち切りました。
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無人列車が暴走!多数の死者と負傷者が出た「三鷹事件」
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故意にレールが外され、列車が脱線!「松川事件」
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これら3つの事件を総称して、旧国鉄三大事件という。
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下山事件
1949年(昭和24年)7月5日
日本国有鉄道初代総裁・下山定則が出勤途中に失踪、翌日未明に死体となって発見された事件。
戦後日本で起きた怪事件の数々。その背後には、当時日本を占領していた米国・GHQが陰謀の限りを尽くし暗躍する姿があった。
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国鉄の下山定則総裁が登庁途中に三越本店に入り、そのまま行方不明になった。

翌6日、東京都足立区綾瀬の常磐線線路上で、れき死体で発見された。6日は国鉄の3万人以上の第1次人員整理案発表予定日で、政府は「他殺と推定」との公式見解を発表した。警視庁は自殺説をとったが、遺体を鑑定した古畑種基東大医学部教授は「死後れき断」を主張した。占領軍政下の謀略事件とする説もあるが真相は不明。
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線路に散乱した総裁の遺体は、陰惨なものだった。饒舌だった下山定則。この人は、歴史に対して自らの死因すら説明しないまま、この世を去ってしまった。
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「戦後史最大の謎」と呼ばれる下山事件は、その沈黙から始まっている。社会に自殺・他殺論争を巻き起こし、以後半世紀にわたって数え切れないほどの主張がメディアで展開されてきた。にもかかわらず、いまだ誰もが納得する答は出ていない。
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「下山事件」とは
昭和24(1949)年7月5日、朝9時30分すぎ、下山定則国鉄総裁は出勤の途上、公用車を待たせたまま三越日本橋本店に入り、そのまま謎の失踪を遂げた。
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7月6日、早朝の事件現場総裁の行方不明を知った警視庁では午後2時ごろ極秘捜査を開始、午後5時すぎから公開捜査に踏み切った。だが失踪から15時間後、常磐線の北千住と綾瀬駅間で、総裁は轢死体となって発見された。
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遺体を発見したのは松戸ゆきの最終電車、いっぽう轢断したのは6分前に現場を通過した869貨物列車だった。この列車は機関士の寝坊と蒸気圧の低下により操車場を8分遅れで出発していた。またヘッドランプは不調により通常のワット数を満たしていなかった。このことが後に乗務員のみならず田端機関区に対する疑惑を招くことになる。
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6日早朝、轢断現場で東京都監察医務院の八十島医師は、死体の検案を行なった。

その結果「自殺あるいは過失による轢死」と判断した。だが、総裁の当時置かれていた立場を考慮して、司法解剖をすることを進言した。
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それは、総裁失踪の前日、国鉄は3万700人の従業員に対して第一次整理通告を出したばかりだったからだ。
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ドッジ昭和24年当時、この国は、冷却化する米ソ関係の狭間にいた。中国では共産党がほぼ全土を掌握、朝鮮半島では南北の対立が、ドイツでは東西の対立が深刻化していた。
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このような状況下、アメリカは日本を西側陣営の一員として自立させる必要があった。それには物価上昇率60%というインフレにあえぐ日本経済を安定させることが先決だった。
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そこで打ち出されたのがGHQ経済顧問ドッジの提言にもとづく緊縮財政策、いわゆるドッジ・ラインだった。企業に対する融資は引き締められ、倒産あるいは人員整理に追い込まれる民間企業が相次いだ。
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公務員も例外ではなかった。6月1日、吉田茂内閣によって行政機関職員定員法が施行された。これにより公務員で約28万5000人、国鉄で約9万5000人という史上空前の人員整理が行われることになったのだ。当然この人員整理は民間にも波及するだろう。敗戦により打ちひしがれたこの国に、百万人以上の失業者が生まれるという試算も、決してオーバーではなかったのである。
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同じ6月1日、日本国有鉄道が公共事業体として発足し、初代総裁として前運輸次官の下山が就任した。総裁職には民間からの起用も検討されていたが、人員整理を進んで引き受ける者など誰もいなかった。やむを得ず下山が了承したのだった。下山としては総裁職は当座のつなぎであり、人員整理が終わったら辞任する覚悟であったという。
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吉田内閣の容赦ない人員整理政策に対して、労働者や日本共産党も対決の姿勢を鮮明にしていた。共産党の徳田球一、野坂参三らは「9月までに吉田内閣を打倒し、人民政権を樹立する」と発言、「9月革命説」が公然と国民の間で語られるようになっていた。
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GHQの支配下で[革命が起こせると彼らが本気で考えていたかどうかは疑問]だが、この時期を前後して、革命を意識した労働争議が頻発している。
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日本製鋼広島製作所では1500名の従業員が人民政府の樹立を叫んで工場を占拠した。東芝の新潟加茂工場では組合による生産管理が行なわれ、6月30日には福島県平市(現いわき市)で炭鉱労働者や共産党員、応援の市民により警察署が占拠され、赤旗が振られる「平事件」が発生している。
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下山総裁を待ち受けていたのもこうした急峻な労働攻勢だった。6月9日から新勤務制に反対して国電ストライキが行なわれた。そのさ中、「人民による電車の運行管理」を決議した赤旗組合員が、赤旗を振りながら電車を走らせる「人民電車事件」が発生している。
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6月26日、国鉄労働組合(委員長不在のため、副委員長の鈴木市蔵が実質的な最高責任者)は「第十五回中央委員会(熱海会議)」において、「最悪の場合ストを含む実力行使」を決議している。また「平事件」に際して、宮城県から応援に駆けつけようとする警官を乗車拒否する騒動も発生していた。
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6月27日、ソビエトからの引き揚げ再開の第一船、高砂丸が舞鶴に入港した。共産主義の洗礼を受けた復員兵たちは、インターナショナルを高らかに歌いながら、歓迎の赤旗と入り混じった。
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この時期、国鉄では時流に乗った何者かによる列車妨害工作が頻発していた。下山事件の起きた7月には微小なものまで含めると1574件の妨害工作が報告されている。
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7月2日、労働組合側と国鉄当局の交渉も最終段階を迎えた。下山総裁は鈴木市蔵副委員長らの眼前で突如として話し合いの打ち切りを宣言、苦渋に満ちた顔つきで退室する。鈴木らは突然のことに無言でこの退場を見送らざるを得なかった。
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熱気は際限なく高まりを見せるようにも思えた。
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7月4日、マッカーサー元帥は「共産党の非合法化もありうる」という内容の声明を発表した。共産党が恐れていたのは、何よりも自分たちの党が非合法化されることだった。この声明は9月革命の幻想を打ち砕くのに充分有効だった。同日、国鉄の第一次整理が発表されたのである。
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下山事件はその直後に発生した。総裁の死を誰もが他殺と考えたのは当然のことだった。
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昭和24年7月5日(1949年。 69年前の7月5日) AM8:20、国鉄の下山定則総裁は、馬込文学圏(現・上池台二丁目)の自宅を公用車で出ました。AM9:37頃には、運転手に「5分くらいだから待ってくれ」と告げて日本橋の三越に入店、しかしその後、消息を絶ってしまうのでした。
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24:00をわずかに回った、翌6日の午前0:30頃、国鉄常磐線の北千住駅と綾瀬駅の間で、下山総裁の礫死体が発見されます。
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戦後の混乱に乗じて、多くの国で共産党が勢力を伸ばしていました。日本も例外でありません。それを危懼して、占領軍は、日本を西側の国として自立させるべく経

済的な梃入れをします(ドッジ・ライン)。それを受けて下山総裁は、前日(7月4日)、国鉄職員3万700人の解雇を通告したばかりでした。
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事件はその翌日に起きたのです。
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ですから、とうぜん、上の状況が事件に影響したとの見方がでてくるわけです。占領軍と労働組合の板挟みなった心労から鬱状態になって自殺したという見方、国鉄幹部を憎んだ労働組合員が殺したという見方、労働組合員の犯行に見せかけそのイメージを失墜させようと企んだとする謀略説が飛び交います。
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翌日行われた東大での司法解剖では、列車に接触した時に生じるはずの生体反応がほとんど見られないことから、死後轢断という結論がでました(古畑鑑定・・・他殺説)。現場の手前180mに点々と血痕があるなど他殺説を裏付ける事実も見つかり、警視庁捜査一課(強行犯の捜査を行う)と「朝日新聞」をはじめとする多くのマスコミがそれを支持しました。
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しかし、消息を絶った三越から現場までの区間で下山総裁と思しき人物の目撃情報が20件以上もあり、また下山総裁の苦悩する姿も浮き彫りになって、自殺説も濃厚になってきます。慶応大学の中舘教授などは古畑鑑定を疑問視しました。そのようなこともあって、警視庁の捜査二課(知能犯の捜査を行う)と検察庁、「毎日新聞」などがそれを支持しました。
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政治的干渉もありました。労働組合の犯罪にしてその勢力を削ぎたい政府(吉田内閣。占領軍からの指導があったかもしれないが)は、自殺説にならないよう捜査本部に圧力をかけています。公正な捜査を妨害する許されぬ行為です。自殺説を印象づける捜査本部の報告書(下山白書)が漏洩しますが、それは、意図的な漏洩でありフィクションであると朝日新聞が批判しました。いっぽう、日本共産党は、労働組合の関与を否定する自殺説をとっていましたが、のちに、労働組合に罪を着せようとした占領軍の謀略という立場を取るようになります。
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10年後の昭和35年には、占領軍の謀略と推理する松本清張の『日本の黒い霧』が出版されました。占領が解除されたこともあって某略説がブームになります。昭和48年に出版された矢田喜美雄の『謀略・下山事件』には、死体を現場まで運んだ人の証言がのっています。これは「日本の熱い日々・謀殺・下山事件」という映画になります。
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反対に、昭和39年には、「毎日新聞」記者の平正一が『生体れき断』で自殺説を主張。さらに10年した昭和45年には、捜査一課の刑事だった関口由三が『真実を追う』で自殺説への確信を示しました。昭和51年には、他殺説に疑問をもった佐藤一が自殺説の集大成『下山事件全研究』を出します。佐藤は松川事件の元被告で共産党員でしたが、このことで某略説を取る日本共産党から除名されています。共産党には異説をかかえるだけの度量はないようです。
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その後も、自殺説、他殺説、某略説をとる本が出版され続けています。
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真実はいかに?
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<下山事件捜査記録等の公表に関する質問主意書>
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第61回国会
昭和四十四年七月二十八日提出
質問第一三号
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下山事件捜査記録等の公表に関する質問主意書
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右の質問主意書を提出する。
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昭和四十四年七月二十八日
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提出者  松本善明
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衆議院議長 松田竹千代 殿
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下山事件捜査記録等の公表に関する質問主意書
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下山事件は、昭和二十四年七月五日に発生して以来、既に二十年を経過したにもかかわらず、アメリカ占領軍による謀殺の疑いをもたれたまま、政府がその真相を明らかにすることなく今日にいたつている。しかも政府は、下山事件に関する検察警察当局の捜査記録が、自殺説を主張する者の手によつて恣意的に利用されているのを黙認している。
下山事件の真相を明らかにすることは、下山国鉄総裁(当時)を殺した真犯人を明らかにするうえでも、また、アメリカ占領軍の日本占領当時おこなつた検察警察にたいする支配と介入の実態を明らかにするうえでも、全国民の切望するところであるので、以下の質問をする。
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一 元警視庁捜査第一課主任関口由三は、株式会社評論新社が発行している月刊雑誌「新評」一九六九年七月号に、「下山元国鉄総裁“自殺”の証拠」と題する手記を発表した。
この手記には、関口自身が「この事件の捜査の経過を、私の当時の日記をもとにして公開し、下山事件の真相を世に問おうという気持」(三一頁)で書くことにしたと述べているように、関口自身の捜査日記にもとづく捜査会議、検察警視庁両首脳会議その他捜査に必要な重要会議の内容の公開、関口自身が取り調べにあたつた十数名の参考人にたいする供述調書の引用など、捜査に関する記録の引用や要約が随所に記されている。また、この手記の中には同僚警察官の記録である「堀崎メモ」まで使用されている。
1 関口由三が警察官として在職中知りえた捜査に関する記録を公表することは、地方公務員法第三十四条の規定に抵触するのではないか。抵触しないとすれば、その理由はなにか。
二 関口由三は、同手記の中で「当時事件に関係した先輩、同僚の了解も得て」(三一頁)発表すると述べており、また同手記を紹介した「サンデー毎日」昭和四十四年六月十五日号では、関口由三の談話として同人が「警視庁の了解も得られた」(五〇頁)と述べたことが記されている。
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1 これは事実か。
2 事実であるとすれば、誰が了解を与えたか。
3 このような了解ないし公表の許可を与えうる警察部内の責任者は誰か。
4 前項の許可を与える法的根拠を示せ。
三 関口由三は、前掲の手記の中で「また幸い記録や資料が手許にあつた」(一〇二頁)と記し、捜査記録をうず高く積んだ写真を掲載している。
1 このような捜査に関する記録や、警察官が在職中職権をもつて集収した物件が、個人の私物同様のあつかいで、退職した警察官の手もとに置くことは許されているか。
2 警察官が警察から供与ないし貸与されたもの、および警察手帳等警察官の職権によつて捜査した内容が記入してあるものについては、その警察官が退職するさいは警察当局に返納するなどの規定があると考えるが、その関係する規定を全文示されたい。
四 下山事件は日本の政治社会にきわめて大きな影響を及ぼした大事件であり、これに関するすべての資料は、内閣が責任をもつて保管すべきものと考えるが、政府は、下山事件に関するどのような資料を、どのような方法で保管しているか。また、将来どのように保管しようとしているか、明らかにされたい。
五 下山事件の時効が間近に迫つた昭和三十九年六月二十六日の衆議院法務委員会において下山事件の資料の公表と捜査記録の提出を求められたのにたいして、当時の法務省竹内寿平刑事局長は「(全捜査の結果及び鑑定書を何らかの形で発表する用意は)東京地検当局に検討させているが結論は得ていない」という趣旨の答弁をしている。
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1 今日既に事件発生以来二十年を経過しているが、鑑定書の全文及び捜査に関する全記録を公表する考えはないか。
2 公表する考えがあるとすれば、どの程度どのような方法で公表する考えか。
3 公表しないとすれば、その理由はなにか。具体的に示されたい。
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右質問する。
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衆議院議員松本善明君提出下山事件捜査記録等の公表に関する質問に対する答弁書
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昭和四十四年八月五日受領
答弁第一三号
(質問の 一三)
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内閣衆質六一第一三号
昭和四十四年八月五日
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内閣総理大臣 佐藤榮作
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衆議院議長 松田竹千代 殿

衆議院議員松本善明君提出下山事件捜査記録等の公表に関する質問に対し、別紙答弁書を送付する。
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衆議院議員松本善明君提出下山事件捜査記録等の公表に関する質問に対する答弁書
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一 月刊雑誌「新評」一九六九年七月号に掲載された「下山国鉄総裁“自殺”の証拠」と題する関口由三氏の手記の内容のなかで、地方公務員法第三十四条第一項の「秘密」に該当するものがある場合には、同項違反となる。
前記手記の内容が同項にいう「秘密」に該当するか否かの認定は、警視庁当局において行なわれるべきものであるが、同当局の認定によれば、これらの内容中秘密に該当するものはないとのことであるので、右手記の公表が同項違反となることはありえないものと考える。
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二 1および2について
関口由三氏とともに当時捜査に従事した先輩・同僚はすべて退職しており、関口氏が下山事件に関する手記を公表することについて、これらの先輩・同僚にどのような了解を得たかはつまびらかでないが、新評七月号にあのような手記を公表することについて警視庁当局が了解したことはないとのことである。
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3および4について
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当該事項が秘密である場合には、公表の許可を与える法的根拠はない。
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三 1について
警察官が職権に基づいて作成した捜査書類や職権に基づいて収集した証拠物は退職後手もとにおくことは許されないが、備忘等のために記帳したメモ類は差しつかえないものと解する。
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2について
警察官に対しては、被服が支給され、警察手帳等が貸与されている。これらの返納については、警察法施行令第十一条に、「警察庁の警察官及び皇宮護衛官が失職し、退職し、休職を命ぜられ、又は臨時待命を命ぜられ、若しくは承認された場合には、その者は、使用期間の満了しない支給品及び貸与品を国に返納しなければならない。警察庁の警察官及び皇宮護衛官が死亡した場合には、長官は、使用期間の満了しない支給品及び貸与品を国に返納するための措置を講ずるものとする。」という規定がある。都道府県の警察官についても、これに準ずる(警察法第六十八条第二項参照)。
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四について
検察庁関係の分の主なものとしては、本件に関する鑑定書がある。この鑑定書は、現在、東京地方検察庁において保管中であるが、今後、刑事参考資料として保管することを検討中である。
警視庁においては、実況見分調書、警察官の捜査報告書、参考人供述調書等を警視庁捜査第一課の資料格納室に永久保存資料として厳重に保管している。
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五 1および2について
鑑定書の全文および捜査に関する全記録を公表する考えはない。
なお、昭和三十九年六月二十三日衆議院法務委員会の資料要求に基づき、鑑定事項と鑑定結果を提出している。
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3について
鑑定書の全文および捜査に関する全記録を公表することは、死者および遺族等関係人の名誉および感情を著しく毀損するおそれがあり、また、今後におけるこの種事件の捜査に支障をもたらすおそれがあるなど、検察運営上好ましくないので、この際、公表をさしひかえるものである。
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右答弁する。
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【松本善明家女中怪死事件】
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1959年2月26日、弁護団の1人であった松本善明・いわさきちひろ夫妻が外出したあと、松本家のお手伝い・Y子さん(20歳)が旧千川上水の路上で3人の男に囲まれ誘拐された。Y子さんは車で遠くまで連れ去られ、平屋の家の一室に閉じ込められ松本家のことや家に出入りする客についてしつこく尋問を受けた。途中、リーダー格と見られる男が他の人間を帰し、その男が見えない隙にY子さんは窓から飛び降り、下落合駅まで走って逃げた。監禁場所である平屋については、その後調査されたが、その所在はついに発見できなかった。
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Y子さんは幼い頃に迷子となって、大阪の孤児院で育った。迷子になる前、どんな家庭で育ったのかは一切わからない。49年に中学を卒業した後、いくつかの家でお手伝いをして、53年7月から松本家に住み込みで働き始めた。
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誘拐事件の後、Y子さんは胃を悪くし、出身地である大阪に戻り、3月19日に市立病院に入院した。病名は亜急性胃炎だった。ところが4月2日午後、急性心臓衰弱のため亡くなった。
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ちひろさんが週刊誌の取材に話したところによると、Y子は誘拐される前から何かに怯えている様子だったという。無口だった少女は、ちひろさんに何かを伝えたい様子だったとも松本氏の著書の中で記されている。
Y子さんの育った孤児院の保母で、「お母さん」と呼ばれていた女性は、松本夫妻に「Y子が”こわいめにあった”と言っていた」と話していたが、それ以上のことは何も話そうとしなかった。
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さらにY子さんが死亡した時、勤務していた病院の医師もその後怪死している。ある夜、病院の建物で彼の退職パーティーが開かれたときのことである。窓を背にして座ったその老医師は、途中立ち上がろうとした。その時、彼はよろめき後ろの窓にぶつかったが、鍵がかかっていたはずの窓が開き、2階下のコンクリート上に転落死していた。
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Y子さんをめぐって謎なところがふたつある。
まず彼女のカルテには2日間の空白があった。担当していた女医も、「Y子さんを探したことがあった」と話していた。Y子さんはこの間、再び誰かに連れ去られていたのか、自分から出て行ったのか、それはわからない。
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二つ目は誘拐される前の1958年暮れ、Y子さんが突然「大阪に帰りたい」と言い出したことがあった。ちひろさんは「もうすぐ休みだから、それまで待って欲しい」と頼んだが、「どうしても帰りたい」と言った。それでとうとうY子さんを帰すことになったのだが、大阪に着くか着かないかの時間に帰ってきた、というものである。
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松本氏は東大法学部在学中の1948年に共産党へ入党。松川事件は司法修習生の時に発生した。
松本邸では1954年1月21日にも空き巣被害があった。この事件では、松本氏の友人の入党の決意を書いた手紙2通だけが盗られていた。
この後、しばらく松本氏とちひろさんは外出すると数人の男から尾行を受けた。それも密かに後ろを歩くのではなく、堂々としたものだったらしい。
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【米軍謀略説】
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弁護団は、「アメリカ情報機関の下部組織の可能性が強い」と指摘。
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ノンフィクションライター・礫川全次氏は著書「戦後ニッポン犯罪史」(批評社)のなかで、米軍関係機関による謀略であった可能性について、以下のようにまとめている。
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「当時、中国では中共軍の優勢が決定的となっていた。続いて南朝鮮(韓国)、日本に人民政府ができると信じる者が多かった。日本国内でも共産党主導による政治的闘争が激化しており、”9月革命説”が巷間に流布されていた。特に福島県で

は、共産党の攻勢が目立っていた。6月30日には、共産党員を中心とする群衆が平市警察署を占拠する平事件が起きている。こうした状況のなかで、CIC(米陸軍諜報機関)などの組織が、日本共産党の犯行に擬した謀略行為を画策した可能性は充分にある。米軍関係機関が関与したと思わせる証言や事実は少なからずある」
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特に平事件の時には、警察署を襲撃した人間のなかに「この革命派全国的な革命であり、中共軍もまもなく上陸して来るからここを占拠しているのだ」と言い放っている者さえいた。
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この事件と前後して、福島市で米の掛売り実施を標榜した無届デモをおこない、開会中の県議会に押しかけ、警備員の制止もきかず傍聴席から多数の赤旗を垂れ下げた”県議会赤旗事件”、このデモで逮捕された被疑者奪還のための”福島市警察署強訴事件”なども起こっていた。
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松本清張氏も「日本の黒い霧」のなかで米軍謀略説(日本人の下請け含む)をとっている。
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1945年。
この年の1月から7月10日までの6ヶ月の間に686件の列車妨害事件が起こっている。前年の妨害事件総数が600に満たないため、その多さは異常とも言えた。妨害事件の多くはは置石。その他に信号機の破壊、連結器を途中で外れるように仕掛けるなどがあった。犯人の捕まった150件のうち、前国鉄職員によるものが20名。一様に「クビを切られた恨みをはらすため」とその動機を語っている。
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つづく



“非核化”で米朝対立:トランプの頭では理解できぬ!

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具体策まとまらなかった!
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非核化を巡り対立があらわ!
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アメリカのポンペオ国務長官は、北朝鮮での金英哲統一戦線部長との協議について、「極めて生産的だった」と評価した。
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しかし、それとは対照的に、北朝鮮外務省はアメリカについて「一方的に非核化だけを要求した」、「遺憾、極まりない」と非難した。
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非核化の具体策は、まとまらなかったもよう。
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北朝鮮は7日、米国との2日間にわたる協議を終えた後に出した声明で、迅速な非核化という米政府からの要求は「強盗的」であるとして、怒りをあらわに拒絶した。北朝鮮が再び強硬姿勢へと転じたことで、米朝間の和平プロセスはまたも暗礁に乗り上げそうだ。
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マイク・ポンぺオ米国務長官は、北朝鮮の金正恩朝鮮労働党委員長の右腕である金英哲党副委員長との協議を終えて平壌を後にする際、協議では進展がみられたと強調し、前向きな姿勢を示していた。
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しかし、ポンペオ長官が日韓政府への結果報告のため東京に到着する中、北朝鮮側は同長官による交渉努力を拒絶するとともに、ドナルド・トランプ米大統領に対して和平プロセスを再開するよう求める怒りの声明を発表した。
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北朝鮮は国営朝鮮中央通信(KCNA)を通じて出した声明で、「北朝鮮の忍耐力が尽きて、米国の強盗的思考を反映した要求を受け入れると米国が思っているならば、それは致命的な間違いだ」と主張。北朝鮮はすでに核実験場を破壊しており、その見返りとして譲歩に応じる米国側の意志がポンペオ長官から示されなかったことに遺憾を表明した。
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北朝鮮はまた、米韓合同軍事演習を一方的に中止したトランプ大統領の決定についても、表面的で「極めて可逆的」譲歩だと指摘。1953年に休戦協定が結ばれた朝鮮戦争(Korean War)を平和協定により正式に終結させる件について、米代表団が「一度も言及しなかった」と批判した。
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米当局者らは非公式の見解として、北朝鮮政府による今回の声明は交渉での駆け引きであると述べている。しかし平壌で2日間にわたり友好ムードが演出された後に出たこの声明により、北朝鮮は再び従来の強硬姿勢に戻った格好となった。
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安倍首相・総裁3選へ向け・活動本格化へ!

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「定数6増」で若手の反乱に参院側激怒!
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7月5日、9月の自民党総裁選挙を前に安倍総理大臣は昨夜、党の埼玉県連の会合に出席した。今国会でTPP協定承認されたことや、働き方改革法の成立に触れ、実績として強調した。
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週末には鹿児島県と宮崎県を訪れ党の集会などに出席する予定で、今後3選を視野に活動を本格化させるものとみられる。
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今回の総裁選を巡っては安倍総理が3選に強い意欲を示しているのに対して、石破元幹事長が立候補に向け準備を進めている。
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また野田総務相が立候補したい意向を示しているほか、岸田政調会長も立候補するか検討していて、6年ぶりの選挙戦となる公算が大きくなっている。
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安倍首相がTPP協定が承認されたことや、働き方改革関連法が成立したことに触れ、実績として強調。安倍首相に近い議員は今回の総裁選挙から国会議員票と党員票が同数となることから、「党員の支持拡大が重要だ」と話す。
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参議院の定数を6増やす自民党の選挙制度改革をめぐり、撤回を求めた若手地方議員に反発する参院議員が党の若手で作る青年局が全員離脱した。
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青年局内の組織が比例定数の増加に反対し定年制の順守を求める文書を作成したことについて参院執行部は鈴木青年局長が主導していると判断し青年局所属の参院議員を離脱させた。
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鈴木青年局長はきのう参院幹部に謝罪したが事態の収束に至っていない。

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自民党内から「党内手続きが終わった後に文句を言うのは問題だ」と青年局を批判する声が大勢を占めているが「定数を増やすのは国民世論が納得しない」と青年局を支持する声もある。
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人民元:妥当な水準で安定維持できる・人民銀副総裁!

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大手国有銀行・人民元支援のためドル売りか!
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中国人民銀行(中央銀行)の潘功勝副総裁は7月3日、人民元相場について、中国は「妥当な水準」で基本的な安定を維持できると確信していると述べた。
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同副総裁は中国国家外為管理局の局長を兼務している。
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人民元は下落基調をたどっており、中国国内市場で取引されている人民元の対ドル相場は、3日朝方の取引で一時6.7元超に軟化。2017年8月初旬以来の安値を付けた。
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7月3日、市場筋4人によると、中国の複数の大手国有銀行が人民元を支援するため、フォワード取引でドルを買い、直後にスポット市場でドルを売却しているもよう。
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ドル売りにより、スポット市場の人民元は上昇し、主要な節目となる1ドル=6.7元を突破した。
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序盤の取引では、一時は2017年8月7日以来の安値となる6.7204元を付けていた。
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市場筋の1人は「大手銀行のオファーにより、スワップポイントは急低下している」と述べた。
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中国人民銀行(中央銀行)の易綱総裁は、人民元相場を均衡の取れた水準で安定的に維持し続けると表明した。慎重かつ中立的な政策スタンスも維持する方針も示した。
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人民銀のウェブサイトに掲載された中国紙、中国証券報とのインタビューで、易総裁は中国の金融リスクはコントロール可能だと述べた。
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その上で、外国為替市場における最近のボラティリティーはドルの強さと国外の不確実性によるものだと説明。ある程度の「循環的」要因もあるとも指摘した。人民銀は外為市場を注視していると語った。
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易総裁の発言が報じられた後、人民元は買い戻され、前日比での下げ幅を縮小。

3日の取引では一時、1ドル=6.7元を超える元安水準となっていた。過去1カ月の下落率は4%余り。
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