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三鷹事件・1949年(昭和24年)7月15日!
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昭和24年に起きた連続鉄道事件。
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日本国有鉄道中央本線三鷹駅構内にて、無人列車が暴走し、脱線転覆しながら線路沿いの商店街に突っ込んだ事件です。
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6人の死亡者と、20人の負傷者が出た大事件として報道された。
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ストライキによる国家革命のため犯行が行われたと言われているが、犯人のアリバイや動機などに不明点が多く、国鉄労働組合員11人が起訴され、1人の非共産党員に死刑判決が言い渡された。
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轢死体で発見された下山国鉄総裁、共産党陰謀論の三鷹駅での脱線転覆。
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それぞれの事件にまつわる不思議を列挙する。まずは7月5日朝、国鉄総裁に就任して間もない下山定則は、午前8時20分頃に大田区上池台の自宅を公用車で出た。途中運転手に一旦は日本橋三越に行くよう指示するものの、東京駅前の白木屋、千代田銀行等複雑なルートを廻り、最終的には三越前で停車。「5分で戻る」と言い残したまま失踪する。結果、先に述べたように翌未明綾瀬付近にて轢死体で発見されるわけだが、遺体と現場にはほとんど血液が確認されず、他所で殺害された後に遺棄されたのではないかと推測された。しかも5日午後には東武伊勢崎線五反野駅近くの旅館に滞在した等、不自然なほどに目撃情報も多い(よって松本清張はここでの下山は謀略犯による替玉であろうと推理している)。
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三鷹事件
1949年(昭和24年)7月15日
東京都北多摩郡三鷹町(現・三鷹市)と武蔵野市にまたがる日本国有鉄道中央本線三鷹駅構内で起きた無人列車暴走事件。
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「三鷹事件」に関しては事故直後、まだ何の詳細も明らかでないうちに、現場近く、それと、隣の吉祥寺駅で停車を余儀なくされた列車内にて、「共産党がやった、こいつは共産党のしわざだぞ!」と吹聴して廻る謎の人物が複数目撃された。さらに暴走列車は駅舎東隣に位置する駅前交番を完全に崩壊させたが、当時勤務していた四人の巡査は全員無事であった。故に官憲はあらかじめ事故が起きるのを知っていたのではと訝る声もあった。同様、「松川事件」に於いては18才の少年が逮捕されるわけだが、それは事件前に彼が「近々、汽車の転覆がある」と予言めいた発言をしていたことから嫌疑をかけられたのだ。
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復興とやがて訪れる高度経済成長の象徴たる鉄道
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片島紀男(当時NHKディレクター)による全518ページに及ぶ大著『三鷹事件・1949年夏に何が起きたのか』は、片島自身による次のような回想から始まっている。
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「近くの線路は子供たちの遊び場だった。踏切番の眼を盗んでは線路の上に釘を置き、列車の車輪に轢かせてはやじりを作ったりしていた──」
1940年生まれの片島は、空襲の悪化と共に父の郷里へ疎開していたが、終戦後しばらくして東京は北区東十条へと戻る。小学校3年生だった。その頃の記憶である。
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線路に耳を当てると遠くからやってくる列車の車輪の音がする。子供たちはその音に胸をときめかせながらも、同時に時折線路際で藁の蓙(ござ)に覆われた轢死体を眼にする。線路には真っ白な米粒が糸状になって落ち、それに沿って人間の肉片も連なっていた。おそらく闇米の買い出しの途中警察の手入れがあり、逃げだそうと飛び降りた者が車輪に巻き込まれて死んだのだろう。駅近くの闇市には赤ら顔の進駐軍兵士がたむろし、同級生には「パンパン(街娼)」の娘もいた。
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復興とやがて訪れる高度経済成長の象徴たる鉄道と、その裏側にあった戦後の闇が表裏一体、見事に示唆された一文である。
そんな連合国軍占領期の1949年(昭和24年)夏、三つの大きな事件が発生する。
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まずは同年7月5日朝、国鉄総裁下山定則が出勤途中に失踪し、翌6日未明、常磐線の北千住ー綾瀬駅間で轢死体となって発見された、これが通称「下山事件」。
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その10日後の7月15日。今度は国鉄中央線・三鷹電車区構内に滞留していた7両編成の無人電車が突然動き出し、三鷹駅下り一番線に向かって暴走。死者6名、負傷者20名を出す大惨事が起きた「三鷹事件」。
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8月17日未明、東北本線松川ー金谷川駅間で故意にレールが外され、先頭の蒸気機関車が脱線転覆。乗務員3名が死亡した「松川事件」。これらを総称し、「国鉄三大ミステリー事件」と呼ばれる。
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「下山事件」、元運輸次官にして国鉄初代総裁山下の死。結局最後まで他殺か自殺かは不明のまま迷宮入りとなった。
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「三鷹事件」も6名の死者を出し、容疑者とされた元運転士の竹内景助(当時28才)は一貫して無罪を主張しながらも1955年に死刑が確定。さらに竹内は67年脳腫瘍のため45才の若さで獄死した。
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「松川事件」では元国鉄線路工の少年(当時18才)が傷害罪で別件逮捕され、少年の自供により20名の逮捕者が出たが、最終的には最高裁で全員の無罪が確定。これも真犯人は割り出されないまま未解決事件となっている。
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これらの事件の背景には、当時の国鉄が占領軍から迫られた、約10万人に近いとされた空前絶後の人員整理がある。当然の如くそれに抵抗したのが国鉄労働組合であり、同じく日本共産党の強い影響下にあったた東芝松川工場を始め日本全国の労働組合である。終戦直後は戦中の軍国主義から脱却させるため、日本の民主化を強く進めていたGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)だったが、1949年1月、中国人民解放軍が北京に人民政府を樹立させた頃から旗色が悪くなる。表向きは「ドッジライン」に象徴される日本国内の経済的安定、それに伴う合理化とされたが、いざ中国大陸及び朝鮮半島に於いて紛争が起こった場合(実際、翌年には朝鮮戦争が勃発)、軍の物資輸送には鉄道が不可欠であり、国鉄内の共産党思想を無理矢理にでも排除する必要があった。いわゆるレッドパージである。
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そこで多くの作家・文化人、特に松本清張は背景に連合国軍の中心的存在、アメリカのCIC(防諜部隊)が事件に関わったと推理した。しかし、結局のところ今となってはその真偽も藪の中である。多くの人命が失われ、命は落とさずとも深く傷ついた者が多かったのは紛れもない事実。無罪を訴えながら死んでいった「三鷹事件」の被告・竹内景助最後の言葉は「くやしいヨ!」だったという。
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国鉄が人員整理を起こそうとしていたことから、人員整理に反対する国鉄労組による犯行という観点から捜査が進められた。
下山事件では下山総裁が自殺なのか他殺なのかが争点になった。死体が生体轢断(自殺の根拠)か死後轢断(他殺の根拠)かで大きな争点となった。捜査一課は自殺説を主張、警視庁捜査二課が他殺説を主張した。最終的には他殺説及び自殺説について公式の捜査結果を発表することなく捜査を打ち切った。
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三鷹事件では国鉄労働組合員11人が起訴された。裁判では10人の共産党員に無罪判決が出て1人の非共産党員に死刑判決が確定した。
松川事件では国鉄労働組合員10人と東芝松川工場労働組合員10人の計20人が起訴された。裁判ではアリバイが成立して全員の無罪判決が確定した。
これらの三事件では、「GHQが事件を起こし国鉄労組や共産党に罪をなすりつけて、人員整理をしやすくした」とする陰謀論が存在する。1人の有罪が確定した三鷹事件もアリバイの存在や供述の変遷などから、冤罪疑惑が指摘されており、獄死した元死刑囚の家族により再審申し立てがされている。
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この三大事件には、まさに「ミステリー」と呼ぶにふさわしい背景と空気感が存在する。その未解決事件の謎に引き寄せられて、松本清張の傑作ノンフィクション『日本の黒い霧』、矢田喜美雄の『謀殺・下山事件』。映画では山本薩夫監督による『松川事件』。NHK の片島紀男によるTVドキュメンタリー『戦後史の謎・三鷹事件』。近年でもオウム事件の取材でも知られる森達也による『下山事件(シモヤマ・ケース)』等、多くの謎解きが試まれている。
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これらの作品、特に文献に触れていると、我々はまるで黒澤明による同年公開の映画『野良犬』、あの画面の内側へ引きずり込まれたような錯覚に囚われる。夏、ねっとりと絡みつくような熱気と湿気。暗いコンクリートの駅構内、鉄錆の匂いの線路脇、闇市の人ごみ、進駐軍兵士のかけたレイバンのサングラス。復興していこうとする国家と未だ根強く残る貧困、差別。そこに入り込んで来る嫉妬と謀略。すべてがモノクロームの陰影に包まれた、暗黒サスペンスの世界である。
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日本の政治経済最大の事件「国鉄・民営化」暗闘の20年を追う経営、労組、そして政治……(より転載)
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牧 久(ジャーナリスト)
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荒れるきっかけを作ったのは…
―昭和62(1987)年3月31日をもって分割・民営化され、JRに生まれ変わった「日本国有鉄道」。『昭和解体』は、その解体に至るまでの20年間に、国鉄経営陣や労働組合、政治家や財界人が水面下で繰り広げた「暗闘」を克明に描いています。
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私は、国鉄の分割・民営化は戦後の日本における最大の「政治経済事件」だと考えています。ピーク時に60万もの人員を抱えた企業体は、日本においては国鉄しかありませんし、それほどの巨大組織が解体されたことで、社会は大きく変わった。
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では、この「事件」はいかにして起こったのか。これまで、当事者たちがそれぞれの立場から発言した記録は残っていますが、俯瞰して全体像を示すものがなかった。そこで本書では、国鉄経営陣や労組関係者、政治家の証言や未公開の資料をもとに、客観的な史実を示そうと考えたんです。
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―国鉄解体に向けての起点は昭和42年だと分析されています。
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その年に国鉄は累積赤字に陥り「公共企業体としては最悪の状態」と言われました。赤字解消のため、国鉄当局は「5万人の合理化計画」を発表。従来、国鉄の機関車は「機関士」と「機関助士」のふたりが乗務していましたが、これを機関士のみの「ひとり乗務」に切り替えようとしたんです。
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これに対して国鉄動力車労働組合(動労)や国鉄労働組合(国労)が猛反発し、ストライキに突入。彼らはスト解除の見返りに「ひとり乗務」の先送りと、後に禍根を残す「現場協議制度の確立」を勝ち取りました。
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―現場協議制度とは、「駅単位」や「保線区単位」といった末端レベルで、労働条件に関する協定を結ぶ制度でした。
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導入以降、全国の国鉄で駅長などの「管理者」を組合員がつるし上げる光景が繰り広げられるようになりました。組合員らは駅長のネクタイを引っ張ったり、腹を小突いたりしながら「この作業には手当をつけろ」とか「ヤミの出張手当を認めよ」などの要求をした。(※本紙注釈・関西における生コン業界の関西生コン、運輸一般の連帯ユニオンなどの実力行使も良く似た騒動を起こしている)
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これを管理者が受け入れてしまったため、職場環境は荒れ、様々な手当が乱発された。国鉄当局の「管理権」が失われる事態となったのです。
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―そうした状況を改善すべく、国鉄当局は「生産性向上運動」(通称・マル生)を導入します。
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マル生とは、全国の現場管理者を集め「労使協調して生産性を向上させる」ための研修を行うというものです。しかし実態は職員の「労組脱退」を促す内容でした。
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当初、マル生の効果は絶大で、国労・動労合わせて1ヵ月平均3000~5000人もの脱退者が続出しました。慌てた労組はマスコミに窮状を訴えることで反撃し、新聞各紙に「国鉄当局は昇給をエサに労組を切り崩している」などの批判記事が出た。(※本紙注釈・JR総連、JR東労組が2月のスト予告した事で、加入組合員が嫌気をし3万3000人もの脱退者が出たのは、当時とは経済事情が違うのが労組幹部の誤算だったろう)
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さらに水戸管理局の能力開発課長が「知恵を絞って不当労働行為(労働者の団結権を侵害する行為)をやれ」と発言したことが明るみに出て、国民の批判を招く事態ととなった。
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―その結果、国鉄当局はマル生を中止。勢いづいた労組はさらに様々な要求を突き付けます。
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とりわけ驚くのは「昇職・昇格基準の設定」を組合に渡してしまったことです。従来、国鉄では勤務成績や職務能力によって昇格を決めていました。しかし、組合の要求により、能力に関係なく、勤続年数で自動的に昇職・昇格者を決めることになってしまった。結果、職員の間に「働いても働かなくても給料は同じ」という風潮が蔓延することになったのです。
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―混乱を受け、政界から「国鉄分割・民営化」を求める声が上がります。
その中心となったのは、昭和55年に発足した鈴木善幸内閣で、行政管理庁長官に就任した中曽根康弘氏でした。
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当時の国労は、20名程度の代議士を国会に送り込むだけの票を持ち、社会党を支持していた。そこで中曽根氏は「労組を潰すことができれば社会党を崩壊させることができる」と考えたのです。そして土光敏夫・経団連名誉会長をトップに据えた「第2次臨時行政調査会」を発足させ、国鉄の分割・民営化の論議が本格的にスタートしました。
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―国鉄内部からも、後にJR各社の社長となる井手正敬、葛西敬之、松田昌士といった改革を志す若手職員が台頭します。
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井手氏ら3人は、採用年次も歩んできたキャリアも異なりますが、共通するのは地方管理局に勤務したことです。彼らは現場に出て、人事権までも組合が握っていることを知り、改革を志した。国鉄当局の中で分割に反対する「国体護持派」は、彼らを中国で文化大革命を主導した「四人組」になぞらえて「三人組」と呼び、国鉄に弓を引く反逆者とみなしていました。
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しかし三人組に共鳴する若手職員は次第に増え、昭和60年には総勢20名が「抜本的な国鉄改革の方法は分割・民営化しかない」とする「決起趣意書」に署名しました。明治維新では薩長の下級武士が決起しましたが、同じようなことが国鉄でも起こっていたのです。
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―各人各様の思惑が絡んだ結果、国鉄は解体。30年が経った今、分割・民営化をどう評しますか。
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民間企業になったおかげで、サービスは格段に良くなりました。列車が滞りなく動くのはもちろん、「エキナカ」と言われる駅構内の商業スペースは充実しているし、トイレもきれいになった(笑)。
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ただ、民営化の恩恵を受けたのは本州の東、西、東海だけで、北海道や四国は苦戦が続いている。分割・民営化はいまだ「道半ば」だと思います。
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つづく
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