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交通整備に伴い架橋で消えていく「渡し船」!
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道路交通としての河川・渡し舟の数少なくなった!
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渡し舟が残っているものの多くは民間が運営するもので、そのほとんどが観光用である。自治体が運営する渡し舟は、「航路」ではなく都道府県道や市町村道の「道路」の一部として運航されている。その原因は、大きな川故、費用も高額になり、対費用効果が望めないため、橋を架ける計画がなかったり、計画があるが隣接県にまたがることで、予算化が合わないとして具体化していない場合、渡し船が橋の役割を担う「道路」として扱われているのが現状である。
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矢切の渡し(ちあきなおみ)、倖せ渡し船(森若里子)、人生渡し船(三船和子)、わたし舟(羽山みずき)、おんな船頭唄(三橋美智也)など演歌などでも歌われている渡し舟。
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江戸川を渡る「矢切の渡し」(東京都葛飾区~千葉県松戸市)は架橋以後、観光用として復活した。HPでは”小説「野菊の墓」や、歌謡曲「矢切の渡し」で有名な唯一現存する江戸川の農民渡船で、矢切と葛飾区柴又を結んでいます。徳川幕府は江戸防衛のため川に橋を架けませんでした。街道に続く渡し舟は厳しく管理されていましたが、一方で対岸に農地を持つ農民のための渡船は許されていました。旅人の中には事情により街道の経由がはばかられ、農民に扮装して川を渡る者もあったといいます。”と説明している。
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唄にもなっている渡し船(わたしぶね)とは、港湾・河川・湖沼などで両岸を往復して客や荷物を運ぶ船及び航路のことで、渡船(とせん)とも言う。渡し船に乗り降りするところを渡し場(わたしば)、渡船場(とせんじょう、とせんば)などともいう。
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江戸時代の渡し船は、東海道の馬入川(現在の相模川)を例にすると、人を20人まで乗せる小船、馬を乗せる馬船、大型で荷物を運べる平田船が常備されていた。
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ちあきなおみが歌っている矢切の渡し(作曲・船村徹)は、かつて江戸幕府が江戸川の渡しとして指定し、農民の管理により運営されていた航路のうち最後の一つ。現在も先祖代々船頭だった個人が運営している。
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全国にある観光事業の渡し舟が多い中、国道を結ぶ役割をしている渡し舟もある。大きな河川の渡し舟も橋が架かるたびに消えていった。
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現在も、利根川右岸(千葉県我孫子市と地続きの側)にある「小堀の渡し」、利根川右岸にある熊谷市の葛和田と左岸の千代田町赤岩を結ぶ「赤岩渡船」、長良川を渡る。岐阜県営(岐阜市に運航を委託)の道路渡船(岐阜県道173号)「小紅の渡し」、狩野川河口の我入道東町から蓼原町の両岸を結んでいる「我入道の渡し」、愛知県豊橋市豊川の両岸を結ぶ「牛川の渡船」、愛知県一宮市~岐阜県羽島市までの木曽川を渡る「中野の渡し」、和歌山県西牟婁郡白浜町の日置川を横断し安居と仏坂を結ぶ「安居の渡し」、山口県萩市の松本川河口付近を渡る道路渡船「鶴江の渡し」などがある。
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上記に出てくる、
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「赤岩渡船」は、埼玉県熊谷市葛和田(くずわだ)と群馬県千代田町赤岩の間を流れる利根川を渡り、群馬県の委託事業として千代田町が管理している主要地方道(県道)「熊谷・館林線」の一部とされており、上流下流10㎞に橋がなく、架橋計画も具体化しないため現在まで存続してきた。こちらでは動力船の「千代田丸」「新千代田丸」で毎日おおむね8時30分から17時ごろまで運航され、運賃は無料。地域住民や観光客など、年間約2万人が利用している。
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「小紅の渡し」は、岐阜県岐阜市の長良川を渡る岐阜県営(岐阜市に運航を委託)道路渡船(岐阜県道173号)である。
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「中野の渡し」は、愛知県一宮市西中野(旧・尾西市)と岐阜県羽島市下中町石田の間にある木曽川の両岸(約800m)を結ぶ、県営の渡し船である。岐阜県道118号・愛知県道135号羽島稲沢線の一部を構成している。
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人口減少が激しい日本であるが、人口は減っても便利さを求める中、これから先も「渡し舟国道」なのか「国道をつなぐ架橋」なのか、市民や自治体はどちらを選ぶのであろうか。
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