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3期目になると同じ道を歩き始めるのか!
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中村知事が2010年の初当選、2期目の2014年にも自民党の推薦・支援を受けて来たが、加計学園問題では「中村知事は安倍政権に、反旗を翻した」と地元自民党の関係者はいう。
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それは、愛媛県文書に記載されていた加計理事長と安倍首相の面会を、学園側が「実際にはなかった」としたことが原因である。
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前回では、中村知事の内容ばかり書いたが、「市職員を愛媛県職員と同席させたはずの今治市では、この期に及んで菅良二市長が、市の関連文書の公開を拒んでいる。」中村知事のお膝元の松山においてさえ、この菅市長の姿勢こそ地方首長あるべき姿だと「評価」する声が多かった
のである。
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愛媛県関係者によると、加計学園の獣医学部新設は加戸前知事時代からの引継ぎ案件で、中村知事は「当初は乗り気ではなかった」という。一時は大学誘致を断念し、サッカースタジアムの建設などの代替案を検討しようとしていたくらいだ。
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中村知事は、「公的機関に偽りの説明をしたとすれば説明と謝罪をすべきだ」などと学園を厳しく批判した。2018年5月のことである。
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この言葉の裏に何があるのか。一説では、2018年11月30日に任期満了を迎え、3選を控えているからだと。どちらかと言えば目立ちたがり屋の知事、加計文書(メモ)を出してきた背景として、地元政界の複雑な対立構図が見えてくる。
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知事選2期目(2014)の選挙の時、中村氏に関する情報が出た。ソースが地元紙・愛媛新聞の2014年の記事である点が嘘だと言えない面にあった。
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内容は、松山市の最終処分場の環境汚染対策で77億円の公費投入を巡って、中村氏は、一部の市議たちが業者と癒着した疑惑があると追及。その証拠として市の“公文書”を持ち出していたのだ。そして同文書の中身の是非や所有権を巡って市議会と争った経緯がある。
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中村氏の主張に怒った市議会は、その後、文書を返還するように決議までしたほど、騒ぎは大きかったようだ。
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公文書を武器に自らの政治的主張をアピールするのが、中村氏の“お家芸”であったとしても、主張する内容に正当性があればよい。愛媛県選出の村上誠一郎衆議院議員(愛媛2区)。アンチ安倍首相の急先鋒では、石破茂氏と並んで「自民党内からも首相に批判の声」要員ではお馴染み。
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中村氏は松山市長時代の2009年、民主党が政権を獲得した衆院選で、逆風にさらされていた村上氏の応援に駆けつけている(と、朝日新聞が報じている)。単なる友誼によるものかもしれないが、しかし、政治的に興味深いのは、この当時、中村市長は、橋下徹・大阪府知事、中田宏・横浜市長らと組んでいた「首長連合」で、「民主党のマニフェストを自民党より高く評価し、民主党の地方分権に関する政策支持」を打ち出している。
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政策的には、民主党を支持しておきながら、自民候補である村上氏を公然と応援しているのだ。さらに、前出の朝日の記事によれば、お膝元の松山市の選挙区、愛媛1区では中立を決めて誰の応援にも行ってない。そうした中で隣の選挙区とはいえ、村上氏支持を鮮明に打ち出すというのは、少なくともこの当時の両者の関係性の深さはうかがえる。
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以下は、八幡和郎氏の愛媛県:因縁深い政治家列伝 から引用。
愛媛県知事が代々、全国最強の封建領主といわれてきた歴史がある。
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愛媛県の歴代知事の内、最初の公選知事は、官選知事だった青木重臣(1947~51)で、有能な内務官僚だったが、独善的で、とくに県議会で勉強不足の県議たちに対して馬鹿にしたような答弁を繰り返し、反発が強まった。保守党派内では、銀行経営をして貴族院議員だった佐々木長治の名が出たが、自由党党首・吉田茂は現職の青木知事を優先し混乱した。これを見た社会党は、緑風会の参議院議員だった旧松山藩主の直系、久松定武(1951~71)を擁立した。久松は全県をくまなく巡回し、絶大な人気を獲得した。これをみて、自由党も佐々木に乗り換えて応戦したが時遅く、3000票足らずの僅差ながらも予想外の殿様知事の誕生となった。
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社会党支持で当選した久松だが、保守派内でものちに知事となる白石春樹など与党グループが形成され、とりあえず、順調な船出となったのだが、徐々に保革の対立が先鋭化し、社会党寄りだった副知事・羽藤栄一に対する反発は強かった。ここで、白石は奇想天外な策に出る。つまり、副知事廃止条例を制定したのである。
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当然、羽藤や社会党の反発は強く、法廷でも政治の場でも闘争が繰り広げられたが、最後は、大王製紙の井川伊勢吉らの財界人グループが仲裁に入り、知事室での緊迫したやりとりの末に副知事廃止に同意する念書に久松は署名した。
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久松の再選をめぐっては、羽藤が社会党の後押しで挑戦したが、保守陣営に転じた久松に歯が立たなかった。この選挙では、久松陣営が機先を制するために、知事早期辞任の奇策を行い、正月選挙という珍しい伝統が生まれた。
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3選目の選挙で、再び久松が社会党が推す三橋八次郎をよせつけず勝利した。だが、4選目の選挙では、保守会派が派閥争いを起こして分裂した結果、保革連合で県政刷新県民の会が結成され、愛媛新聞社長の平田陽一郎が立候補し、まれにみる接戦となった。
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自民党は選挙違反覚悟で徹底抗戦し激戦を制した。しかし、選挙違反が続出し総括責任者だった白石春樹(1971~87)も逮捕された。現在のような短期判決という時代ではないので、高裁の判決が出て最高裁に上告中に5選目の選挙になり、社会党のエース湯山勇代議士が革新知事らの応援を得て立候補したのを押し返した。
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明治百年の恩赦があるというので、白石は上告を取り下げて刑を確定させたうえで恩赦を受けた。久松の4期目は当選無効となったが、任期はすでに終わっていたので実質的意味はなかったのである。そして、1971年の選挙で、「罪を一人で被った」白石はより強固な基盤を手に入れて、湯山の再挑戦を大接戦の末に退けて当選した。
. その後も、野党は白石が張り巡らせた芸術品とまでいわれたマシーンに歯が立たなかった。とくに、3選目、4選目の選挙では、白石は立ち会い演説会に参加しないという横暴ぶりだった。
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この間、久松県政においても、白石が実力者として君臨していたので、久松の5期と白石の4期はほとんど連続している。愛媛では、県教組の力が強かったが、白石はこれを猛然と切り崩した。とくに、久松時代の「勤評闘争」や全国学力テストをめぐる騒動は、全国的にも注目され、全県をゆるがす大事件となった。
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政治的にも抜群の力を誇った教祖への反発が強かったのに理由がないわけではなかったが、組合員に対する南予の山間地から瀬戸内の離島へ毎年、移すといった過酷な転勤命令、学力テストで全国一位を獲得するために試験の範囲ばかりを教えるとか、成績が悪い生徒への欠席勧告、カンニングや問題漏洩などが続出し子供たちの心にも深い傷跡を残した。
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経済面では、蜜柑や真珠の特産品としての成長、東予新産業都市の建設、南予の観光開発、伊方原発の立地、強力な政治力の成果としての本四架橋「しまなみ海道」の建設などが展開された。
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来島ドック社長の坪内寿夫と愛媛県の剛腕知事白石春樹が対立し、坪内が傘下に置いた「日刊新愛媛」を通じて県政批判を展開し、県がそれへの取材拒否に踏み切るという「喧嘩」は、まったくローカルな出来事にもかかわらず全国的な話題となった。この剛腕白石の時代から後継者の伊賀貞雪にかけて伊予の知事は全国最強の封建領主といわれたのだ。
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白石も高齢のために引退。副知事の伊賀貞雪(1987~99)が公明や民社の推薦も得て立候補し、事実上の無風選挙を制した。再選時も共産党候補のみが対立候補だったが、3選目には社民党などが前愛媛大学学長の福西亮を擁立して緊迫したが寄せ付けなかった。
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4選を狙った1999年の選挙では、若手県議や一部国会議員からの反発で、文部省OBの加戸守行(1999~2010)が擁立され、自民党本部も積極的に応援した。県教組も文部官僚時代の実績を肯定的に評価し戦列に加わり、国会議員の一部や各種団体の一部の支援を受けた現職や、読売新聞出身の県議である藤原敏隆などを圧して勝利した。
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伊賀定雪は、松山商業出身の県職員で、素晴らしい切れ者の能吏であった。国際化の流れに応じていちはやくFAZ(輸出入促進地域)の指定を獲得したり、松山空港への国際線の就航に取り組むなど積極的な経済開発を展開したし、財政の健全性維持にもすぐれた手腕を発揮したことは間違いない。 政治姿勢も就任早々は「県民を納得させる親切行政」というなど対話を強調し、白石時代とは違った謙虚なものと映った。
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ところが、徐々に側近政治に傾き、また、プロパー、出向者を問わず職員に対する極端に峻厳な態度、民間人でも少しでも県政改革について意見を言う者に対する露骨な嫌悪を見せた。また、白石時代から国会議員に対する県庁優位は極端だったし、諸行事の際には、すべての出席者が揃ってからおもむろに知事登場とか、知事が他県へ行くときは皇族並みといわれる慎重な準備を県職員がして驚かれたりもした。
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伊賀定雪は、白石とは一期目途中から関係が悪化し、葬儀にも出席しなかった。こうした極端な姿勢が反乱につながったのである。
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やや極端に個性的な知事たちの時代のあと、加戸知事の下で普通の県政に転換しているということであるが、戦後の愛媛県政が強い自己主張で独自性を求めたことのプラス面も無視できないのはいうまでもないし、加戸もハワイ沖の「えひめ丸」事件の際に示したような強い主張と行動力、教科書問題などで示す自らの信念に基づく主張などに個性を発揮しつつ21世紀の愛媛づくりに取り組んでいる。その結果として、2期目の選挙では、圧倒的な支持を集めて無風選挙を制した。
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いまやかつての殿様知事たちに劣らぬ豪腕ぶりといわれる中村知事。
「加計学園問題」に関して行われた柳瀬元首相秘書官の参考人招致での発言に対し、愛媛県の中村時広知事は「どうして全て正直に言われないのかわからない」と述べました。また、柳瀬氏が愛媛県職員との面会を「(県職員が)いたのかもしれない」と明言しなかったことを受け、「県職員は子どもの使いではない」と反発。
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中村氏は獣医学部の新設に関しては、西日本に拠点がなかったために公務員獣医師の確保が難しいという点をカバーする目的で、加戸 前愛媛知事の時代から今治市の意向を受けてバックアップしてきた経緯があるとの肯定的な姿勢を明らかにしている。
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二期目の中村知事と三期目当選の中村知事の何処が違ってきたのか。三期目選挙の半年前に起きた朝日新聞のスクープ。誰がメモや清瀬秘書官の名刺を朝日に流したのか。県にしか存在しないはずの文書が流れた経緯については誰も目を向けようとはしない。不思議な話である。
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巷で囁かれた選挙目当てか、、という言葉も、あながち否定できない面もある。
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2018年5月の清瀬問題では「県職員を全面擁護」したのだが、2019年6月の県立文化ホール改修・電気工事入札では「電気設備担当の県職員や上司を懲戒処分」とした。1年足らずで豹変の原因は、八幡和雄氏の言う「知事は良くも悪くも「全国最強」の権力者!」という言葉で理解できるのかもしれない。
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現在進行中の参議院選。全国32の1人区で、2016年の参院選で自民党が制したが、今回は野党が奪還しそうだ。都市部は保守でも、地方は野党色が強いのは県民性でもある。
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