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老朽化のため建て替えに!
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因習に彩られた建物も近代化へ衣替え!
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田中角栄に絡む色々な内幕がnetの読み物として、世の中に出てきたが、角栄時代の議員が現役から次々と去ってゆく中、沢山の政治家の内幕を見てきたであろう歴史の証人。ただ、物言わぬ証人として存在感を示していた砂防会館がついに解体される。本日で、田中角栄に関する転載は3回目。正月3ケ日の読み物としては丁度良い内容であったろうと思う。明日からは、また正常の業務になる社員の方々も、今年1年、頑張ってください。
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■砂防会館■
一般社団法人全国治水砂防協会(会長・綿貫民輔元衆院議長)が本部を置き、管理運営する。本館は地上5階地下2階建てで、昭和59年には別館A、平成5年には別館Bが完成。協会の事務局や会議室などのほかは、主に貸事務室などとして運用されている。
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2015年、結党60周年を迎える自民党を、陰で支えてきた建物が国会近くにある。田中角栄、中曽根康弘両元首相といった自民党の大物政治家が事務所を構えた「砂防会館」(東京都千代田区平河町)だ。かつては党本部も置かれ、権力闘争の舞台ともなったが、本館は建て替えのため来年4月以降に取り壊される。長老たちが暗闘し、明暗を分けた“権力の牙城”をめぐるドラマを証言で振り返る。
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「志帥会に入りたいという議員の希望はあるが、数ばかり増やしてもしようがない。一致結束が大事だ」
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自民党二階派(志帥会)の会長である二階俊博総務会長は8日、内閣改造直後、同派の在京議員懇談会でこう語った。表情には、総裁選で派閥として結束して素早く動き、林幹雄経済産業相のポストを勝ち取った自信がうかがえた。
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二階派は事務所を砂防会館本館2階に置いている。
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二階氏は9月の党総裁選で無投票再選の流れをつくった立役者の一人だ。4月に再選支持を早々と表明。8月の派閥研修会では同派議員35人の署名を集め、推薦状を作成し、安倍晋三首相に手渡した。出馬を模索した野田聖子前総務会長に対しては7月に出馬を思いとどまるよう促した。
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これに対し「無投票は国民の失望を招く」として野田氏の出馬を模索したのが、平成24年に衆院議員を引退した後も砂防会館本館4階に個人事務所を置く古賀誠元幹事長だ。
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岸田派(宏池会)名誉会長として同派に影響力を持つ古賀氏は派内中堅・若手はもちろん、他派閥へも野田氏の推薦人になるよう働きかけた。
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しかし、同じ砂防会館に陣取る二階氏に先手を打たれ、古賀氏の党内工作は難航した。一時、立候補に必要な20人の推薦人を野田氏が集めたとの情報が永田町を駆け巡ったが、総裁選を行うことで首相の「1強」状態を牽制するという古賀氏の構想はついえた。
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二階氏は周辺に、古賀氏について「影響力を発揮したいなら、引退しなきゃよかったんだ」と冷ややかに語ったという。
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「派閥は戦う集団でなければダメだ。ただの寄り合い所帯では人の役にも立たない。来年は戦う集団になってほしい」
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9月26日に東京都内のホテルで開かれた額賀派(平成研究会)研修会の懇親会で、笹川堯元総務会長は派閥運営に苦言を呈した。
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額賀派はかつて砂防会館に事務所を置いて「鉄の結束」で一時代を築いた田中派の流れをくむ。だが、橋本龍太郎元首相を最後に総裁候補を欠いている。
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会長の額賀福志郎元財務相と砂防会館本館3階に事務所を置く青木幹雄元参院議員会長の間では、総裁選のたびに、こんな会話が交わされているという。
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額賀氏「総裁選に出たいと思っているのですが…」
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青木氏「まあムリだわね。カネはあんの?」
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額賀氏に総裁選出馬経験はない。9月の総裁選でも、額賀派は首相に再選支持を伝えるのが8月27日まで遅れ、二階派のような注目を集められなかった。
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第2次安倍政権発足以降、「反安倍の拠点」として砂防会館がにわかに耳目を集めた時期もあった。
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というのも、政権奪還前の24年の党総裁選で二階、古賀、青木各氏はいずれも安倍首相以外の陣営にくみした。同じ総裁選で石原伸晃元幹事長を支援した森喜朗元首相も一時期、砂防会館本館4階に個人事務所を構え、青木氏らとの交流が取り沙汰されていたからだ。
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首相は二階氏を総務会長として重用することで「戦略的互恵関係」(二階氏周辺)を確立し、外相には岸田氏を起用して古賀氏との分断も図った。森氏はその後、事務所を移転。「反安倍勢力」の拠点はもはや砂防会館にはない。
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砂防会館は、東京・永田町の自民党本部から国道246号を隔て、歩いて数分のところにある。昭和32年8月に完成した地上5階地下2階の本館に、2棟の別館が隣り合っている。このうち本館が、平成23年の東日本大震災で窓ガラスが割れるなど耐震性に問題が生じたため、今年2月に立て替えが決まり、30年度中に新会館が完成する予定だ。
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砂防会館本館には完成まもなく、資金繰りの関係もあり、昭和30年の保守合同で誕生した自民党が2、3階に入居した。自民党を取材する記者クラブを「平河クラブ」と呼ぶのは、砂防会館の建つ東京・平河町に由来する。
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昭和41年、自民党が現在の党本部に移転すると、空いた2階、3階に中曽根康弘、田中角栄両元首相が派閥事務所を構えた。田中氏の後援会「越山会」のほか、4階には中曽根氏の個人事務所もあった。後に首相となる両氏が事務所を構えたことで、砂防会館は戦後政治史の暗闘の舞台となることを宿命付けられたといってもいいだろう。
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43年に中曽根氏の秘書となった与謝野馨元官房長官(77)は、「第1次角福戦争」といわれるポスト佐藤栄作を、田中氏と福田赳夫元首相が争った47年の自民党総裁選の激しさを覚えている。田中氏は同年5月、69人で事実上の田中派を結成し、砂防会館に入居していた。総裁選を前に田中-中曽根会談が極秘裏に行われたのは、4階の中曽根事務所だった。
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与謝野氏によると、会談は1時間弱行われた。会談後、中曽根氏は「田中氏は早口で、『ほとんどみんなが自分を支持している』と紙を見ながら説明していた」と話したという。総裁選は当初、田中、福田両氏が互角だった形勢が、キャスチングボートを握っていた中曽根派の支持を得たことで田中氏が優位に立ち、後に「今太閤」と呼ばれる田中首相が誕生した。
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与謝野氏によると「当時、同じ建物にあっても、両事務所は一切、付き合いがなかった」という。会談当日は、休日で記者の姿もなく、田中氏の早坂茂三秘書から「水を用意してください」といわれたことを不思議と覚えている。会談で中曽根氏は田中氏支持を明確にしなかったが、与謝野氏は「会えば、それで支持ということだったのだろう。
政治家同士が会談するということの意味の大きさに驚いた」と振り返った。
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田中氏は首相就任から約3カ月後の47年9月、中国を電撃的に訪問、日中共同声明を発表し、日中国交正常化を実現した。そのころ、砂防会館では、田中氏の秘書を23年間務めることになる朝賀昭氏(72)が、個人事務所の私室に、家庭に普及する黎明期(れいめいき)にあったビデオの録画装置を持ち込んでいた。“親父”の雄姿を録画するためだ。
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朝賀氏は「当時の機械は机ほども大きくて、運ぶのも録画するのもひと苦労だった。留守の親父の部屋で秘書みんなで、当時の中国の周恩来首相と飛行場で握手しているところなんかを『緊張しているね』なんて言いながら見た。たかがビデオなんだけど、生まれて初めて録画したのが歴史的な場面ということで、感慨深かった」と語る。
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帰国後、録画された映像を砂防会館の個人事務所のテレビで見た田中氏は、「いい顔しているな。この機械は、(映画を映す)幻灯機みたいなもんだ」と満足げだったという。
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しかし、首相としての田中氏の栄華は長くは続かない。49年、金脈問題で総辞職し、51年7月27日、ロッキード事件で東京地検に外為法違反容疑で逮捕された。このとき、砂防会館にも、東京地検の強制捜査が入った。朝賀氏は当時の様子を「戦場のようだった」と表現し、振り返った。
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「地検はなにもかもを持っていった。でも、いくつも部屋がある中で、検事が最初、親父の私室の捜査令状を持ってないのに入ろうとしたから『令状はあるか』という話になって、ひともんちゃくあって小一時間捜査がストップした」
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逮捕後、田中氏は個人事務所を砂防会館から引き払い、近隣のビルに移した。側近には「俺は責任を取って出ていくが、お前たちは残れ」と言い残したため、田中派の事務所などは砂防会館に残った。
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ただ、田中氏はこの年12月の衆院選では16万8522票でトップ当選。選挙の強さと砂防会館に残る田中派の鉄の結束を背景に、むしろ“闇将軍”として政界への影響力を強めていくことになる。
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自民党の派閥政治の栄枯盛衰を見つめてきた砂防会館(東京都千代田区平河町)。昭和から平成にかけ、田中派から中曽根派へと主役が移り変わった舞台は、今静かに歴史の幕を下ろそうとしている。
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■田中曽根内閣
「協力したこともあれば相反したこともあるが、際立った政治家だった」
中曽根康弘元首相(97)は平成21年12月の記者会見で、首相就任までの経緯を脳裏に浮かべつつ、田中角栄元首相を述懐した。
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昭和49年12月に発足した三木武夫内閣では、田中氏は三木降ろしに動き、中曽根氏は政権側。54年、田中氏の強い影響で「角影内閣」と呼ばれた大平正芳内閣では、大平降ろしを目指した中曽根氏と田中氏が「四十日抗争」といわれた政争で相まみえた。
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両氏が再び交じり合ったのが、中曽根氏や安倍晋太郎元外相ら4人が争った57年の自民党総裁選だ。田中氏は中曽根氏支持を決め、派閥に支援を指示した。
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砂防会館を運営する全国治水砂防協会会長の綿貫民輔元衆院議長(88)は当時、田中派に所属。「当時派内では、過去に反目した経緯などから、反中曽根が多かった」と振り返る。
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「後に副総裁になる金丸信氏が『親父のいうことに反対のやつは出ていけ』と締めた。
砂防会館の本館の玄関にみんなが集まったところに中曽根氏が来て、『みんなで応援しよう』と。あれで勢いづいた」
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■必勝、田中派選挙
かつて田中派は「田中総合病院」「田中軍団」と呼ばれた。石破茂地方創生担当相(5.8)は58年3月、田中氏の誘いで事務局職員となった。
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石破氏は、壁一面に北海道から沖縄県までの選挙区に自民党候補者の名前を書き、田中派の候補を赤い枠で囲うよう指示された。派閥幹部による応援演説のため、全国の新聞を取り寄せ選挙区情勢を分析した資料作りも命じられた。
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石破氏は「歩いた家、握った手の数しか票は出ないという田中氏の教えを、秘書まで徹底していた。自分が自民党幹事長のとき、これを根付かせたかった」と体得した政治哲学を語る。9月28日に立ち上げた石破派の事務所も、一時砂防会館に置くことを検討した。
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一方石破氏は、61年に初当選後は中曽根派に所属。重鎮の江藤隆美元運輸相から「ワシらは地鶏じゃ。エサは自分で探して歩かなくちゃいけんのじゃ」と諭され、面倒見のいい田中派と自主自立の中曽根派との文化の違いを感じたという。
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■田中派が分裂
58年12月の衆院選を経た後、田中派は最大の121人にふくれあがり、59年4月には手狭になった派閥事務所を砂防会館の別館に移した。最盛期を迎える裏で、派内では若手を中心に、大平、鈴木善幸、中曽根各氏という別派閥の首相を担ぎ、自派の後継者を育てないように見えた田中氏への不満が渦巻いていた。
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不満は60年2月、竹下登元首相らを中心に発足した派中派勉強会「創政会」として爆発する。小沢一郎氏といった子飼い議員も参画すると、田中氏は同月、脳梗塞を発症。田中派は62年、二階堂進氏のグループと、竹下派に分裂した。
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綿貫氏は「分裂時に砂防会館事務所の取り合いになり、全国治水砂防協会会長だった西村英一元厚相が『どちらも出ていけ』と一喝した」と語る。その後は両派が田中派の“正統後継”を主張して砂防会館に出入りしたが、平成6年4月の小渕派の退去で、田中派の流れをくむ派閥はすべて姿を消した。
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■中曽根氏の栄華も…
田中派の崩壊とともに、砂防会館の象徴は中曽根氏となった。しかし、63年にリクルート事件が直撃し、渡辺美智雄元副総理が中曽根派を継いだ後も、平成6年の村山富市首相指名の際に渡辺氏自身が造反するなど迷走し、派閥は10年に分裂。中曽根氏も15年10月、砂防会館の事務所を訪ねてきた小泉純一郎首相(当時)に事実上の引退勧告を受け、21年には砂防会館の事務所を閉鎖した。
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現在、砂防会館に派閥事務所を置くのは自民党の二階俊博総務会長(76)が率いる二階派のみで、かつてのにぎわいはない。
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石破氏は建て替えについて「派閥政治の象徴だった。ひとつの歴史が終わる」と遠くを見つめる。1年生議員時代、田中派に属した二階氏もこう語る。
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「政治の歴史の大きなページを占めただけに、感慨深い。新しい立派な砂防会館が建立され、新しい政治の一ページを開くだろう」
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