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ウクライナ侵攻は兄弟けんかだというが!
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スターリン時代には1700万人以上が犠牲に!
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2月下旬から始まったロシアによるウクライナ侵攻。ロシアという国の攻戦敵姿勢は1917年のロシア帝政を倒したロシア革命後、ウクライナはレーニン率いるポリシェビキの支配下にはいり社会主義思想信奉するソ連邦第2の共和国になったが、この体制下で「ウクライナの悲劇」がスタートを切り、1991年8月のソ連保守派のクーデター事件直後にウクライナ議会はソ連からの独立を決議し、国民投票を実施し90%の支持で承認された。
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独立後も東部(親ロシア)と西部の対立はエスカレートし、2014年ロシアは親ロシア派のクリミアを実効支配しロシアに編入した。これで東部のドネツク、ルガンスク両州の親ロ派武装勢力が決起しウクライナから独立宣言をした。この武力紛争で死者は1万4000人にも及び今回の両州の親ロ派の要請によりロシアが侵攻したと口実に使っている。
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このウクライナ、ロシアが紛争を起こす原因はソ連崩壊後であり、以前は公国制を取っていたルーシの民族から枝分かれした国家である。
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キエフ大公国は、9世紀後半から13世紀半ばにかけて、東ヨーロッパおよび北ヨーロッパに存在した国家。
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ルーシを称した民族として、「ルーシ族 」 かつてスラヴ人がノルマン人に対して用いたとされる呼称とも言われる。「ルーシ人」 キエフ・ルーシの人民。11世紀から20世紀半ばにかけてウクライナ人とベラルーシ人の自称。
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ルーシ:本来、現代の北ウクライナのキエフ、チェルニーヒウ、ペレヤスラウを中心とする地域の名称。中世時代におけるキエフ大公国の正式な国号。キエフ・ルーシとも言われる。
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キエフ大公国を祖国とする現代のウクライナ・ベラルーシ・ロシアの別称。
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ベラルーシ、ロシア、ウクライナの現代国家はいずれもキエフ大公国を文化的祖先とし、ベラルーシとロシアの呼称はそれに由来する名称である。
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11世紀半ばの最大時には、北は白海から南は黒海、西はヴィスワ川の源流から東はタマン半島まで広がり、東スラヴ民族の大半を束ねた。
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11世紀後半から12世紀にかけて衰退し始め、様々な地域勢力に分裂した。 さらにコンスタンティノープルの衰退によるビザンツ帝国との商業関係の崩壊、それに伴う領土内の通商路の減少など、経済的要因によっても弱体化した。1240年代にモンゴルの侵攻を受け、国家は崩壊した。
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ルーシの正式な国号の代わりに人工的な学術用語が使われている。
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キエフ・ルーシ
19世紀初頭のロシア帝国の歴史学者、ニコライ・カラムジンが『ロシア国家の歴史』において初めて用いた概念。大公座の置かれていた場所からこう呼ばれる。東スラブ人の住んでいたエリアに北欧からわたってきたヴァイキング(ヴァリャーグ人)がつくった国家
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ウクライナ=ルーシ
20世紀初頭のウクライナの歴史学者、ミハイロ・フルシェフスキーが『ウクライナ=ルーシの歴史』で初めて用いられた概念。ルーシのあった土地から命名した。ウクライナこそがルーシの後継者であるとする主張である。
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キエフ・ロシア
ロシアこそがルーシの後継者であると主張する、カラムジンの系統を汲む学者が用いる概念。
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ルーシ大公国
近世のポーランド王国とリトアニア大公国の諸年代記に見られる概念。
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最初のルーシの国家(ルーシ・カガン国)を建設したといわれるリューリクの子、イーゴリを擁した一族のオレグが882年頃、ドニエプル川流域のキエフを占領して国家を建てたのが始まりだとされている。
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キエフ・ルーシは9世紀末から13世紀にかけて、今のウクライナやロシアなどにまたがる地域にあった国。
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キエフ・ルーシが欧州域有数の大国となったのは、活発な貿易と商業の発達であり、中世の欧州は圧倒的に農村社会で、王侯や貴族たちは商業を低くみていた。キエフ・ルーシは商業を重視していた。
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モンゴルの侵攻で1240年に首都キーウが陥落すると、キエフ・ルーシは事実上崩壊します。
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ウクライナ側がキエフ・ルーシ崩壊後の継承国としているのが「ハーリチ・ヴォルイニ公国」で、キエフ・ルーシ崩壊後も1世紀にわたって現在のウクライナの西部で栄え、西部の主要都市のリビウもこの時に建設された。
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プーチンが、ロシアとウクライナは「兄弟」であり「一つの民族
」と主張し、その結び付きの始まりこそキエフ・ルーシであり、「ロシア人、ウクライナ人、ベラルーシ人は皆、かつてヨーロッパ最大の国家であった古代ルーシの子孫」という。
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キエフ・ルーシは滅亡後、モスクワを中心とする東側とポーランド・リトアニアの支配下に置かれた西側に分かれたものの、17世紀に「モスクワが再統一の中心となって国家としての古代ルーシの伝統を受け継ぐことを定めた」とロシアは正当性をいうが、、、。
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キエフ・ルーシは滅亡後、西ウクライナに栄えたハーリチ・ヴォルイニ公国に継承されたという考えがあります。『最初のウクライナ国家』とも呼ばれるこの公国の系譜が現在のウクライナまでつながるとされています。そのため、ウクライナ側は“自分たちこそキエフ・ルーシの正統な継承者だ”と主張している。
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今でもキエフルーシの相続人は我が国だと名乗り出ている国は数か国ある。
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この相続問題はロシアやウクライナ、ベラルーシに限定された問題ではない。中世後期よりヤギェウォ朝のポーランド王国もまたルーシの相続人を自認した。
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近世に入ると、ポーランドはキエフを含めたかつてのキエフ・ルーシの領域の大半をキエフ県として領有することとなり、またリトアニア大公国との制度的同君連合であるポーランド・リトアニア共和国によって上記ハールィチ・ルーシ及びリトアニア・ルーシの正当な継承権を獲得、将来的にはモスクワの領域もポーランドの版図に加えられるべきであると主張していた(ポーランド・ロシア戦争)。
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しかし、ソ連の影響力のもと、ポーランドの主張は影を潜め(加えて、第二次世界大戦後に、国境線が西方に移動したことに伴い、ポーランドでは専らピャスト朝の相続人であることが強調されるようになった)、ソビエト連邦の崩壊によりウクライナが独立すると、ポーランド・ウクライナ関係に配慮することが定着し、ルーシをポーランド領とする主張はなりを潜めたが、ポーランド人の間ではルーシを未開の辺境地帯と捉える傾向は定着している。
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ウクライナの主張は同国の独立により国際的にも広く知られることになったが、他方でキエフ・ルーシの歴史を独占(他国の祖でもあることを認めずに)しようとする一部の過激な見方には反発もある。
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旧ソ連の衛星国はキエフ・ルーシの出身民族だといえよう。それにしても、ウクライナは「ソ連・ロシアに民族を1700万人以上殺されている。
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