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故松嵜明の原点に帰るという言葉!
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JR総連、JR東労組や北鉄労などの中心にいる革命分子の労組員が、鉄道を麻痺さ せようと企んだ本年2月。世の中、一見静かそうに見えるが、裏では世を騒然とさせようとしている連中がいるのも事実だ。
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このような労働争議が起きようとしていても、一般国民は気づきもしない。最近 は、地震、津波で鉄道やインフラがストップし、止まるという不便さに慣れてしまったのだろうか。かえって、怖いような気がする。
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騒然とする鉄道と言えば、
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国鉄三大ミステリー事件と言うのが戦後間もなく、日本が連合国軍の占領下にあ
った1949年の夏に相次いで発生した、日本国有鉄道にまつわる真相に謎が残る三つの事件のこと。
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国鉄総裁、謎の死「下山事件」!
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昭和24年、まだ日本が連合国の支配下にいたころの事件。
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当時国鉄の総裁に就任したばかりだった下山定則が通勤途中に失踪し、翌日死体で発見された事件。
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機関車による轢断は生前か死後か、遺体に大量付着していたヌカ油はなんなのか、
激しい議論が沸き起こりました。
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捜査一課は「自殺説」を主張し、警視庁捜査二課は「他殺説」を主張していましたが、最終的に警視庁は正式な捜査結果を発表しないまま、捜査を打ち切りました。
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無人列車が暴走!多数の死者と負傷者が出た「三鷹事件」
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故意にレールが外され、列車が脱線!「松川事件」
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これら3つの事件を総称して、旧国鉄三大事件という。
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下山事件
1949年(昭和24年)7月5日
日本国有鉄道初代総裁・下山定則が出勤途中に失踪、翌日未明に死体となって発見された事件。
戦後日本で起きた怪事件の数々。その背後には、当時日本を占領していた米国・GHQが陰謀の限りを尽くし暗躍する姿があった。
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国鉄の下山定則総裁が登庁途中に三越本店に入り、そのまま行方不明になった。翌6日、東京都足立区綾瀬の常磐線線路上で、れき死体で発見された。6日は国鉄の3万人以上の第1次人員整理案発表予定日で、政府は「他殺と推定」との公式見解を発表した。警視庁は自殺説をとったが、遺体を鑑定した古畑種基東大医学部教授は「死後れき断」を主張した。占領軍政下の謀略事件とする説もあるが真相は不明
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線路に散乱した総裁の遺体は、陰惨なものだった。饒舌だった下山定則。この人は、歴史に対して自らの死因すら説明しないまま、この世を去ってしまった。
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「戦後史最大の謎」と呼ばれる下山事件は、その沈黙から始まっている。社会に自殺・他殺論争を巻き起こし、以後半世紀にわたって数え切れないほどの主張がメディアで展開されてきた。にもかかわらず、いまだ誰もが納得する答は出ていない。
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「下山事件」とは
昭和24(1949)年7月5日、朝9時30分すぎ、下山定則国鉄総裁は出勤の途上、公用車を待たせたまま三越日本橋本店に入り、そのまま謎の失踪を遂げた。
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7月6日、早朝の事件現場総裁の行方不明を知った警視庁では午後2時ごろ極秘捜査を開始、午後5時すぎから公開捜査に踏み切った。だが失踪から15時間後、常磐線の北千住と綾瀬駅間で、総裁は轢死体となって発見された。
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遺体を発見したのは松戸ゆきの最終電車、いっぽう轢断したのは6分前に現場を通過した869貨物列車だった。この列車は機関士の寝坊と蒸気圧の低下により操車場を8分遅れで出発していた。またヘッドランプは不調により通常のワット数を満たしていなかった。このことが後に乗務員のみならず田端機関区に対する疑惑を招くことになる。
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6日早朝、轢断現場で東京都監察医務院の八十島医師は、死体の検案を行なった。
その結果「自殺あるいは過失による轢死」と判断した。だが、総裁の当時置かれて いた立場を考慮して、司法解剖をすることを進言した。
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それは、総裁失踪の前日、国鉄は3万700人の従業員に対して第一次整理通告を出したばかりだったからだ。
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ドッジ昭和24年当時、この国は、冷却化する米ソ関係の狭間にいた。中国では共産党がほぼ全土を掌握、朝鮮半島では南北の対立が、ドイツでは東西の対立が深刻化していた。
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このような状況下、アメリカは日本を西側陣営の一員として自立させる必要があった。それには物価上昇率60%というインフレにあえぐ日本経済を安定させることが先決だった。
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そこで打ち出されたのがGHQ経済顧問ドッジの提言にもとづく緊縮財政策、いわゆるドッジ・ラインだった。企業に対する融資は引き締められ、倒産あるいは人員整理に追い込まれる民間企業が相次いだ。
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公務員も例外ではなかった。6月1日、吉田茂内閣によって行政機関職員定員法が施行された。これにより公務員で約28万5000人、国鉄で約9万5000人という史上空前の人員整理が行われることになったのだ。当然この人員整理は民間にも波及するだろう。敗戦により打ちひしがれたこの国に、百万人以上の失業者が生まれるという試算も、決してオーバーではなかったのである。
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同じ6月1日、日本国有鉄道が公共事業体として発足し、初代総裁として前運輸次官の下山が就任した。総裁職には民間からの起用も検討されていたが、人員整理を進んで引き受ける者など誰もいなかった。やむを得ず下山が了承したのだった。下山としては総裁職は当座のつなぎであり、人員整理が終わったら辞任する覚悟であったという。
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吉田内閣の容赦ない人員整理政策に対して、労働者や日本共産党も対決の姿勢を鮮明にしていた。共産党の徳田球一、野坂参三らは「9月までに吉田内閣を打倒し、人民政権を樹立する」と発言、「9月革命説」が公然と国民の間で語られるように
なっていた。
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GHQの支配下で[革命が起こせると彼らが本気で考えていたかどうかは疑問]だが、この時期を前後して、革命を意識した労働争議が頻発している。
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日本製鋼広島製作所では1500名の従業員が人民政府の樹立を叫んで工場を占拠した。東芝の新潟加茂工場では組合による生産管理が行なわれ、6月30日には福島県平市(現いわき市)で炭鉱労働者や共産党員、応援の市民により警察署が占拠され、赤旗が振られる「平事件」が発生している。
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下山総裁を待ち受けていたのもこうした急峻な労働攻勢だった。6月9日から新勤務制に反対して国電ストライキが行なわれた。そのさ中、「人民による電車の運行管理」を決議した赤旗組合員が、赤旗を振りながら電車を走らせる「人民電車事件」が発生している。
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6月26日、国鉄労働組合(委員長不在のため、副委員長の鈴木市蔵が実質的な最高責任者)は「第十五回中央委員会(熱海会議)」において、「最悪の場合ストを含む実力行使」を決議している。また「平事件」に際して、宮城県から応援に駆けつけようとする警官を乗車拒否する騒動も発生していた。
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6月27日、ソビエトからの引き揚げ再開の第一船、高砂丸が舞鶴に入港した。共産主義の洗礼を受けた復員兵たちは、インターナショナルを高らかに歌いながら、歓迎の赤旗と入り混じった。
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この時期、国鉄では時流に乗った何者かによる列車妨害工作が頻発していた。下山事件の起きた7月には微小なものまで含めると1574件の妨害工作が報告されている。
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7月2日、労働組合側と国鉄当局の交渉も最終段階を迎えた。下山総裁は鈴木市蔵副委員長らの眼前で突如として話し合いの打ち切りを宣言、苦渋に満ちた顔つきで退室する。鈴木らは突然のことに無言でこの退場を見送らざるを得なかった。
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熱気は際限なく高まりを見せるようにも思えた。
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7月4日、マッカーサー元帥は「共産党の非合法化もありうる」という内容の声明を発表した。共産党が恐れていたのは、何よりも自分たちの党が非合法化されることだった。この声明は9月革命の幻想を打ち砕くのに充分有効だった。同日、国鉄の第一次整理が発表されたのである。
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下山事件はその直後に発生した。総裁の死を誰もが他殺と考えたのは当然のことだった。
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昭和24年7月5日(1949年。 69年前の7月5日) AM8:20、国鉄の下山定則総裁は、馬込文学圏(現・上池台二丁目)の自宅を公用車で出ました。AM9:37頃には、運転手に「5分くらいだから待ってくれ」と告げて日本橋の三越に入店、しかしその後、消息を絶ってしまうのでした。
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24:00をわずかに回った、翌6日の午前0:30頃、国鉄常磐線の北千住駅と綾瀬駅の間で、下山総裁の礫死体が発見されます。
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戦後の混乱に乗じて、多くの国で共産党が勢力を伸ばしていました。日本も例外でありません。それを危懼して、占領軍は、日本を西側の国として自立させるべく経済的な梃入れをします(ドッジ・ライン)。それを受けて下山総裁は、前日(7月4日)、国鉄職員3万700人の解雇を通告したばかりでした。
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事件はその翌日に起きたのです。
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ですから、とうぜん、上の状況が事件に影響したとの見方がでてくるわけです。占領軍と労働組合の板挟みなった心労から鬱状態になって自殺したという見方、国鉄幹部を憎んだ労働組合員が殺したという見方、労働組合員の犯行に見せかけそのイメージを失墜させようと企んだとする謀略説が飛び交います。
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翌日行われた東大での司法解剖では、列車に接触した時に生じるはずの生体反応がほとんど見られないことから、死後轢断という結論がでました(古畑鑑定・・・他殺説)。現場の手前180mに点々と血痕があるなど他殺説を裏付ける事実も見つかり、警視庁捜査一課(強行犯の捜査を行う)と「朝日新聞」をはじめとする多くのマスコミがそれを支持しました。
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しかし、消息を絶った三越から現場までの区間で下山総裁と思しき人物の目撃情報が20件以上もあり、また下山総裁の苦悩する姿も浮き彫りになって、自殺説も濃厚になってきます。慶応大学の中舘教授などは古畑鑑定を疑問視しました。そのようなこともあって、警視庁の捜査二課(知能犯の捜査を行う)と検察庁、「毎日新聞」などがそれを支持しました。
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政治的干渉もありました。労働組合の犯罪にしてその勢力を削ぎたい政府(吉田内閣。占領軍からの指導があったかもしれないが)は、自殺説にならないよう捜査本部に圧力をかけています。公正な捜査を妨害する許されぬ行為です。自殺説を印象づける捜査本部の報告書(下山白書)が漏洩しますが、それは、意図的な漏洩でありフィクションであると朝日新聞が批判しました。いっぽう、日本共産党は、労働組合の関与を否定する自殺説をとっていましたが、のちに、労働組合に罪を着せようとした占領軍の謀略という立場を取るようになります。
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10年後の昭和35年には、占領軍の謀略と推理する松本清張の『日本の黒い霧』が出版されました。占領が解除されたこともあって某略説がブームになります。昭和48年に出版された矢田喜美雄の『謀略・下山事件』には、死体を現場まで運んだ人の証言がのっています。これは「日本の熱い日々・謀殺・下山事件」という映画になります。
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反対に、昭和39年には、「毎日新聞」記者の平正一が『生体れき断』で自殺説を主
張。さらに10年した昭和45年には、捜査一課の刑事だった関口由三が『真実を追う』で自殺説への確信を示しました。昭和51年には、他殺説に疑問をもった佐藤一が自殺説の集大成『下山事件全研究』を出します。佐藤は松川事件の元被告で共産党員でしたが、このことで某略説を取る日本共産党から除名されています。共産党には異説をかかえるだけの度量はないようです。
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その後も、自殺説、他殺説、某略説をとる本が出版され続けています。
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真実はいかに?
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<下山事件捜査記録等の公表に関する質問主意書>
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第61回国会
昭和四十四年七月二十八日提出
質問第一三号
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下山事件捜査記録等の公表に関する質問主意書
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右の質問主意書を提出する。
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昭和四十四年七月二十八日
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提出者 松本善明
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衆議院議長 松田竹千代 殿
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下山事件捜査記録等の公表に関する質問主意書
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下山事件は、昭和二十四年七月五日に発生して以来、既に二十年を経過したにもかかわらず、アメリカ占領軍による謀殺の疑いをもたれたまま、政府がその真相を明らかにすることなく今日にいたつている。しかも政府は、下山事件に関する検察警察当局の捜査記録が、自殺説を主張する者の手によつて恣意的に利用されているのを黙認している。
下山事件の真相を明らかにすることは、下山国鉄総裁(当時)を殺した真犯人を明らかにするうえでも、また、アメリカ占領軍の日本占領当時おこなつた検察警察にたいする支配と介入の実態を明らかにするうえでも、全国民の切望するところであるので、以下の質問をする。
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一 元警視庁捜査第一課主任関口由三は、株式会社評論新社が発行している月刊雑誌「新評」一九六九年七月号に、「下山元国鉄総裁“自殺”の証拠」と題する手記を発表した。
この手記には、関口自身が「この事件の捜査の経過を、私の当時の日記をもとにして公開し、下山事件の真相を世に問おうという気持」(三一頁)で書くことにしたと述べているように、関口自身の捜査日記にもとづく捜査会議、検察警視庁両首脳会議その他捜査に必要な重要会議の内容の公開、関口自身が取り調べにあたつた十数名の参考人にたいする供述調書の引用など、捜査に関する記録の引用や要約が随所に記されている。また、この手記の中には同僚警察官の記録である「堀崎メモ」まで使用されている。
1 関口由三が警察官として在職中知りえた捜査に関する記録を公表することは、地方公務員法第三十四条の規定に抵触するのではないか。抵触しないとすれば、その理由はなにか。
二 関口由三は、同手記の中で「当時事件に関係した先輩、同僚の了解も得て」(三一頁)発表すると述べており、また同手記を紹介した「サンデー毎日」昭和四十四年六月十五日号では、関口由三の談話として同人が「警視庁の了解も得られた」(五〇頁)と述べたことが記されている。
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1 これは事実か。
2 事実であるとすれば、誰が了解を与えたか。
3 このような了解ないし公表の許可を与えうる警察部内の責任者は誰か。
4 前項の許可を与える法的根拠を示せ。
三 関口由三は、前掲の手記の中で「また幸い記録や資料が手許にあつた」(一
〇二頁)と記し、捜査記録をうず高く積んだ写真を掲載している。
1 このような捜査に関する記録や、警察官が在職中職権をもつて集収した物件が、個人の私物同様のあつかいで、退職した警察官の手もとに置くことは許されているか。
2 警察官が警察から供与ないし貸与されたもの、および警察手帳等警察官の職権によつて捜査した内容が記入してあるものについては、その警察官が退職するさいは警察当局に返納するなどの規定があると考えるが、その関係する規定を全文示されたい。
四 下山事件は日本の政治社会にきわめて大きな影響を及ぼした大事件であり、これに関するすべての資料は、内閣が責任をもつて保管すべきものと考えるが、政府は、下山事件に関するどのような資料を、どのような方法で保管しているか。また、将来どのように保管しようとしているか、明らかにされたい。
五 下山事件の時効が間近に迫つた昭和三十九年六月二十六日の衆議院法務委員会において下山事件の資料の公表と捜査記録の提出を求められたのにたいして、当時の法務省竹内寿平刑事局長は「(全捜査の結果及び鑑定書を何らかの形で発表する用意は)東京地検当局に検討させているが結論は得ていない」という趣旨の答弁をしている。
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1 今日既に事件発生以来二十年を経過しているが、鑑定書の全文及び捜査に関する全記録を公表する考えはないか。
2 公表する考えがあるとすれば、どの程度どのような方法で公表する考えか。
3 公表しないとすれば、その理由はなにか。具体的に示されたい。
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右質問する。
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衆議院議員松本善明君提出下山事件捜査記録等の公表に関する質問に対する答弁書
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昭和四十四年八月五日受領
答弁第一三号
(質問の 一三)
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内閣衆質六一第一三号
昭和四十四年八月五日
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内閣総理大臣 佐藤榮作
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衆議院議長 松田竹千代 殿
衆議院議員松本善明君提出下山事件捜査記録等の公表に関する質問に対し、別紙答弁書を送付する。
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衆議院議員松本善明君提出下山事件捜査記録等の公表に関する質問に対する答弁書
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一 月刊雑誌「新評」一九六九年七月号に掲載された「下山国鉄総裁“自殺”の証拠」と題する関口由三氏の手記の内容のなかで、地方公務員法第三十四条第一項の「秘密」に該当するものがある場合には、同項違反となる。
前記手記の内容が同項にいう「秘密」に該当するか否かの認定は、警視庁当局において行なわれるべきものであるが、同当局の認定によれば、これらの内容中秘密に該当するものはないとのことであるので、右手記の公表が同項違反となることはありえないものと考える。
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二 1および2について
関口由三氏とともに当時捜査に従事した先輩・同僚はすべて退職しており、関口氏が下山事件に関する手記を公表することについて、これらの先輩・同僚にどのような了解を得たかはつまびらかでないが、新評七月号にあのような手記を公表することについて警視庁当局が了解したことはないとのことである。
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3および4について
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当該事項が秘密である場合には、公表の許可を与える法的根拠はない。
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三 1について
警察官が職権に基づいて作成した捜査書類や職権に基づいて収集した証拠物は退職後手もとにおくことは許されないが、備忘等のために記帳したメモ類は差しつかえないものと解する。
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2について
警察官に対しては、被服が支給され、警察手帳等が貸与されている。これらの返納については、警察法施行令第十一条に、「警察庁の警察官及び皇宮護衛官が失職し、退職し、休職を命ぜられ、又は臨時待命を命ぜられ、若しくは承認された場合には、その者は、使用期間の満了しない支給品及び貸与品を国に返納しなければならない。警察庁の警察官及び皇宮護衛官が死亡した場合には、長官は、使用期間の満了しない支給品及び貸与品を国に返納するための措置を講ずるものとする。」という規定がある。都道府県の警察官についても、これに準ずる(警察法第六十八条第二項参照)。
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四について
検察庁関係の分の主なものとしては、本件に関する鑑定書がある。この鑑定書は、現在、東京地方検察庁において保管中であるが、今後、刑事参考資料として保管
することを検討中である。
警視庁においては、実況見分調書、警察官の捜査報告書、参考人供述調書等を警視庁捜査第一課の資料格納室に永久保存資料として厳重に保管している。
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五 1および2について
鑑定書の全文および捜査に関する全記録を公表する考えはない。
なお、昭和三十九年六月二十三日衆議院法務委員会の資料要求に基づき、鑑定事項と鑑定結果を提出している。
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3について
鑑定書の全文および捜査に関する全記録を公表することは、死者および遺族等関係人の名誉および感情を著しく毀損するおそれがあり、また、今後におけるこの種事件の捜査に支障をもたらすおそれがあるなど、検察運営上好ましくないので、この際、公表をさしひかえるものである。
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右答弁する。
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【松本善明家女中怪死事件】
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1959年2月26日、弁護団の1人であった松本善明・いわさきちひろ夫妻が外出し たあと、松本家のお手伝い・Y子さん(20歳)が旧千川上水の路上で3人の男に囲まれ誘拐された。Y子さんは車で遠くまで連れ去られ、平屋の家の一室に閉じ込められ松本家のことや家に出入りする客についてしつこく尋問を受けた。途中、リーダー格と見られる男が他の人間を帰し、その男が見えない隙にY子さんは窓から飛び降り、下落合駅まで走って逃げた。監禁場所である平屋については、その後調査されたが、その所在はついに発見できなかった。
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Y子さんは幼い頃に迷子となって、大阪の孤児院で育った。迷子になる前、どんな家庭で育ったのかは一切わからない。49年に中学を卒業した後、いくつかの家でお手伝いをして、53年7月から松本家に住み込みで働き始めた。
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誘拐事件の後、Y子さんは胃を悪くし、出身地である大阪に戻り、3月19日に市立病院に入院した。病名は亜急性胃炎だった。ところが4月2日午後、急性心臓衰弱のため亡くなった。
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ちひろさんが週刊誌の取材に話したところによると、Y子は誘拐される前から何かに怯えている様子だったという。無口だった少女は、ちひろさんに何かを伝えたい様子だったとも松本氏の著書の中で記されている。
Y子さんの育った孤児院の保母で、「お母さん」と呼ばれていた女性は、松本夫妻に「Y子が”こわいめにあった”と言っていた」と話していたが、それ以上のことは何も話そうとしなかった。
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さらにY子さんが死亡した時、勤務していた病院の医師もその後怪死している。
ある夜、病院の建物で彼の退職パーティーが開かれたときのことである。窓を背にして座ったその老医師は、途中立ち上がろうとした。その時、彼はよろめき後ろの窓にぶつかったが、鍵がかかっていたはずの窓が開き、2階下のコンクリート上に転落死していた。
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Y子さんをめぐって謎なところがふたつある。
まず彼女のカルテには2日間の空白があった。担当していた女医も、「Y子さんを探したことがあった」と話していた。Y子さんはこの間、再び誰かに連れ去られていたのか、自分から出て行ったのか、それはわからない。
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二つ目は誘拐される前の1958年暮れ、Y子さんが突然「大阪に帰りたい」と言い出したことがあった。ちひろさんは「もうすぐ休みだから、それまで待って欲しい」と頼んだが、「どうしても帰りたい」と言った。それでとうとうY子さんを帰すことになったのだが、大阪に着くか着かないかの時間に帰ってきた、というものである。
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松本氏は東大法学部在学中の1948年に共産党へ入党。松川事件は司法修習生の時に発生した。
松本邸では1954年1月21日にも空き巣被害があった。この事件では、松本氏の友人の入党の決意を書いた手紙2通だけが盗られていた。
この後、しばらく松本氏とちひろさんは外出すると数人の男から尾行を受けた。それも密かに後ろを歩くのではなく、堂々としたものだったらしい。
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【米軍謀略説】
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弁護団は、「アメリカ情報機関の下部組織の可能性が強い」と指摘。
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ノンフィクションライター・礫川全次氏は著書「戦後ニッポン犯罪史」(批評社)のなかで、米軍関係機関による謀略であった可能性について、以下のようにまとめている。
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「当時、中国では中共軍の優勢が決定的となっていた。続いて南朝鮮(韓国)、 本に人民政府ができると信じる者が多かった。日本国内でも共産党主導による政治的闘争が激化しており、”9月革命説”が巷間に流布されていた。特に福島県では、共産党の攻勢が目立っていた。6月30日には、共産党員を中心とする群衆が平市警察署を占拠する平事件が起きている。こうした状況のなかで、CIC(米陸軍諜報機関)などの組織が、日本共産党の犯行に擬した謀略行為を画策した可能性は充分にある。米軍関係機関が関与したと思わせる証言や事実は少なからずある」
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特に平事件の時には、警察署を襲撃した人間のなかに「この革命派全国的な革命であり、中共軍もまもなく上陸して来るからここを占拠しているのだ」と言い放っている者さえいた。
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この事件と前後して、福島市で米の掛売り実施を標榜した無届デモをおこない、開会中の県議会に押しかけ、警備員の制止もきかず傍聴席から多数の赤旗を垂れ下げた”県議会赤旗事件”、このデモで逮捕された被疑者奪還のための”福島市警察署強訴事件”なども起こっていた。
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松本清張氏も「日本の黒い霧」のなかで米軍謀略説(日本人の下請け含む)をとっている。
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1945年。
この年の1月から7月10日までの6ヶ月の間に686件の列車妨害事件が起こっている。前年の妨害事件総数が600に満たないため、その多さは異常とも言えた。妨害事件の多くはは置石。その他に信号機の破壊、連結器を途中で外れるように仕掛けるなどがあった。犯人の捕まった150件のうち、前国鉄職員によるものが20名。一
様に「クビを切られた恨みをはらすため」とその動機を語っている。
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つづく
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