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1955年・極左暴力主義と手を切ると発表した共産党!
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離脱した在日朝鮮共産党員による朝鮮総連が結成された!
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時代が代わり総連も変わっただろうという世の中の観測にもかかわらず、「北朝鮮とのつながり」が、総連の存在根拠という点は変わらない。
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総連は、1955年5月25日、日本で左翼労働運動をしてきた韓徳銖(ハン・ドクス)を中心に結成された。その後、総連は、日本と国交がない北朝鮮の公館機能を担い、北朝鮮指導部に対する「金づる」の役割もした。南北の体制対決が熾烈だった1960、70年代には、在日本大韓民国民団(民団)に対して、日本での「南北代理戦」を行ない、「対南工作の日本内拠点」として悪名をとどろかせた。
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日本の小泉純一郎首相は、総連50周年を迎えて送ったメッセージで、北朝鮮の核開発放棄と日本人拉致問題が早期に解決されてこそ、日朝国交正常化交渉に乗り出すという既存の立場を繰り返した。
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日本共産党の不破哲三議長が、朝鮮総連結成五十周年記念レセプションでおこなったあいさつ。あいさつ文は長くなるので、項目だけを記載する。
・日朝平壌宣言を堅持し、その生きた力を発揮させる
・拉致問題――最初の決断は一連の問題に誠実に対応してこそ友好への道につながる
・拉致協議前進のカギは「特殊機関」の問題の解決にある
・交渉打ち切りや「力の政策」など平壌宣言にそむく態度をいましめあう
・「非核化」での六カ国合意こそ安全保障の最善の道
・私たちは、現状の打開に力をつくす用意がある
私たちは、あなたがた朝鮮総連との関係を、五年前に正常化しました。こうして再建された新しい関係が、日朝関係の前向きの打開と諸問題の解決、平壌宣言が最終目標と定めた国交正常化のために役立つことを願って、あなたがたの組織の結成五十周年に当たってのお祝いのあいさつとするものです。
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2007年7月18日に死去した日本共産党の宮本顕治元議長が「自主独立路線」を築く以前の1950~60年代、同党が旧ソ連や中国から多い年で年間計40万ドルの資金提供を受けていたとの情報を米中央情報局(CIA)がつかんでいたことが、機密指定を最近解除されたCIA報告書で明らかになった。 日本共産党がソ連から資金援助を受けていたことは、ソ連崩壊後に解禁されたロシアの公文書で判明しているが、CIAも中国ルートを含めた資金の流れを掌握していたことが分かった。報告書は、共産党に対する外国の年間資金援助額を30万~40万ドルと見た場合、同党年間収入の約4分の1に達していたことになると指摘している。
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週刊新潮(05年6月2日号)掲載
「日本共産党史」から消された「朝鮮総連」結成秘話!
ジャーナリスト 林 玲
【2005年5月25日、朝鮮総連(在日本朝鮮人総連合会)が、創立50周年を迎えた。北朝鮮を支持する在日団体として、何かと話題になることが多いが、かつての日本共産党との深い関わりを知る人は少ない。日本革命を共に目指した在日朝鮮人のコミュニストの多くが、総連結成に参加したのである。党史から抹殺された秘話をジャーナリスト林玲氏がレポートする。】
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今では党史のどこにも書かれておらず、すっかり忘れ去られているが、実は日本共産党は戦前から戦後にかけて、在日朝鮮人と共に歩み、大いに助けられた。
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共産党と在日朝鮮人の関係を辿ってみよう。
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1922年(大正11年)の創立時から、共産党は植民地解放の方針に基づき、朝鮮の独立を綱領に掲げた。コミンテルン(共産主義インターナショナル)の方針で、1930年代以降、日本在住の朝鮮人共産主義者は、日本共産党に所属した。ちょうど在米中の片山潜がアメリカ共産党に所属し、在仏中のホー・チミンや●小平(●=トウ=登にオオザト)がフランス共産党に入党したのと同じである。
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戦前から、日本共産党のもとに多くの在日朝鮮人が集っていた。例えば、共産党系の労働組合の全協(日本労働組合全国協議会)は、最盛時の1931年(昭和6年)ごろ、組合員数は3万人だったが、うち3割を朝鮮人が占めていた。
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1945年(昭和20年)、敗戦の年の10月、徳田球一ら共産党幹部が、府中刑務所を出獄した。その際、<歓迎 出獄戦士 万歳>の幔幕を掲げ、熱狂的に出迎えたのは、数多くの朝鮮人だった。その後、催された歓迎大会の会場を設営したのもまた朝鮮人党員である。彼らが待ちわびていたのは、獄中15年の不屈の闘士、金天海であった。金天海は在日朝鮮人から圧倒的な支持を集めていた。
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その年の11月、共産党は再建の第一歩として、第4回党大会を準備するため、全国協議会を開催する。全国から300人の代議員が東京・代々木の本部に集まり、行動綱領草案、規約草案、日本共産党の当面の政策を採択した。さらに、一ヶ月以内に第4回党大会を開催することも決定する。その準備委員に選任されたのが、徳田球一、志賀義雄、袴田里見、金天海、宮本顕治、黒木重徳、神山茂夫の7人だった。この名簿順位は、当時の党内ランクを示している。
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会議では、金天海を責任者として、朝鮮人部を設置することも決めた。実は、日本共産党の再建資金のほとんどは、当時の在日組織である朝連(在日本朝鮮人連盟)が提供している。このことは、党史には一行も触れられていない。金天海は、同年12月1日に開かれた共産党第4回党大会で、7人の中央委員、5人の政治局員の一人となった。この党大会では中央委員候補に、同じ在日の宋性徹も選ばれている。
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翌46年(昭和21年)2月の第5回党大会では、同じく在日の金斗鎔、朴恩哲、保坂浩明(李浩明)も中央委員候補となり、後に遠坂寛(崔斗煥)も加えられた。第5回党大会当時の党員数はおよそ6000人。うち約1000人が朝鮮人だったという。一大勢力であった。
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金天海は、1898年(明治31年)、慶尚南道蔚山生まれ。本名を金鶴儀といった。1920年(大正9年)、仏教の勉強のために来日。日本大学社会科に入学したものの中退し、運動に身を投じた。活動家としてすぐに頭角を現し、1920年代には、早くも在日朝鮮労働総同盟(在日労総)委員長に就任。朝鮮共産党日本総局責任秘書も歴任する。責任秘書とは、今でいえば総書記とか書記長ということで、実質的な組織の責任者であった。人情家で在日朝鮮人の間では信望が厚かった。
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筋金入りのコミュニストだった金天海は、戦前、2度投獄された。戦後、出獄後に朝連の最高顧問に就任している。
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1949年(昭和24年)、朝連が強制的に解散させられる際、金天海は公職追放を受け、北朝鮮へ密出国する。北朝鮮では朝鮮労働党中央委員、社会部長、祖国統一民主主義戦線議長、最高人民会議常任委員を務めるなど、要職にあった。しかし、1970年代の金日成個人崇拝の高まり以降、消息は全くわからない。
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■在日は少数民族
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金天海が、戦後再建時の日本共産党で、5人の政治局員の一人であったことをみても、在日団体に対する共産党の影響力が大きかった、というよりもむしろ、日本共産党における朝鮮人の役割がいかに大きかったかがわかる。共産党が、在日団体である朝連などへの指導をぶれることなく続けられたのは、「朝鮮フラクション(支部)」を設置していたからだった。
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この組織は1947年(昭和22年)1月26日、金天海のもとで、責任者に「朝鮮民衆新聞」を創刊した朴興奎、後に朝鮮総連初代議長となる韓徳銖ら6名の委員と、4名の委員候補からなっていた。敗戦直後から、在日朝鮮人の間で、子弟に対する民族教育をしたいという要求が高まっており、在日団体が自然発生的に各地につくられた。
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それらをまとめ、相互扶助的な団体として、<全日本に在留する240万同胞の生命と財産を保護し、あらゆる権利を主張すべき唯一の代表機関>を宣言して、1945年10月15日に結成されたのが、朝連、在日本朝鮮人連盟であった。
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当時を憶えている在日の古老たちによると、「味噌とか醤油とか木炭を配給したりして、今でいう生協のようなものだった」「隠退蔵物資を摘発して、在日の商工業者へ原材料を提供することもやっていた」という。在日朝鮮人の運命は、激動する国際情勢にゆさぶられ続けていた。第二次世界大戦の戦後処理問題討議のため、米英ソ3国の外相会議が、1945年12月、モスクワで開催された。
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朝鮮については、<米ソの協議により朝鮮民族の臨時民主政府の樹立を準備し、米ソ両国は5年間の信託統治を実施する>ということが決まった。この決定は、朝鮮民族を信託統治に対する賛成、反対で二分し、南北に別々の政府が樹立されるきっかけとなる。朝連は信託支持であり、一方の反信託側は、46年10月に民団(在日朝鮮居留民団)を結成。それ以降、在日団体は二分されることになった。
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1949年(昭和24年)3月27日、朝連は他団体とともに大阪の扇町公園で、吉田内閣打倒人民大会を開催する。大会後、デモ隊と警察官が衝突し、重軽傷者は16人にのぼった。同年6月11日には、朝連の参加する公安条例反対共闘委員会が、皇居前広場におよそ5万人もの参加者を集めて大規模集会を開催する。朝連の活動は活発だった。
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日本政府は朝連を恐れるようになっていく。その年の9月8日、朝鮮民主主義人民共和国建国1周年の前日、朝連を強制的に解散させる。団体等規制令に抵触したという理由だが、背景には、冷戦の進行、中国大陸で共産党政権樹立という状況があったのである。
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朝連解散後、日本共産党は民族対策部(民対)を設置する。民対は前身の朝鮮人部と同じく、主として在日党員で構成されていた。朝鮮戦争勃発の翌年の51年(昭和26年)1月、在日朝鮮人統一民主戦線(民戦)が結成される。民戦は議長団の一人に民団の副団長である李康勲が加わるなど、当初は何とか統一戦線であろうとした。
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李康勲は、熱烈な民族独立運動家で,
“北朝鮮支持”は決して口にしなかった人物である。しかし、結成から3年後の1954年(昭和29年)、李康勲は、<民戦は民族団体ではなく、日本共産党の尖兵>という声明を発表して民戦を離脱する。
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実際、民戦は“オモテ”の顔としては日本国内の在日朝鮮人組織の統一戦線であったが、“ウラ”の顔としては、共産党の民族対策部の指導下にあった。そのため、活動に参加した朝鮮人党員の多くは、1951年2月の4全協(第4回全国協議会)で決定された“武装闘争”の前面に立つことになり、大きな犠牲を出してしまう。
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なぜ、多大な犠牲を払ってまで“在日朝鮮人”は、共産党の“武力闘争”の方針に積極的に従ったのか。実は、4全協では在日朝鮮人を、戦時下の日本政府にならったのかどうか、<日本のなかの少数民族>と規定したのである。この規定では、在日朝鮮人は外国人ではないことになる。つまり日本革命をなし遂げることなくしては、在日問題は何一つ解決しない、とされたのである。
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■大量だった在日の逮捕者
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その年の8月19日、共産党第20回中央委員会総会で、『日本共産党の当面の要求――新しい綱領』、いわゆる51年綱領の草案が提出された。51年綱領は、平和革命の可能性を全面的に否定し、4全協で採択された軍事方針を正当化し、山村工作隊活動や火炎ビン闘争を展開する極左冒険主義方針の根拠となった。
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綱領草案は、10月16日の第5回全国協議会(5全協)で採択された。『日本共産党の60年』や『日本共産党の70年』など公式の党史は、極左冒険主義や軍事方針は当時の、“徳田球一書記長を中心とした分派”がやったこととして、責任を回避している。
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しかし、分派闘争、内部の勢力争いにうつつをぬかしたのは、徳田、宮本顕治(のちに書記長、中央委員会議長)などひと握りの幹部たちだけであった。朝鮮人党員を含めて大部分の党員は、共産党の方針を正しいと信じて、身の危険をかえりみず忠実に参加したのである。
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共産党の軍事方針のもとで、いくつもの騒乱事件が起きた。1952年(昭和27年)の5月1日、第23回メーデーで、デモ隊と警官隊とが衝突したいわゆる“血のメーデー事件”がある。戦後、皇居前広場は“人民広場”と呼ばれ、たびたび集会場として使われてきたが、その日、政府は使用禁止とした。だが、メーデー参加者たちは広場に突入。在日朝鮮人はデモ隊の先頭で警官隊に対峙した。
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この事件では在日朝鮮人から多くの逮捕者(1232名中130名)が出た。広場になだれ込んだ2万人のうち、5000人が在日だったといわれる。その年、大阪で起きた吹田事件(6月25日)、名古屋の大須事件(7月7日)でも、多数の逮捕者が出た。吹田事件の在日の逮捕者は250名中92名。大須事件では、269名中150名が在日だった。
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こうした騒乱事件の多発に対し、大須事件直後の7月13日、民戦中央本部は、実力闘争偏重を批判する。第一線の実行部隊が朝鮮人である場合が多かっただけに、切実だった。一方、日本共産党は、12月中旬になっても全国軍事会議を開催し、武装闘争と日常戦闘との結合を強調するなど、極左冒険主義は改めそうになかった。
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血のメーデーから2年後の1954年(昭和29年)8月30日、日本政府の朝鮮人処遇について、北朝鮮外相による抗議声明が発表された。朝鮮人への扱いは国際法違反であるとして、「在日朝鮮人は朝鮮民主主義人民共和国の公民」であるから、当然の権利を認め、日本居住、就業の自由、生命財産の安全を保障するように日本政府に要求した。北朝鮮政府が、在日朝鮮人の利益を代表するという立場の表明だった。
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その年の10月30日、中国紅十字会(赤十字)代表団の一員として、中国の対日工作の最高指導者、廖承志が来日する。廖承志はあいさつの中で、「在日中国人団体は、日本の政治に干渉してはならない」と語った。北朝鮮政府の声明と、廖承志のあいさつは、関連性がないように見える。しかし、実はともに、暗に日本共産党の在日朝鮮人運動に対する指導性を否定するものであった。これが、在日朝鮮人運動の“路線転換”を促す契機となる。
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■結成時、一斉に離党
1955年(昭和30年)1月1日、共産党はようやく、機関紙『アカハタ』で「極左的冒険主義と手を切る」と発表した。その後、在日朝鮮人活動家の間では、二つの考え方が対立するようになる。一つは、北朝鮮支持の旗を実際に日本国内で掲げるべきという考え方。
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もう一つは、幅広い統一戦線をつくるために、旗は心の中に掲げるべきという日本共産党民対の考え方であった。対立は激しかった。ここにキー・パーソンが登場する。韓徳銖である。後に朝鮮総連中央常任委員会議長、北朝鮮最高人民会議常任委員を歴任する彼は、1907年(明治40年)慶尚北道で生まれている。1927年(昭和2年)渡日して、日大専門部に入学(後に中退)。
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共産党系の労組である全協に加入し、1934年(昭和9年)、熱海線トンネル工事の争議に加わり検挙される。戦後は朝連に参加。朝連中央本部総務局長などを歴任した。韓徳銖は、共産党の指導下で日本革命を共に目指したいわゆる“民対派”に対して、朝鮮や朝鮮労働党との結合を(おそらく朝鮮労働党側の内意を受けて)主張した“民対派”として、在日朝鮮人運動の路線転換に主導的役割を果たした。
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1955年(昭和30年)3月11日、民戦は中央委員会を開いた。その席で韓徳銖は“在日朝鮮人運動の転換について”演説する。反対派のヤジが激しく、中断せざるをえなくなった。だが、彼の作った路線転換への流れは変わらなかった。5月23日、浅草公会堂で最後の民戦6全大会が開かれ、翌24日解散する。こうして1955年5月25日、今からちょうど50年前、民戦解散の翌日、朝鮮民主主義人民共和国支持、日本の内政不干渉を掲げて、在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)が結成された。共産党に党籍のあった在日朝鮮人は一斉に離脱した。
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同年7月24日、共産党は民族対策部を解消。朝鮮人党員離党の方針を決定することで、これを追認した。戦前、戦後の最も苦しかった時代、共産党の中で最も困難な仕事を引き受け、党を支えたのは在日朝鮮人の人々であった。共産党の正史では、そのことに一言も触れられていない。
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半世紀という歳月は、共産党と朝鮮総連という二つの組織を、全く別々の遠い所まで連れていった。在日朝鮮人と日本共産党が、共に夢見た濃密な“時”を振り返る者ももういない。
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転載終わり
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