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昭和49年・漁業権放棄で補償金受領!
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佐世保市は佐世保重工業とは表裏一体の関係にある。1946年(昭和21年)に旧日本海軍の佐世保海軍工廠の土地や設備を受け継ぐ形で設立された佐世保重工業。船舶、艦艇の建造及び改造、修理そして、基地を持つ海上自衛隊やアメリカ海軍の艦艇の保守、修理なども手がている。
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基幹産業の佐世保重工業の収益は、佐世保市の歳入に大きくかかわり、昭和30年代序盤の経営危機は香港の東方海外貨櫃航運公司より大型船の発注を受け、危機を脱出。
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昭和38年に米軍の定めた制限水域の改善を求め、9月23日閣議決定が行われ水域問題は解決した。ベトナム戦争泥沼化による経済ひっ迫で、ニクソン大統領は極東地域の基地を縮小、撤去、集約し海外派兵を中止すること等を内容としたニクソンドクトリンを発表。佐世保の基地も縮小され、昭和45年は253隻あった入港数は、翌年には127隻、47年には93隻に激減した。日本人従業員も大量解雇され、その離職者対策が深刻な社会問題となった。
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市は、企画部、港湾部が中心となり、佐世保港の長期総合計画を新たに策定、佐世保港再開発の障害となっている米軍提供施設及び海上自衛隊施設の統合整理を積極的に図り、その跡地を整備して造船産業関連工場の団地を造成しようと計画。昭和46年10月1日、市は6項目の返還陳情書を総理大臣はじめ関係省庁に提出した。
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1.佐世保ドライドッグ地区の返還
2.立神港区第1号~第6号岸壁の返還
3.佐世保弾薬補給処の返還
4.崎辺地区(共同使用中の海上自衛隊敷地を含む)の返還
5.赤崎貯油所の返還
6.制限水域全面、但し残存する米軍提供施設前面水域は、A制限とし現状のままとする。
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崎辺地区の返還運動の発端は、昭和48年5月28日、市長に対し当時の佐世保重工業社長並びに佐世保造船所長が、崎辺地区に100万トンドックを作らなければ同社の新造船部門は他市に転出しなければならないと表明したことに始まる。
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これを受け、佐世保市は米海軍並びに海上自衛隊に対し、崎辺地区の必要性を打診するとともに、積極活動を展開し、最終的に6月1日、5者(県知事、県議会議長、市長、市議会議長、市商工会議所会頭)連盟による返還陳情書を米軍、自衛隊はじめ政府関係各方面へ提出した。
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6月19日に「崎辺地区即時返還要求市民会議」が結成され、官民一体となった返還運動が功を奏し、7月17日に正式に日米合同委員会に提案され、2か月後の9月18日米軍が基本的合意に達した旨の連絡を現地司令官より受け、昭和49年2月7日、同委員会で正式に合意が成立した。
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オイルショック(1973年・昭和48年(第1次)と1979年・昭和54年(第2次)に始まった(ピークは1980年)、原油の供給逼迫および原油価格高騰と、それによる世界の経済混乱である。)では、大型船の受注が途絶え、SSKは破たん寸前に追い込まれた。当時の佐世保市長は国に救済を要求、政財界の要請で坪内寿夫率いる来島どっくグループに再建を委ねた。
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昭和49年10月3日、崎辺返還に絡み、佐世保市、佐世保市漁協、SSKが漁業補償の調印をした。
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昭和49年12月26日、崎辺地区の返還調印がなされた。佐世保市漁協が漁業権放棄をし、補償金を手中にしたにも係わらず、海上自衛隊と片岡一雄理事長が癒着できる素地が何処にあったのであろうか。
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つづく
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